司馬遼太郎著書
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          歴史の邂逅(2)

■家康こそ運命を托して信ずるに足ると思わせる巨大な才能

<本文から>
 徳川家康を日本史上の最大の人物に仕立てあげた運は、たった一つ、かれが三河にうまれた、ということだ。かれが、中央に程遠い津軽のどこかに生れたならば、ついに律儀でおだやかな土豪として終っていたかもしれない。
 もともとこの人は、信玄や謙信のような戦術的天才もなく、信長のような俊敏な外交感覚もなかった。かれに右の三人より長じた才があるとすれば、部下の官僚(家康の部下だけが近代的官僚のにおいがする)に対する卓抜した統制力ぐらいのものであろう。かれがもし今日にあれば、律儀に受験勉強をし、律儀に東大に入り、律儀に公務員試験をうけてまずは有能な局長クラスにゆくに相違ない。
 ついでだからいうが、信長なら律儀に受験勉強などはせず、私大へ入ったであろう。それも中途でよして、芸術家になったに相違ない。信長はその趣味性だけではなく、政治、戦術感覚においても、芸術家的体質が濃厚であった。常識を事もなく破り、模倣をきらって創造に生き、どんらんに創造をかさねてついにその事業を、体系化しえずに破滅した。その盟友の家康には、芸術的体質はまるでなかった。秀吉はこんにちの人なら、彼は商売で貯財して代議士に打って出たであろう。代議士としては票あつめがうまく、選挙の神様などといわれたに相違ない。つまり秀吉が政治家であるとすれば、信長は前衛芸術家であり、家康は高級官僚である。
 官僚は、それ自らの力では、エラサが発揮できない。上級官吏なり、政治家なりの引きたて役を必要とする。家康の場合、引きたて役は、信長であった。
 家康は、少年のころから隣国尾張の信長との関係がふかく、最初は信長にいじめられ、つぎは利用され、ついには引きたてられた。
 といって家康は、信長の家臣ではない。その同盟者で対等である。信長は家康を弟のように愛した。いや、弟よりも愛した。戦国武将の家にあっては、弟でさえ時に自分の地位をうかがうおそれがある。現に信長の場合、勘十郎信行がそうだった。
 信長が家康を愛したというより、家康が信長に愛されるようにした。信長という烈々たる能動精神の持ちぬしと仲間になるためには同じ能動精神を発揮してはうまくゆかない。受け身に徹底する必要があった。信長の生存中における家康の能産は、信長に対してきわめて女性的だった。こんにちでいえば、家康は信長の下請会社の社長にあたる。下請会社を維持するためには、徹底的に律儀であることを必要とする。信長の生存中の家康は、律儀に徹した。
 元亀三年、武田信玄が甲斐の軍勢をこぞって西征の途につくや、家康は部下の反対を押しきって信長の利害のために、かなわぬまでも対武田戦にふみきり、果然三方原に戦って大敗を喫した。少々の小才子なら、ここで強者の信玄につくであろう。つかぬまでも、多少の動揺はみせるであろう。家康は愚直なまでに律儀だった。ただの小心者の律儀ではなく、律儀のためには千万人といえどもわれ征かんというていの律儀である。世間あいさつ的な律儀ではなく、生命を賭けたいわば男性的な律儀さで、この一戦の律儀さが、家康の生涯を決定した。
  三方原の敗北によって、信長が、心胆に銘じて家康を信頼するにいたったことはいうまでもないが、同時に、戦国社会の世評のなかで、徳川家康という人間像をもっともクッキリとうかびあがらせた。家康こそ運命を托して信ずるに足る、と思わせた。秀吉の死後、秀吉の大名がこぞって家康のもとに奔ったのは、この信頼感によるものだ。律儀は単なる性格ではない。離合集散の常でない戦国社会にあっておのれの律儀をまもることは、奇跡にちかい努力を要した。
 それは才能でさえあった。家康に天下をとらしめたのは、この巨大な才能といえるだろう。
 この「才能」は、少年時代の家康の環境によって育てられた。 
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■家康の「待てる」という才能

<本文から>
 家康は、兵をふたたび浜松城に返し、すでに軍が動員体制のままであったのを幸い、せっせと近国を斬りとりはじめた。甲斐を攻め、信濃を略した。じつにぬけめのないやりかたである。
 京に旗をたてた秀吉に対抗するには、まず領国を強大にしておく必要があったのだ。
 家康にすれば、秀吉は親会社の一部長にすぎない人物である。それが重役(信長の子どもたち)をとびこえ、先輩部長(柴田勝家たち)をさしおき、故社長の葬儀委員長をつとめたというだけの名分で、次期社長になりつつあるのだ。家康と信長とは主従ではなく、盟友である。仲間である。秀吉は、一軍事官僚にすぎなかった。おそらくこれ以前に秀吉が家康に会うことがあっても、腰をかがめ辞をひくくして接していたであろう。家康のほうも、また威張ることはできなかった。親会社の部長の機嫌を無用に損じては、どういう蔭ロを社長にたたかれるかわからないからである。つまりそういう関係だし、それだけの関係でしかなかった。秀吉の出現をきいたとき(ほう、あの男が)とおどろいたろう。(運のいいやつだ)と思ったに相違ない。
 なぜ秀吉が好運かといえば、秀吉はこの当時江州小谷二十二万石の領主にすぎなかった。かれが野戦司令官を命じられていなければその分際だけの軍を動かせるにすぎない。ところが、かれは信長の最大の敵である毛利を討伐するために、おびただしい軍勢を貸与されていた。同僚である諸大名も、与力としてその指揮下に付けられていた。つまり臨時の部下になっていたそのままのいわば官給体制で天下への階段を一挙にのぼってしまったのだ。信長の一属僚にすぎなかった秀吉が天下をとりえた秘密はここにある。
 家康はそういう好条件にめぐまれていなかった。やはり家康という男の運は、待つしか仕様のないものであったのだろう。その「待つ」ということが家康の特技であった。並みな人間はあせる。「やがて運はまわってくるさ」と、悠々とその間、自分の手近かな仕事を深めていける人物はすくない。家康を後年天下人にさせたのは、この「待てる」という才能も大いにあずかって力があった。
  天正十二年四月、家康は、秀吉みずからの率いる大軍と尾張の長久手で会戦して大いに破った。戦勝の理由は、敵の秀吉軍が、秀吉に対して明確に主従関係の確立していない部将が多かったのに対して、家康の魔下はほとんど家臣であり、その中核は、団結にかけては天下一の三河武士であったからだ。家康の軍事的才能は、この戦勝によって天下に喧伝された。戦いは勝利であったにもかかわらず、秀吉と和を結んだのは、家康が保護している信長の子信雄が、家康をさしおいて単独講和したため、戦いの名分がなくなったからでもあるが、それよりも家康の時代観察眼によるものであった。天下は秀吉のものになりつつあるのを見ぬき、秀吉に打撃をあたえただけで、つまり天下におのれの威信を示しただけで、微笑をもって講和した。秀吉が、家康に生涯一目おいたのは、この長久手の合戦があったからだ。相手に恩をきせて和睦するなどは、家康ならではの芸であろう。家康の英雄は、この一事をもってしても証明しうる。
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■戦国の世でこれほどの信用のある男は家康しかいなかった

<本文から>
 だから、織田・徳川同盟などは、朝露のように頼りないものであるはずだったが、これが、信長の死までつづいた。つづいたのは、家康が絶対違約しなかったからである。家康は律義そのものの男で何度か信長に煮え湯をのまされたが、それでも裏切らなかった。
 「三河どのの律義」
 というのは、天下に知られるようになった。どの大名も家康の言葉だけは真にうけて大丈夫という見方をもった。戦国の世でこれほどの信用のある男はいなかった。
 話はずっとのちになるが、秀吉が死んで幼主秀頼がのこり、天下がゆらいだとき、豊臣恩顧の大名でさえ、きゅう然と家康に款を通じた。
 当然なことであった。
 「内府(家康)にさえついておれば、わが家を悪くなさることはあるまい」という信用が、むしろ神話的になっていたのである。
 徳川家の天下を決定した関ケ原の戦いはこういう条件のもとに行なわれたもので、家康方で必死に働いたのは秀吉の子飼いであるはずの福島正則、加藤清正(たまたま肥後に在国中で合戦は近隣の西軍が相手だったが)、浅野長政らであった。かれらは、感傷としては豊臣への恩義を思っているが、現実では数十万石の大大名である。家来も多い。もし政治的に失敗すれば、多数の家来を路頭に迷わさなければならない。一片の感傷で自分の処世を決するわけにはいかなかったのである。家の保存のためには、何よりも安心なのは徳川家康につくことであった。
「内府は悪いようにはなさらぬ」
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■家康は権謀術数のすきな男でもなく、上手な男でもない

<本文から>
 家康は、後世「たぬきおやじ」といわれているが、かれは権謀術数のすきな男でもなく、上手な男でもない。おなじ戦国の英雄でも権謀術数の大家は、武田信玄であり、毛利元就であった。かれらにくらべると、家康などは生涯子供のようなものである。
 半生、信用に生きた。
 だからこそ他人の家来(太閤の遺臣)まであらそって家康を総帥に押したてたのだ。
 家康はそういう男である。
 かれが、たぬきおやじになったのは七十前後からで、当時大坂城には秀頼がいた。すでに二十になろうとしていた。
 家康自身は、七十の老人で、老いさき、長かろうはずがないが、秀頼はこれからの年齢である。もし自分が死ねば、せっかく自分になびいている豊臣恩顧の大名はふたたび豊臣家に帰るであろう。家康がせっかく得た天下は、砂上の楼閣になりかねない。
 ここで家康は、がらにもないたぬきおやじになった。まるで死にものぐるいのように秀頼をいじめ、だまし、ついにその家を覆滅した。
 家康が律義のカンバンをおろしたのは、そういう事情からであった。このため後世食えぬ男といわれるようになった。同情されていい人間である。
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■ドイツ参謀メッケルは、関ケ原の配備をみて石田方の勝利を宣言した

<本文から>
 結局、そういうドイツの参謀本部をメッケルが日本に移植した。メッケルは参謀教育をするのについては現地へ行くのです。これが当時のドイツふうですね。古戦場へ行く。古戦場で最大のものは関ケ原です。関ケ原へ参謀たちを連れていって、メッケルが統裁官になり、参謀を石田方や徳川方にさせて作戦の訓練をするわけです。その時メッケルはさほどの予備知識なくして関ケ原盆地へ入っていったのです、両軍の配備地図だけを持って。両軍の配備地図というのはもう徳川期にできておりましたですからね。メッケルはそれをじっと見ていて、「石田方の勝ち」とまず宣言したわけです。
 誰が見ても石田方の勝ちなんです。先にふれましたように、石田方は大垣から夜行軍によって戦場に先着していた。それ以前から到着していた部隊もある。それぞれが丘陵のいいところに場所を占めており、その丘陵たるや、東軍が赤坂から入るには一つしか道がない。赤坂というのはやや低い土地で、その低地から大げさにいえば登るようにして二列縦隊ぐらいで東軍が入ってこなければならない。これでは袋のネズミになるわけであり、部署からいえば、まさに石田方の勝ちなのです。
 ところが、当時の参謀−日本人将校たちが、いや、そうじやないんです、石田方が負けたのです、といっても、メッケルはそんなバカなことがあるか、これは石田方が勝ったのだ、といいはってきかなかったらしい。
 しかたがないので当時の政治情勢と徳川家康の威望を説明したわけです。家康が戦う前にすでに一種の世間の機運と自分の威望を計算しつくして、敵に対して内部工作をしていたこと、そして裏切り、もしくは戦場で中立をとる老が続出するであろうという期待を持っていたし、その手もうっていたーそれで結果がメッケルの考えたのと違うことになったのだ、と説明したのですね。
 するとメッケルはすぐに、ああ、わかった、政略は別だ。純粋に軍事的にみれば石田方の勝ちだが、その上に政略という大きな要素がのればこれはまた別だ、といったという話です。
 こういうことを知って、関ケ原というのはいよいよおもしろいな、と思うようになったのです。昭和三十年代のはじめのころだったでしょうか。それでいつか関ケ原を小説に書いてみたいと考えたのですが、当時は力量がそこまでいたりませんでしてね。
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■川路聖謨のすがすがしい印象

<本文から>
 幕末の能吏である川路聖謨(一八〇一〜六八)は、通称は三左衛門、のちの官称は左衛門尉、性行、進退ともども、すがすがしい印象を後世にあたえている。
 この人物については、悪しざまに言いようがない。幕末の困難な時代、内政と外政をよく処理し、しかも幕府の歴史的命脈がすでに尽きていることをひそかに予感しつつ、そのことで政治的激情を噴出させることなく、自分の職務だけを忠実に履行した。
 かれは江戸後期にうまれ、幕末のぎりぎりのころはすでに老齢のためにいっさいの幕政に関与していない。一八六八年、江戸開城の報に病床で接し、その翌日、部屋から家人を去らせ、自害した。平素、明るい気分の人物で、ユーモアも解した。そのせいか、自害までが、暗い印象をあたえない。
 自害は、こんにちの印象を通し見るべきではない。武士としての倫理規範のもっとも大きなものであり、であればこそ四民の上に立つとおもわれていた時代のことである。川路は、自分が禄を食んできた王朝に殉じたのだが、しかし旗本八万騎といわれたなかで、かれのように幕府の終篤とともにみずからを葬ったという例を知らない。
 −さすがに川路は三河武士だ。
 と、当時、この死について言うひとがいた。しかし川路の祖先は三河ではない。旗本ですらなく、かれの代になってにわかに旗本になった。累進して佐渡奉行になり、ついで奈良奉行、大坂町奉行、などを経て、顕職である勘定奉行の職につき、のち外国奉行にもなった。いずれの職にあるときも、無欲で、かつ異数の業績をのこしている。
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■近藤、土方には武士道について病的な強い美意識の反面、粛清の仕方はあくどい

<本文から>
 新選組結成当時は、隊内の系列は複雑で、どちらかといえば芹沢閥が強勢だったようである。近藤、土方らは、はじめ、表面ではこれに従いながら、ひそかに発して主導権をにぎる機会をうかがっていた。
 芹沢は、典型的な無頼漢だった。たとえば、四条堀川の呉服商菱屋でしばしば着物を買った。金をはらわず、番頭が何度も足を運んだが、
 「後日、後日」
 といって払う気配もない。主人の大兵衛が男よりも女のほうが交渉しやすかろうと思って、妾のお梅というのを壬生の屯所にやった。芹沢は掛けあいにきたこのお梅を白昼手寵めにして、情婦にしてしまい、借金もうやむやにしてしまっている。
 芹沢の乱行がかさなるにつけ、謀才のある土方は近藤に、かれを発すことを献言した。むろん、粛清によって試衛館閥が権力をにぎろうとするためだが、それだけではない。
 これは、のちの新選組の性格を知る上で非常に重要なことだが、近藤、土方には、武士道についての病的なほどに強い美意識があった。
 かれらは武士にあこがれて剣術を学び、幕府の御用浪士になることによって公認の武士になったが、それだけに、現実の武士以上に武士たろうとした。近藤、土方は、「士道不覚悟」という理由でどれだけ多くの隊士に切腹を命じたかわからないが、江戸中期までなら知らず、こういう酷烈なばかりの武士道主義は、当時の世間では、よほど田舎へでもいかなければ見られなかった。百姓あがりの近藤、土方が、武家出身の芹沢を、
 「士道不覚悟」
 をもって嫌悪した。出身についての劣等感があっただけに、必要以上に士道的な美意識をこの二人はもっていた。
 しかし、その粛清の仕方はあくどい。当時の武士階級の者なら、とうてい思いつきもしないはどの陰険な手段を用いている。美意識では武士だが、やり方は武士ではない。ロシア革命における貴族出身の革命家と労働者出身の革命家との性格の相違を思いだすがいい。党内の派閥闘争における近藤、土方の陰険な知恵は、先祖代々、地頭に支配されてきた階級の出身者のみがもつ特有のものといえるだろう。
 芹沢が殺された日、夕方から芹沢、近藤、土方は、隊士全員を連れ、島原の角屋へくりこみ、一同かつてないほどに泥酔した。泥酔させるように土方が運んだのであろう。
 ちなみに、近藤、土方はあまり酒がのめず、芹沢は名うての大酒家だった。この夜、かれは正体がないまでに泥酔した。
 芹沢は、その子分平山五郎、平間重助とともに壬生八木源之丞家を宿所にしていたが、三人が八木家にもどってきたのは、当夜の十時ごろであった。八木家の下男が玄関からかつぎ入れたほどにかれらは酔っていたという。
 角屋での酒宴で酔わなかったのは、近藤と土方、それに沖田総司、原田左之助など、その一党だけだったろう。
 深夜、この四、五人が、息を殺して芹沢の寝所に忍びこんでいる。芹沢は、お梅を頓に寝かせ、下帯もつけぬ素っ裸で熟睡していた。侵入者は、芹沢の刀を遠くへほうりなげ、一刀をあびせかけると、芹沢はけもののような声をあげて起きあがった。
 逃げようとする背後を、たれかが一太刀あびせようとしたが、剣突が高すぎたためにカモイに切りこんだ。そのすきに芹沢ほ縁側へのがれたか、たちまち物に蹴つまずいてころび、そのすきにつけ入った刺客のために致命傷を受け、さらに数歩、足をもがかせて別間へ倒れこみ、そこでなますのように切られた。
 お梅も、ふとんの上で惨殺され、死体は、みだらな姿になった。別室に寝ていた平山五郎も首のない死体になって、あとで発見された。平間重助のみは難をのがれて屋外に出、そのまま新選組を脱走して世間から消息を絶った。
 近藤閥の者は、当時、八木家のむかいの前川家を宿陣にしていたが、八木家からの急報をきき、なに食わぬ蕨をして近藤以下がやってきた。
 かれらは惨殺現場をささいに取りしらべ、まことしやかに「長州の奴ではないか」などと犯人の詮議ばなしをしたりした。八木家の家人は、その演技のしらじらしさに慄然とした。
 芹沢の葬儀は、文久三年九月二十日、新選組の手で盛大に行なわれている。内外には病死と公表された。近藤は、友情あふるる弔辞を読んだ。近藤にすればこの葬儀は、いくら盛大にしても盛大すぎることはなかったであろう。なぜならば、この日をもってかれは新選組の主導権をにぎったからである。
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■新選組の攘夷熱が恐ろしき政治的正義になった

<本文から>
 南多摩郡にくるときは佐藤屋敷に泊まり、この道場を中心に、あちこちに散在する村道場に出かけていた。佐藤屋敷では、歳三とふとんをならべて寝ることも多かったであろう。
 「養父は一生、田舎剣術の師匠として村々を歩いた。自分もそういう一生を送るのか」
 野望のつよい勇は、寝床のなかでそんなことを洩らしたかもしれない。歳三はときどき石田散薬をかついで江戸へ行商にゆく。勇のつぶやきが、身にひきかえて胸にこたえることもあったかもしれない。
  ともかくも歳三は、彦五郎の義弟なのである。勇が、歳三を他の門人と区別してこれを重んじたのも当然といっていい。後日のことになるが、京都で新選組を結成して早々のころも、彦五郎へ資金の無心をした。無心をするとき多くは歳三を通じておこなった。勇が新選組の総帥にはなったが、歳三が副長として組織を切り盛りしたのもごく自然なことであった。
 かれらを動かしていたのはどういう情熱だろうということを、甲州街道ぞいの土の黒い水田のあぜ道を歩きまわっていた頃、たえず考えていた。
 一つは、攘夷熱に相違ない。
 当時の日本人は、知識人でも日本史の知識をいまの中学生ほども知っていなかった。通史といえば『日本外史』一冊きりなのである。
 『日本外史』には『史記』に見られるような事実認識の精神はない。宋学イデオロギーをひきうつしにしたような価値観でつらぬかれ、宋学的尊王と宋学的壊夷が歌唱のようにうたいあげられている。日本中が、ペリー・ショックの戦慄的な危機意識のなかでこの書を読み、鋳型にはめたような尊王壊夷家になった。
 「志士」としての近藤勇も『日本外史』の愛読者で、ファンであるあまり、書まで山陽にまねた。
 かれが新選組をおこすについての正義は、『日本外史』的昂揚のなかから王城の治安をまもるというところにあった。
 ついでながら、正義という人迷惑な一種の社会規範は、幕末以前には日本になかったといっていい。言葉も、幕末に日本語になった。たとえば長州藩で反幕派が自派を正義党とよび、佐幕派を因循党とよんだ。
 正義という多分に剣と血のにおいのする自己貫徹的精神は、善とか善人とべつの世界に属している。筆者などは善人になれなくてもできるだけ無害な存在として生きたいとねがっているが、正義という電球が脳の中に輝いてしまった人間は、極端に殉教者になるか、極端に加害者にならざるをえない。正義の反対概念は邪義であり、邪義を斃さないかぎりは、自己の正義が成立しようもないからである。
 中国にも朝鮮にも正義という思想は古くからその官僚世界にあり、ひとつの「正義」を共有する者たちが他の「正義」を共有する者を邪義として打倒すべくたがいに朋党を組み、惨烈な党争の歴史をくりかえしてきた。こんにちなお、中国の政治現象をみれば、そのことを十分に理解することができる。西洋ではいうまでもない。正義の女神は盲信性をあらわすためかどうか、顔は目隠ししている。片手には正邪の判定のための秤をもち、別の手には邪をたおすための剣がにぎられている。政治的正義のおそろしさを、この目隠しと秤と刃ほど端的に象徴しているものはない。
 近藤は、その幾種類かの正義の市の人になった。
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■別種の正義

<本文から>
 一八六〇年(万延元年)に大老井伊直弼が水戸浪士らによって白昼殺されたことが、幕威を決定的に失墜させた。
 そのあとほどなく、いわゆる尊攘の正義をもつ激徒が京都にむらがり、佐幕派の要人を襲っては私刑にし、京都は無警察状態になった。
 幕府はこの対策として御家門の雄藩である会津藩の藩主松平容保を京都守護職に任じ、常駐させ、藩兵千人をもって京都の治安の回復をはからせた。
 時勢の流行思想が、尊王であった。将軍でさえ尊王の姿勢をとった。尊王の王というのは孝明天皇で、皮肉なことにこの人は強烈な佐幕家であり、たれよりも松平容保を信頼した。容保の正義の源泉はこの「王」からの信頼にあったといっていい。
  浪士結社である新選組はその成立前後にいざこざがあったが、やがて近藤勇とその党派が主権をにぎるとともに会津藩との関係が濃厚になり、いわばその爪牙になった。路上で「邪」を見たときは斬りすててもいいという非常警察権を容保からあたえられることによって、この組織は日常血しぶきをあびることになるのである。
  近藤の新選組になったのは文久三年(一八六三)暮で、四年後の慶応三年(一入六七)六月に近藤以下平隊士にいたるまで幕臣になる。
 志士であったということからいえば堕落であった。しかし元来江戸近郊の天領の百姓の子であった近藤としては将軍の権威が骨にしみ入ったものであり、それを守るために闘ってきた以上、幕臣にとりたてられるということは、主観的にその志とは矛盾しなかったらしい。しかしどこかばかばかしくもある。多様な正義のうちの一種類を掌ににぎって京都にやってきたはずの男が、正義の狂徒−正義と狂とは一ツ心の内と外だがーであることをやめて、単に家来という、奴としての忠誠の徒になったのである。
 これをきらい、もともと別種の正義をもっていたらしい伊東甲子太郎二派が分離し、薩摩藩の賄いをうけることになった。
 この年の十月に将軍慶喜が政権を返上し、将軍でなくなった上、幕府という呼称も消滅した。
 近藤の憎悪が、薩摩側に奔った伊東に集中した。
 十一月十八日、伊東は油小路で謀殺される。次いで伊東派の者たちがかけつけ、待ちぶせした新選組の連中とたたかい、あるいは斬られ、あるいは逃げた。
 明治期、薩長の「正義」が鼓吹された。
 同時代人である土佐脱藩の田中光顕によると、尊王はごくふつうの概念で、勤王という言葉が、世をくつがえす過激行動をあらわす言葉だったという。勤王とは火付、強盗とかわらない 語感のことばとして土佐の田舎ではうけとられていたという。
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■「峠」において、侍とはなにかということを考えてみたかった

<本文から>
 ひとの死もさまざまあるが、河井継之助というひとは、その死にあたって自分の下僕に棺をつくらせ、庭に火を焚かせ、病床から顔をよじって終夜それを見つめつづけていたという。自分というものの生と死をこれはど客体として処理し得た人物も稀であろう。身についたよほどの哲学がなければこうはできない。
 日本では戦国期のひとには、この種の人物はいない。戦国には日本人はまだ形而上的なものに精神を托するということがなかった。人間がなまで、人間を昂奮させ、それを目標へ駆りたてるエネルギーは形而下的なものであり、たとえば物欲、名誉欲であった。
 江戸時代も降るにしたがって日本人はすこしずつ変わってゆく。武士階級は読書階級になり、形而上的思考法が発達し、ついに幕末になると、形而上的昂奮をともなわなければかれらは動かなくなる。言葉をかえていえば、江戸三百年という教養時代が、幕末にいたってそれなりに完成し、そのなかから出てくる人物たちは、それぞれ形はかわっても、いずれも形而上的思考法が肉体化しているという点では共通している。志士といわれる多くのひとびともそうであり、賢侯といわれる有志大名たちもそうであった。かれらには戦国人のような私的な野望というものが、まったくといっていいはどすくない。
 人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸の武士道倫理であろう。人はどう思考し行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸期の儒教である。この二つが、幕末人をつくりだしている。
 幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。しかもこの種の人間は、個人的物欲を肯定する戦国期や、あるいは西洋にはうまれなかった。サムライという日本語が幕末期からいまなお世界語でありつづけているというのは、かれらが両刀を帯びてチャンバラをするからではなく、類型のない美的人間ということで世界がめずらしがったのであろう。また明治後のカツコワルイ日本人が、ときに自分のカツコワルサに自己嫌悪をもつとき、かつての同じ日本人がサムライというものをうみだしたことを思いなおして、かろうじて自信を回復しょうとするのもそれであろう。私はこの峠において、侍とはなにかということを考えてみたかった。それを考えることが目的で書いた。
 その典型を越後長岡藩の非門閥家老河井継之助にもとめたことは、書き終えてからもまちがっていなかったとひそかに自負している。
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