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<本文から> 徳川家康を日本史上の最大の人物に仕立てあげた運は、たった一つ、かれが三河にうまれた、ということだ。かれが、中央に程遠い津軽のどこかに生れたならば、ついに律儀でおだやかな土豪として終っていたかもしれない。
もともとこの人は、信玄や謙信のような戦術的天才もなく、信長のような俊敏な外交感覚もなかった。かれに右の三人より長じた才があるとすれば、部下の官僚(家康の部下だけが近代的官僚のにおいがする)に対する卓抜した統制力ぐらいのものであろう。かれがもし今日にあれば、律儀に受験勉強をし、律儀に東大に入り、律儀に公務員試験をうけてまずは有能な局長クラスにゆくに相違ない。
ついでだからいうが、信長なら律儀に受験勉強などはせず、私大へ入ったであろう。それも中途でよして、芸術家になったに相違ない。信長はその趣味性だけではなく、政治、戦術感覚においても、芸術家的体質が濃厚であった。常識を事もなく破り、模倣をきらって創造に生き、どんらんに創造をかさねてついにその事業を、体系化しえずに破滅した。その盟友の家康には、芸術的体質はまるでなかった。秀吉はこんにちの人なら、彼は商売で貯財して代議士に打って出たであろう。代議士としては票あつめがうまく、選挙の神様などといわれたに相違ない。つまり秀吉が政治家であるとすれば、信長は前衛芸術家であり、家康は高級官僚である。
官僚は、それ自らの力では、エラサが発揮できない。上級官吏なり、政治家なりの引きたて役を必要とする。家康の場合、引きたて役は、信長であった。
家康は、少年のころから隣国尾張の信長との関係がふかく、最初は信長にいじめられ、つぎは利用され、ついには引きたてられた。
といって家康は、信長の家臣ではない。その同盟者で対等である。信長は家康を弟のように愛した。いや、弟よりも愛した。戦国武将の家にあっては、弟でさえ時に自分の地位をうかがうおそれがある。現に信長の場合、勘十郎信行がそうだった。
信長が家康を愛したというより、家康が信長に愛されるようにした。信長という烈々たる能動精神の持ちぬしと仲間になるためには同じ能動精神を発揮してはうまくゆかない。受け身に徹底する必要があった。信長の生存中における家康の能産は、信長に対してきわめて女性的だった。こんにちでいえば、家康は信長の下請会社の社長にあたる。下請会社を維持するためには、徹底的に律儀であることを必要とする。信長の生存中の家康は、律儀に徹した。
元亀三年、武田信玄が甲斐の軍勢をこぞって西征の途につくや、家康は部下の反対を押しきって信長の利害のために、かなわぬまでも対武田戦にふみきり、果然三方原に戦って大敗を喫した。少々の小才子なら、ここで強者の信玄につくであろう。つかぬまでも、多少の動揺はみせるであろう。家康は愚直なまでに律儀だった。ただの小心者の律儀ではなく、律儀のためには千万人といえどもわれ征かんというていの律儀である。世間あいさつ的な律儀ではなく、生命を賭けたいわば男性的な律儀さで、この一戦の律儀さが、家康の生涯を決定した。
三方原の敗北によって、信長が、心胆に銘じて家康を信頼するにいたったことはいうまでもないが、同時に、戦国社会の世評のなかで、徳川家康という人間像をもっともクッキリとうかびあがらせた。家康こそ運命を托して信ずるに足る、と思わせた。秀吉の死後、秀吉の大名がこぞって家康のもとに奔ったのは、この信頼感によるものだ。律儀は単なる性格ではない。離合集散の常でない戦国社会にあっておのれの律儀をまもることは、奇跡にちかい努力を要した。
それは才能でさえあった。家康に天下をとらしめたのは、この巨大な才能といえるだろう。
この「才能」は、少年時代の家康の環境によって育てられた。 |
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