司馬遼太郎著書
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          歴史の邂逅(3)

■坂本竜馬は維新史の奇蹟

<本文から>
 坂本竜馬は維新史の奇蹟、といわれる。
 たしかに、そうであったろう。同時代に活躍したいわゆる英雄、豪傑どもは、その時代的制約によって、いくらかの類型にわけることができる。型やぶりといわれた長州の高杉晋作でさえ、それは性格であって、思想までは型破りではなかった。
 竜馬だけが、型破りである。
 この型は、幕末維新に生きた幾千人の志士たちのなかで、一人も類例をみない。日本史が坂本竜馬を持ったことは、それ自体が奇蹟であった。なぜなら、天がこの奇蹟的人物を恵まなかったならば、歴史はあるいは変っていたのではないか。
 私は、年少のころからそういうことを考えていた。新聞記者のころ、すこしずつ資料をあつめはじめた。
 「薩長連合、大政奉還、あれァ、ぜんぶ竜馬一人がやったことさ」と、勝海舟がいった。
 むろん、歴史とはそんなものではない。竜馬ひとりでやれるはずがないのだが、竜馬がいなかったら、事態の模様はちがったものになっていたろう。
 その竜馬のもっているどの部分が、それをやったのか。
 また、一人の人間のもっている魅力が、歴史にどのように参加してゆくものか。
 さらに、そういう竜馬の人間像が、どのようにしてできあがってゆき、まわりのひとはそれをどのようにみたか。
 そういうことに興味をもった。
 いつか、それを小説に書こうとおもいつつ歳月をすごした。
 やっと書きはじめたのは、昭和三十七年の初夏からである。私自身、そこで十余年をすごした新聞にかきはじめたことは、偶然なことながら、一種の感慨がある。
 私ごとき者の小説が、これほど読まれたことは、かつてない。いまなお、書いている。この物語が終了するには、あと二年余を要するであろう。
 出不精な私にしては、竜馬像を足で確かめてみたいと思い、できるだけ歩いた。
 多くのひとから、教示も得た。
 この取材旅行中、私は、さまざまの幸運にめぐりあった。
 竜馬が千葉家からもらった北辰一刀流の免許皆伝の伝書一巻を見ることができたのも、そのひとつである。
 この伝書は、明治以後、縁族のあいだを転々としていたが、ついに大正の末年、その最後の所有者が渡米したために彼地に渡っていた。
 この小説がはじまったころ、たまたまその所有者につながりのある婦人が帰日して、高知県庁をたずね、
 「私どもには不要のものだから」
 と、永久保管を託した。
 県庁でべつな資料をみるために立ちよった私は、偶然それをみた。
 奇縁におどろいた。
 竜馬というひとは、年少のころから太平洋を越えてみたいと念願していた。その魂塊が、一巻の伝書に宿って海を渡ったのかとおもった。
 いや、伝書などはいい。竜馬は、生きている。われわれの歴史のあるかぎり、竜馬は生きつつけるだろう。私はそれを感じている自分の気持を書く。冥利というべきである。 
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■龍馬死後のおりょう

<本文から>
 高知城下本町筋一丁目の坂本家に入ったおりょうは、竜馬の兄権平や姉乙女とはじめて対面した。とくに乙女については竜馬からさんざんきかされていたので、初対面ともおもえなかったであろう。
「私を真実の姉と思いなさい」
 といって「坂本のお仁王様」はおりょうを大事にもてなした。が、次第に仲がわるくなってきた。乙女にすれば竜馬を育てたのは自分だと思っていたし、事実そうであった。かつ竜馬を理解するところが最も深かったから、なんだこの女、という底意地のわるさもつい出てきたであろう。乙女とおりょうは、女仕事ができないという点では共通していたが、相違する点も多い。乙女は武家女としての教養がありすぎ、その節度の美しさももっている。その節度美をもって人を見、他人を律するから、無教養でどこか投げやりなところのあるおりょうが許せなくなったように思われる。
「竜子、家を守らず、非行を敢てす。乙女、怒って竜子を離別す」
 土佐の記録にある。たたき出してしまったのである。しかし土佐の土陽新聞明治三十二年十一月八日付のおりょうの回想談のなかに、
「姉さんはお仁王という名があって元気な人でしたが、私には親切にしてくれました。私が土佐を出るときにも、一緒に近所へ暇乞いに行ったり、船まで見送ってくれたのは乙女姉さんでした」
 とあり、いっこうに不仲らしくもない。察するに乙女はこの「善悪さだかならず」(佐佐木三四郎) という女性に対し、腹にすえかねることがあっても、表面ニコニコしていたのであろう。が、親戚などのおりょうへの不評もあってついに、
 「あなたは出てゆきなさい」
 と、乙女らしい単刀直入でからりと申しわたしてしまったかと思われる。
 「まことにおもしろき女にて」
 とは、竜馬が手紙で乙女に紹介したおりょうの人柄である。が、竜馬の目からみるときらきらと輝いてみえたおりょうの性格は、他の者の冷静な目からみればそのあたらしさは単に無智であり、その大胆さは単に放埼なだけのことであったのだろう。おりょうの面白さは竜馬のなかにしか棲んでいない。
 高知を出てから、おりょうはその故郷の京都へ行った。竜馬の墓守りをする、とひとにも言っていたが、墓守りでは食えない。おりょうには養うべき老母や妹があった。その後、東京へ出た。東京にさえ出れば竜馬の友人がいる。最初、西郷隆盛を頼ろうとしたが、西郷は征韓論にやぶれて鹿児島へ帰ってしまっていた。海援隊関係者も、中島作太郎や自蜂駿馬は洋行中であった。
 放浪のすえ、横須賀に住み、人の妾になったりした。明治三十九年、六十六歳で死んでいる。
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■竜馬の幸福は、何よりも先入主がなかったこと

<本文から>
 竜馬の幸福は、何よりも先入主がなかったことでした。前時代的な、教養がないのです。身分の高い家に生まれて、行儀作法を叩きこまれたら、これは革命家にはなりません。前時代にそまっていないことが、竜馬を革命化していく。それも当時の志士たちの抱いていた革命思想とはまったく趣きを異にしたものです。これは、『竜馬がゆく』を書きながらわかってきたのですが、他の志士たちが討幕に生死を賭けているときに、竜馬はそれをいちずな目標にしていない。竜馬の革命は観念からでなく、実務感覚から出ている。長崎から出てきて、薩長連合をつくると、また長崎に戻っていく。大政奉還の後に新政府のリーダーを選ぼうというときにも、自分の名はリストからはずしている。これは陸奥宗光の側の史料からわかったのですが、彼は決して無私の精神からそうしたのではない。新政府の大臣になるようなところには彼の野望はなかった。あくまで貿易という実務が夢だった。「自分は早く貿易をやりたいのだ。君たちはもたもたしてくれてはこまる」という立場でした。
 しかし、それにしても明治の統一国家をつくるために果した彼の功績は大きいと思います。その竜馬の名が、西南戦争(一八七七)を期に歴史のなかから消えた。西南戦争というのは、西郷の人望と、薩摩の土俗的な士族の軍事的な強さが中核になっている反政府運動ですが、自由民権の芽も濃厚に混じっていますから、いまで言う野党連合だった。近代の日本に、ついに健康的な野党が成立しなかったのは、それがこのとき、完全に軍事的に制圧されたからだとも言えるでしょう。このとき、坂本竜馬および竜馬的人物というものもまた、国権的祭壇におさまらなくなってしまった。結局、明治国家が八十年で滅んでくれたために、戦後社会のわれわれは、明治国家の呪縛から解放された。ここで、当時の人物たちを、あらためて素直な目で眺めることができたと言えるでしょう。竜馬の変なところは戦後のわれわれにとって、非常に近しい存在に思えてくることです。歴史の中でいつながめてもわれわれを退屈させずに新鮮でいる人間というのは、わりあい少ないようです。
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■海援隊の軍事力で発言力をもつ

<本文から>
 ところがもっと考えてみますと、龍馬は藩に相当する海援隊を持っていた。この海援隊は五、六万石の力があるだろう、といわれていたぐらいです。実際はそんなに力はないので、多分に龍馬のホラが入っています。しかし、何といっても西洋式の機帆船を持ち、しかも浪人結社を長崎に持っているのですから、力といえば力なのですが、小藩ぐらいの軍事力はあるだろうと思われていた。
 そういうものを背景にしてしか、発言というものは力を発揮しないものだ、そうでなければ評論になるということを、龍馬は知っていたようです。これは坂本龍馬の革命家としてのおもしろさです。幕末の頃にはいろいろなおもしろい革命家が出ましたが、あの時期に、この点に気がついたのは、龍馬ぐらいのものだったのではないでしょうか。
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■本質だけをのみ込むのは得手

<本文から>
 龍馬はアメリカへもフランスへも行ったことはないのですが、何か一つボンと言われると全体像がわかる頭を持っていた。それはいつでも問題意識があったからだと思うのですが、例えば、『竜馬がゆく』にも書きましたが、河田小龍という、絵も描きオランダ語も少しできる人が、洋学的には遅れた土佐藩にいた。この人も郷士身分だったと思います。その人が塾のようなものを開いていて、物好きな若い藩士がそこへ押しかけていっていた。彼はオランダの憲法の講義をしたのではないだろうか。ご存じのようにオランダはすでに当時市民社会が成立 していて、ある意味では世界で一番先進的な社会を持っていた国ですから、その憲法の講義というのは、土佐の青年たちにとっては新しい世界像を考える上で、割合おもしろい教材だっただろうと思うのです。ところが「先生、いまの御解釈は誤訳でしょう」とオランダ語の一つも知らない龍馬が言うのです。河田小龍は、この不出来なやつが何を言うかと、不愉快がった。
 しかし龍馬は「もう一度原文をよくみてください」と言う。そうすると、なるほど誤訳だったのです。
 というのは、要するに憲法、民主主義の本質を龍馬なりに知っていたのです。ところがその本質とは違う訳がでてきたので、そんなことがあるはずはないという気持です。語学的に変だというのではなくて、本質論で違うと思ったのでしょう。龍馬には諸事そういうところがあった。つまり本質だけをのみ込むのは得手だが、枝葉のことは苦手なところがあった。だから発言というのはパワーを必要とすると思うと、海援隊をつくる。
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■なぜ松陰ひとりだけが神のごとき影響力を門下の青年にもちえたか

<本文から>
 さらにおどろくべきことは、かれが点火に要した時間(かれが松下村塾をひらいた期間)がわずかな期間でしかなかったことである。安政二年(一八五五)十二月、藩命によって自宅に幽居せしめられたときから勘定しても満三年にすぎず、塾の体裁をなした同三年八月からかぞえれば二年半に満たない。門人は唯一の例外(高杉晋作)をのぞけば、みんな足軽程度の下級藩士の子弟であり、伊藤博文のように入門当時藩士の列にはいっていない階層の者もいた。塾の客分ともいうべき木戸孝允(桂小五郎)は、のち伊藤に体裁だけでも藩士の資格を得させるために「桂小五郎付庸」という名目をあたえたが、このとき藩の上土である桂は「こうなれば主従ということになるが、それは届け出の形式にすぎぬ。君も私も同志である以上同格だ」といった。こういう同志平等の気分というのは他藩にはまったくなかったものであり、長州でも松下村塾だけの独特な気分であった。松陰の影響といっていい。
 松陰は、わかりにくい。
 なぜこれほど鮮烈な影響力をもちえたかということを考えるのに、その書き残した書きものだけではつかみにくい。松陰は思想家(きわめて実践的な)ではあったが、その論文書簡のたぐいのほとんどは当時の時局問題に関するものであり、これについては井上哲次郎も『日本陽明学派之哲学』のなかで「松陰、国家多難の時にうまれ心を政事に労し、しづかに学理を講究する余裕を有せず。年わづかに二十九にして大辟(死刑)に遇ふ。故に時務に関する諸著は多きも、学理の見るべきものはほとんで稀なり」と書いている。松陰は、ロンドンに著述に没頭したマルクスではない。おのれの思想を酵化し、すぐさま行動に移し、行動こそ唯一の思想表現の場であるとする陽明学的体質の人であり、自然、行動と遺著をあわせて考えていかなければ接近できない。しかしそれを考えただけでまだ松陰が出て来ないのは、この種の人物は松陰だけではないからである。なぜ松陰ひとりだけが神のごとき影響力をその門下の青年にもちえたのであろう。
 結局は、松陰は現実のなまのかれ自身に会ってみなければわからぬような、そういう機微な人格的魅力をもった人のようにおもえる。その人格的機微にふれたとき、ふれた者はその場からでも走りだしたくなるような人物ではないかとおもわれる。すると、アジテーター(扇動家)か、といえばもう間違う。松陰の精神は人を扇動しようとするような、がらのわるい、げびた精神とはおよそうらはらなものであり、松陰にとっては他人が動こうが動くまいが、すべてがおのれの問題なのであり、おのれはどうすべきかということしかない。このあたりに、思想家、革命者として松陰は西洋の類型とはまったくちがった本質があり、フランス革命にもロシア革命にも中国革命にも、松陰のような人物はいなかった。人間はどう生くべきかについて松陰はおそろしいばかりに透徹している。
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■優しさと親切さ、長所を指摘され、自身がまっさきに動く松陰に、弟子たちは尋常でいられるはずがない

<本文から>
 松陰全集に、かれの門人や縁辺のひとがその人柄を語っているが、なんといってもかれにおいてきわだっているのは、その他人に対する親切さと優しさであるらしい。門人にも怒った顔をみせたことがなく、ことばづかいが丁寧であったという。「非常に親思いで優しい気質でございましたから、父や母に心配をさせまい、気をもませまいと始終それを心がけていたようでございます」
 かれが野山の獄にあったとき、同獄の札つきの悪党どもはことごとくかれを慕い、ことごとく改心したという。
 かれは、一座の囚人たちに言う。人間にはたれしも長所がある、君はどうやら書がうまい、われわれは君を師匠にして書を学ぼうではないか、などと提案し、書のけいこ中は座をさがってその囚人を師として過した。俳句ができる囚人がいると、松陰はみなを説いてその囚人の弟子になり、教わった。凶悪犯ですら、師匠に立てられた以上は凛然として師匠の気分になるであろう。さらには自分の長所を発見されたうれしさは、たとえようもなかったにちがいない。松陰自身は「自分は君たちのような芸がない」として、孟子を講じた。松陰にあっては人間はじつに平等らしいが、この階級差別観のなさはかれがその思想によって到達したものではなく、その天性ともいうべき人間に対する親切と優しさに根づいているらしい。
 囚人ですら、感奮した。
松下村塾の塾生たちがふるいたたないはずはないであろう。むろん、かれらが松陰に接しておこす異様な昂奮は、この優しさと親切さだけによるものではない。囚人を相手にしてすらその者の長所を指摘しえた、その天才的としか言いようのない人間の資質についての洞察眼のするどさを考えねばならない。
 かれは、塾生ひとりひとりの資質を考え、その長所をえぐりだしては、その者に示した。
 「君はこの点で他人よりきわだっている」といわれたとき、松陰の当時のことばでいえば情夫もまた立たざるをえないであろう。松陰がその塾生ひとりひとりに指摘するところをながめてゆくと、松下村塾の者はたれ一人尋常一様の者は居なくなってしまう。何者かは天才であり、何者かは不抜の義士であり、何者かは百世に一人という烈士であり、かれら自身が松陰に指摘されて愕然としておのれに気づくとき、結局はそうならざるをえないにちがいない。松陰のふしぎさはそこにある。
 さらには松陰のその魅力は、弟子を動かそうとしてそれをしたのではなく、かれ自身がまっさきに動こうとし、事実動き、結局は「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」というかれの下獄の感想のように、すすんでその志操と思想に殉じたことであった。
 こういう師に接していては、弟子たちは尋常でいられるはずがない。
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■大久保利通の奇蹟は、破壊と建設とちがった領域を、一人の人間でやりえたこと

<本文から>
 この時期、藩は幼主を当主にしていた。その摂政というべき立場が島津久光であり、久光は実質上の藩主であったといっていい。
 ところが、久光は天性の保守家であるばかりか、前記の斉彬擁立運動時代の大久保にとって敵であった。敵の時代になった。が、大久保は絶望しなかった。−おれは久光にとり入る、と、決心した。大飛躍であり、なまなかな人間にできるものではないであろう。大久保が考えているかれの至上目的のためには常間にすらなろうとした。なぜならば久光をうごかさなければ薩藩はうごかず、薩藩がうごかなければ天下の事は成らない。いいかげんな潔癖家のできることではなかった。久光は碁がすきであった。大久保はこの久光にちかづくためにまず碁からならった。
 ついに久光のとり入りに成功し、その久光を魔法にかけることによってそれまで岩盤のようにうごかなかった薩摩藩が藩ぐるみゆらゆらとうごきはじめ、時勢のなかにおどりはじめ、やがては革命の主動勢力になってゆく。
 大久保利通が演じた奇蹟は、破壊と建設というおよそちがった領域を、一人の人間でやりえたことであろう。
 革命家の才質は、才能という以上にきわめて気質的なものだが、そういう気質は旧秩序を破壊するばあいに最大の効力を発することがあっても、あたらしい秩序をきずきあげるにおいてはほとんど無力か、ばあいによっては多分に有害である。大久保のパートナーであった西郷隆盛は、その豊かすぎる正義感と、その人格力による大衆結集の力、そして破壊へのすぐれた戦略感覚という三つの点においてたしかに倒幕の最大の功労者たりうる器質をもっていた。しかしその器質は芳醇であっても多分に酒精が含有している。平和になったあとの日常的な建設にはむきにくいのである。倒幕期の西郷には、倒幕後の現実的なビジョンがなかった。あっても尭舜の世か、ソクラテスの哲人政治のような、格調は高くとも、なまぐさい人の世にはむかぬ夢のような理想国家であったであろう。
 が、大久保はちがっている。
 「変動期の政治というのはやりたりなくともいい。やりすぎることはすべてをうしなうことだ」
 という意味のことをつねにいった。徹底した漸進主義者であった。かれが革命家であったことからみればまるで別人のようなこの政治哲学をもった。さらにおどろくべきことは、かれの理想にちかい政治家の例は徳川家康であった。とくに関ケ原の役後、家康は社会の動揺をおそれ、あたらしい政策をうちだすことにきわめて臆病であったが、大久保はこれを真に世を知る者として口をきわめてはめ、徳川家の旧臣であるかのように「神君」と尊称している。自分が敵として打倒した旧政権の開祖を真正面からほめてその知恵をまなぼうとするあたりに、大久保のふしぎな性格と、建設者としての性格と才能の秘密を喚ぐことができるといっていい。
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■『翔ぶが如く』孤島になった東京政府と、巨大な西郷幻像との対決を主題

<本文から>
 明治四年、かれらの旧主である大名を廃止(廃藩置県)してしまっただけでなく、自分たちの仲間である全国数百万の士族を失業させたのである。
 おかげで、四民は平等になった。だが農民に対しては、租税を米でなく現金でおさめよ、と命じた(米で国家予算を組むことができなかったためである)。農民史上、かれらをもっとも苦しめたのは、この金納制だったのだが、ともかくも四民それぞれの苦しみのなかで、まがりなりにも国民国家が成立した。
 明治維新についてひとびとが堪えたのは、そのようにしなければ西欧の植民地になるという危機意識が津々浦々にいたるまで共有されていたからであったろう。太政官は、その危機意識の上にのっていた。しかし明治四年以後、全国規模で不満がくすぶりはじめ、東京政府は不平の海の中の孤島になってゆくのである。
 孤島≠フ頂点に、薩摩出身の大久保利通がいた。大久保は経給家として不世出だったし、かれとその配下の官員たちは有能だったということもあって、かれらが明治十年までにつくりあげた新国家は、その後の日本国の原形をなしたといっていい。
 当初、その政権に西郷隆盛もいた。という以上にかれは倒幕の総帥ともいうべき存在だったから、本来、東京政府はかれの政府といってもよかった。口うるさい英国公使パークスさえ驚歎した明治四年の廃藩置県も、西郷がよろしかろう″と承諾したことによって、さらには個人的威望によって可能だったともいえる。
 その後のかれのふしぎさは政権からつねに一歩退き、やがて世捨てびとのよぅになったことである。
 かれは、稀有なほどに巨大な感情の量を蔵していた。かれは、威張ったり、栄華を誇ったりする官員たちに対して激しい嫌悪を感じ、たとえば詩の中でかれらを「虎狼」とののしり、秘かに人面獣心とつぶやいたりした。鬱屈のあまり、ついには、「何のために徳川家を倒したのか」とまで言い、自分がやった明治維新への疑問をさえもつのである。
 やがて単身、逃げるようにして東京を離れ、帰参した。その後、鹿児島で狩猟の日々を送っていた西郷は、すでに反政府という磁性を帯びた全国の不平士族にとって、大いなる磁石のようになった。
 さらには、当人はいっさいの政見を口にしないのに、救世主のような存在として印象されるようになった。百人が百通りの幻想を西郷に託し、やがて幻の西郷像が日本国をおおういきおいになるのである。
 『翔ぶが如く』 は、そういう情況の中で進行する。孤島になった東京政府と、巨大な西郷幻像との対決を主題としたつもりでいる。
 副主題は、読む(観る)人の受けとり方さまざまにまかせたい。
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