司馬遼太郎著書
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          歴史の邂逅(1)

■倭奴のおとぎ話

<本文から> 以下のことは、私より年上の、親しい朝鮮人作家からきいたことの受け売りだが、氏のお祖母さんは寒い夜、まだ幼なかった孫の氏に、寝床のなかで、お伽ばなしや昔ばなしをきかせた。
 彼女のレパートリーのなかに、「倭奴」とでも題すべきものがあった。
 ウェノムはもと野蛮で、何も知らなかったという。食べ物など手でつかんで食べているから、それを哀れんで、韓人が箸というものを教えてやった。何もかも教えてやったところ、ウェノムもだんだん暮らしむきがよくなって、おれも儀礼が欲しい、と言ってきた。衣冠束帯を教えてくれというのだが、ウェノムごときにそんなものが、なんの必要があるものか、だからお前、葬式の衣装を教えてやったんだよ、ウェノムが儀式のときに着ているあれは、じつは葬式の衣装なんだよ、というのである。
 あれというのは、お公家さんや神主さんなどが着る衣冠束帯のことで、明治の大官も、宮中の儀式などではこれを用いた。要するにこの衣装は、平安朝以来、日本においては神聖衣装であり、権威と権力の象徴なのである。
 −あれはお前、韓人の葬服なんだよ。
 というのは、残念ながら実証的ではない。
 しかし実証なるものが小賢しくて興を醒ますほど、このお祖母さんの噺は、巨大な話語と皮肉のカタマリになっている。
 この噺は他の朝鮮人からも聞いたことがあるから、このお祖母さんの創作でなく、ひろく朝鮮にゆきわたっていた伝説なのであろう。おりから日本が朝鮮を合併して朝鮮総督府という大権力が二千万の朝鮮人の上に君臨していた。そのとき、朝鮮半島の屋根という屋根の下で、それぞれの家の家刀自が、孫を寝かしつけつつ、この噺をしていたとすれば、民族的規模のユーモアといわねばならない。 
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■中世の奥州人は善良な巨人

<本文から>
 「惜しいですねえ」
 と、写真を中尊寺に撮りに行った井上博道氏が、帰ってきてすっかり奥州びいきになり、そういった。平泉の末期にはすでに中国の居庸関の北、朔北の牧野にあってジンギス汗が出現しているのである。なぜジンギス汗のごとく奥州藤原氏三代目秀衡はこの十七万騎の精強をひきいて白河の関を南下し、源氏をつぶし、平家を追い、京を制して天下を得ようとしなかったのか。それには幸いにも史上まれな軍事的天才である源義経が、流亡の身をよせていたではないか、と、井上氏は藤原氏のために悲憤するのだが、残念だがこれはむりかもしれない。
 歴史は人間の社会意識の熟成の度合いにともなって進展するものだが、中世のこの時期の奥州人の意識には天下をとるなどということは片鱗もない。かれらは痛々しいほどに善良な巨人であり、虎を持ち殺すはどの背力をもっているくせに自分がそれはどの力をもっていようとは自覚せず、本土の権力に対してはいわれもない宗教的畏怖感と神聖感を感じており、かれらのもつ政治的想像力は白河の関を一歩も出ず、この関の内側まで本土の権力が入りこんで来ぬかぎり、それ以上の夢をみようとしない。社会意識の未熟さというものはどうにもならぬものであり、この奥州人が天下をとろうと思うところまで成熟するには、はるか四世紀ものちの伊達政宗の出現まで待たねばならないのである。
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■幽斎は足利、織田、豊臣、徳川の四時代に生きた

<本文から>
 秀吉が死に、世が暗転しょうとした。この間、利家は家康の野望を見ぬき、これと兵を構えようとした。幽斎の晴子細川忠興は大いにおどろき、両者のあいだを奔走して仲をとりもっている。忠興は、つぎの天下は家康だと見さだめ、豊臣家の諸侯を家康に味方させるよう懸命の内部工作をおこなった。やがて関ケ原の役がおこった。
 忠興は細川家の主力部隊をひきいて家康とともにあり、幽斎は丹後宮津の居城にいる。西軍の大軍が、宮津城を攻囲した。幽斎には、兵五百しかない。城の大橋を落して龍城し、激戦七日間を戦いぬいた。幽斎の武略はこの当時でも天下第一流であった。
 敵も攻めあぐみ、七日目から長期包囲に移った。このことが京都にきこえ、幽斎びいきの後陽成天皇や公卿たちはなんとか幽斎の生命を救おうとおもい、「幽斎が死んでは歌道のもとだねが絶える」 という理由で何度も勅使を送り、開城をすすめた。そのつど、幽斎はことわった。朝廷ではさらに西軍にも勅使を送り、丹後宮津の局地戦にかぎって和睦するように申し入れ、ついに成立させた。公卿たちにはそれほどの智恵があるわけではないから、おそらくこの筋は幽斎自身が書いたのであろう。幽斎は世の賞讃をあびつつ開城した。それにしても、一万五千の敵に対し、わずか五百人で六十余日を戦いつづけたというのは、尋常な武略ではない。
 幽斎は、徳川政権にも生き、細川家は肥後熊本五十四万石の大藩として観然たる位置をしめた。二つの時代には生きられないというのは菊池寛の言葉だが、幽斎は、その一代で、足利、織田、豊臣、徳川の四時代に生き、しかもそのどの時代にも特別席にすわりつづけた。もはや至芸といっていい生き方の名人であろう。
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■三成、秀吉、信長は機能主義のセンスの持ち主

<本文から>
 ともあれこの三成を重用した秀吉、さらには秀吉を育てた信長、これらの人たちが当時にしてはめずらしい機能主義のセンスの持ち主だったことはたしかです。一つには彼らは正規の守護大名の出身ではないでしょう。守護大名というのは土地への定着性がつよく、たいへん農民的なんです。そしてそれがまた当時のオーソドックスだったわけですが、たとえば信長の家はいわゆる出来星大名で成り上り者ですから、こうした伝統的な意識の拘束がない。それがよかったのでしょうね。さらに信長の出た名古屋というところは、東国の物産と、伊勢上方の物産とが渦を巻いて往来していて、百姓といえどもきわめて商業的な気風を持ったところだった。商人というのは、いつ品物を出せば儲かるかとか、それもドッと出した方がいいかチビチビ出した方がいいかとかいう投機的、利潤追求的、合理的な意識がつよいですからね。信長がこうした気分の中で生れたことも一つの要因でしょう。秀吉の場合にも同じことがいえます。
 これが武田信玄になると大分ちがう。かれはあくまでも農民的で、戦略にしても何にしても農民的発想から抜け出せなかった。商人には翼がついているか、農民には翼がついていない。武田があれだけ声望がありながら天下が取れなかったことの一つの原因でしょうな。信長の織田家の歴史にはちょっと分らないところがありましてね。秀吉がはじめて大名になるのは近江の長浜なんですが、それ以前から秀吉は織田軍団の軍団長の一人なんですから、ふつうなら何千石か何万石かの石高があって、記録に残っているはずなんです。ところがそれがわからない。同じように柴田勝家のそれもわからない。誰の石高もわからないんです。そこで考えられることは、彼らはそれまで石高という分限もしくは階級制なしで働いていたのではないか、つまり彼らの経費は織田家から出ている。そのかわり彼らの軍勢は全部信長のもので、彼らはたまたまこれを預っているにすぎなかったのではないか。もしそうだとするとたとえば蜂須賀小六というのがいますね。彼が秀吉の家来だというのは間違いなのです。蜂須賀は秀吉が信長に推挙した。信長はこれを受け入れた。だから蜂須賀は信長の直臣なんです。直臣という点では秀吉と同格なんです。だから秀吉の家来というのは、厳密には長浜で石高をもらってから以後でなければ出てこない。
 つまり木下藤吉郎時代の秀吉はどうもいまのサラリーマンと同じように月給で働いていたようですな。勝家も光秀もみなそうだったらしい。これは家来ができるとすぐ知行地をあたえてゆく封建社会の中にあっては、大変めずらしい形態ですね。いまの会社などとかわらない、ものすごい機能管理社会ですよ。信長が天下を制覇できたのもある意味で当然という感じがしますな。
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■村重は平然と生きのびた

<本文から>
 結局は、画餅に帰した。
 村重がどう失策ろうが後世のわれわれにはどうでもいいことである。ただ村重がわれわれに残した理解しがたい課題は、平然と生きのびたということである。坂道はかれひとりが決定した。その一族も家来たちもかれが鼻輪を曳きずるままに異常な運命にまきこまれた。彼らは、かれが命ずるままに伊丹城(当時の通称は有岡城)にこもり、信長の大軍と戦い、結局はかれに置きざりにされた。村重はほとんど身一つでかれの支城の一つである尼崎城へのがれた。信長は尼崎を開けば、伊丹城にいる千人前後の女子供の命をたすける、という条件を出した。この戯曲には以下のことは触れていないが、尼崎城に遁入している村重にその交渉をしたのは伊丹城の老臣たちで、村重が応じないとみると、かれらも村重同様、伊丹城に家族を置きざりにし、いずこともなく遁走した。かれらも村重の気分が伝染ってつい村重岡様のことをやってのけた感じだが、ともかくもこのために伊丹城の数百の女子供は村重の妻女や、村重が愛した側室のたし(この戯曲では瑠璃葉)をふくめて、ことごとくが信長によって磔殺、焚殺された。われわれが持った過去の事件で、村重に即してみても、虐殺された女子供たちに即してみても、これほど救いがたい事件はないのではないか。
 その後の村重は、畿内を流浪したが、やがてもとの朋輩の秀吉に拾われ、すでに触れたように御伽衆として余生を送っているのである。
 豊臣期における村重は筆魔道薫と号して代表的な茶人のひとりであり、利休の高足七人のうちに数えられる。いまでも茶道のひとびとは「荒木高麗」という名物の朝鮮茶碗があることを知っており、またかれが「兵庫の茶壷」「姥口の平釜」などの道具を所持していたことを知っている。尼崎城を身一つで落去してからの村重は、通常の感覚からいえば倫理的な極限状態にあったといっていい。ふつうなら狂うか、自殺するか (自殺説もわずかにあるにはある。しかし状況と適いにくい)、どちらかに追いこまれるはずだが、村重はともかくも茶事に身をゆだねて歳月を送ったかの観がある。
 村重のこのことがわかりにくく、私は当初、村重がキリシタンで、そのために自殺ができなかったのかと思った。村重のかつての部下であり縁族でもあった一人に高山右近がいるし、他にも村重がキリシタンを保護するに手厚かったという資料があるから、かれ自身がそうであっても不思議でないのだが、しかし当時のイエズス会の僧の報告書をみてもかれが受洗していないことはあきらかなのである。あるいは落去のあと、命が惜しいあまりに受洗したかとも思った。
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■天下をとるまでの秀吉が、大すき

<本文から>
 秀吉は、すきです。
 とくに、天下をとるまでの秀吉が、大すきです。歴史上の人物で、私が主人として仕えていいと思うのは、この時期の秀吉です。
 他人の功利性をもっとも温かい眼でみることができたのは諸英雄のなかでは、秀吉のみでしょう。
 ある種の宗教的ふんい気をもった英雄がいます。たとえば、関羽、八幡太郎義家、楠木正成、上杉謙信、西郷隆盛などで、もしこういう人達を主人として選んで、しかもその人物に魅力を感じてしまったばあい、人は多く命をすててしまいます。
 秀吉には、そういう、傾斜のするどい宗教的魅力はなかった。なかったことは同時に、偉大さをもあらわすものでしょう。
 秀吉は、その戦術、政治感覚、日常の趣味生活において、多く信長の祖述者でした。信長は、主人であったと同時に、師匠でもあったのでしょう。
 しかし、口にこそ出さね、信長に対する強烈な批評者でもありました。
 たとえば、信長は火攻めを好みましたが、秀吉は、敵の人命をあまりそこなわない水攻めをもっぱらにしました。
 殺致せず、できるだけ外交によって敵を倒そうとしたことも、英雄としては異例です。
 信長は、中世のあらゆる価値体系をほろぼして、あたらしい体系を興すために、旧勢力の人間をどんどんすりつぶしてゆきましたが、秀吉の幸運は、すりつぶしたあとに出たことでした。安定と建設だけを考えておればよかったのです。いや、
 「安定と建設が、自分の仕事だ」
 と思ったすぐれた政治感覚、時代観が、秀吉にあった、というべきです。かりに信長中生きていたとしても、関東の北条、四国の長曾我部、九州の島津は残っていた。これらを信長は苛烈に攻めたてたでしょう。秀吉は、威力外交でもっともすくなく血を流して、事をおさめています。
 信長は、その長所においては秀吉などの水準からはるかに吃立する天才でありました。
 が、それだけに欠点の谷もふかい。
 秀吉は知っていた。
 その天才を学び、その谷を埋めようとした点に、秀吉のうまみがあります。
 荻生狙裸は、「人生最大の楽しみとは、豆を噛んで古今の英雄を罵倒することだ」といいましたが、と凪かく、信長、秀吉、家康の比較論ほどおもしろいものはない。
 本人のバイタリティはどこで終るのか…というようなことになると大坂城を書かなければいけないような気がして、書いてみたわけですけれども。
 ですから『国盗り物語』で道三が美濃国をかすめとるところから始まって、『城塞』で後藤、真田が大きな時代の幕を引くようにして戦死するまでのことを考えつづけてきますと、私なりに日本人のもつ最もアクティブであった時代とか心とかというものが、なにやら自分ながらにわかったような気がするのですが、どうでしょう。
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■武将の子種と梅毒

<本文から>
 秀吉という人はずいぶん女好きであったようですけれども、子供にはめぐまれていません。一応、公式には淀君との間に、二歳で死んでしまった鶴松という子と豊臣秀頼の二人の子供がうまれたということになっていますか、これはどうも秀吉の子ではないのではないかという噂が、当時からあったのです。まあ、秀吉自身が自分の子供だと信じて公的にもそう承認していたのですから、私も秀頼は秀吉の子であるという態度をとっているわけで、生物学的に誰の子であるのかをあれこれ詮索するのは無意味ですからね。ところがどうやら寧々さん(北政所)などはそうは思っていなかったようです。なんといっても何十年も連れ添った秀吉の女房ですし、あるいは秀青には子種がないのではないか、というようなその辺の機微は一番よく知っていたはずでしょう。だいたいにおいて、このころの武将には子種のない人が非常に多かったようですしね。
 何故かといえば、これは余談になりますが、当時はちょうど唐癒(梅毒)が入ってきた時期で、日本はこの病気にとって処女地ですから、非常な勢いで広まってしまったのです。コロンブスが新大陸からヨーロッパに持ちかえってほとんど間をおかずに日本までやってきてしまって、あっという間に国中に猫癒してしまったのです。少し下った江戸時代に、瘡気とうぬぼれのない男はいない、ということわざがありますけれど、この元亀・天正のころも相当にひどかったようですね。ですから、野戦攻城に従っていて一年中ほとんど家にも帰らずに戦陣暮らしだった武将たちは、どうしてもそういうものに感染する可能性が強いわけでしょう。秀吉にしても織田家の将であったころは岐阜に屋敷がありながらもおちつくひまもなく信長にこきつかわれて、東奔西走だったわけですね。しかも彼は万事派手好きな人間ですから、軍旗に遊女をつれていったりもしています。お得意の攻城戦の時など、陣が長びいて士気が阻喪するのをふせぐために、遊女町を陣の中に設けたりもしたくらいです。その点からみても、秀吉の場合、どうも状況としての感染率が高かったのではないかと思えるのです。
 ところが家康というのは彼とは正反対に、子供がたくさんできる人間でもあったのですけれども、どうやら遊女に接したことは、あったにしてもごく稀だったようなんですね。というのは、家康という人は常に手持ちだったのです。彼の好みは自分の家来の娘であるとか、家中の未亡人、あるいは領内の娘であるとかいうような具合で、要するに遊女ではなかったわけで、そういうものを戦陣にまで連れていっているんです。ですから、彼の場合は性病にかかる可能性は非常に少なかったようです。家康という人は、わりあいそういうことがわかっていた感じがどうもするんですね。
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