司馬遼太郎著書
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          歴史の舞台 文明のさまざま

■遊牧は突如あらわれ出た新形式の暮らし方

<本文から>
  この、草原に発生した文明をおもうとき、こんにちの狭隘な国境概念で拘束されれば、風船がしぼむように想像が萎えてしまう。このことは地球規模でおもわざるをえない。たとえば天山の草原というのは、ユーラシア大陸の北に水をたたえている北極海から遠く、さらには、南の地中海、アラビア海、インド洋、太平洋などからも遠い。そのような南北のいずれの海から湧きあがる水蒸気のおこぼれを、この線の帯はわずかしか享受していないのである。
 まったく享けることがなければ、沙漠になってしまう。
 なにかの自然条件−たとえは天山山脈のような長大な壁−によって遠い海からの水蒸気をわずかに受けると、高嶺に雪が積もり、それがわずかずつ溶けて山麓や谷をうるおし、やがては固い地表の平坦地にまで草を生ぜしめる。といって、水分がわずかであるために森林を生ずるまでには至らない。
 乾燥地帯ということでは、草原は沙漠と兄弟でもある。つねに沙漠と抱きあわせられるようにして存在し、歴史の長い周期のなかで、かつて草原であったところが沙漠になってしまったりする。草原に住む諸民族が、沙漠化する自然に追われて大移動することによって、歴史の動きを刺激し、ときに左右したことがしばしはあった.
 「遊牧」
 というのは、よく誤解されるように、古代的な未開の形態と考えるべきではない。すでに地球のあらゆる場所で農業が営まれていた歴史時代に、突如あらわれ出た新形式の暮らし方なのである。
 それまで草原に人類は住んでいなかったであろう.
 むしろ砂漠の縁辺のほうに、人は住んでいた。沙漠の縁辺のオアシスに住みついて水を得、農業を営んだ。中国新彊ウイグル自治区という日本列島の四倍もある広大な地を、ふつうわれわれはシルクロードとよぶ。その例でいえは、中央にあらゆる生物を拒絶するタクラマカソ大沙漠がある。その南の縁辺は足寄山脈などの雪どけ水が伏流水になったりして、ところどころにオアシスを現出している。シルクロ−ドの南道などは、一見、沙の色の地でありながら、オアシスが数珠玉のようにならび、そこで集業を営んできたひとたちが、古代オアシス国家のきらびやかな文化を遺した。 
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■人口をふやし大集団を形成して、草原を争奪しあい盛衰をくりかえした

<本文から>
 しかし一方、遊牧民族からみると、農民ほど目ざわりなものはなかった。
遊牧を成立させる草原は、ざらにあるわけではないのである。たとえば日本のように湿潤な地には草は繁茂するが、草の質が、羊や馬のよろこぶところではなく、やはり半乾燥地帯に生える丈のみじかいニラ系の草や、マメ科の馬蓿あるいはトゲのある酪駝草といったようなものがそろっていなければならない。西アジアから中央アジアにかけ、ところによっては大小の沙漠や湿潤地帯のためにとぎれつつも、ときに塩湖のほとりに、ときに大山脈の山麓に、ときに河谷に、ときに大高原にひろがっている。遊牧というのは、人類が農耕を覚えて以後、はるかに時間を経て出現した大文明であった(この場合の文明とは、人間の暮らし方のシステムという意味として用いたい)。黒海のほとりのステップでアーリア系のスキタイ人が発明したとされるこの文明の形態は、たちまち東へすすんで黄色人種を刺激した。
 それ以前、モソゴロイドは、中国内陸部のような兵耕の適地に入りこんでいた。ひとびとはいいとして、その外縁にいた連中は、小単位にわかれてちらはり、森林や草原で、かぼそい弓矢をもってけものを追い、食うにこまるような低い生産をもっていたにすぎなかった(十八、九世紀に入っても遊牧に参加せずに、それ以前の生産形態のなかにいたダフール、エヴェソキ、オロチェンを思えばいい).
 かれらはあらそって西アジア、中央アジア、ときに小勢カながら北アジアの草原にあつまり、遊牧というモダニズムに参加し、人口をふやし、それぞれ大集団を形成して、おのれが得た草原に固執し、あるいは草原を争奪しあい、それぞれ盛衰をくりかえした。
 遊牧の形態は、どの民族がそれに参加しても、スキタイが発明した様式どおり、ステロタイブのように似ていた。まず、スキタイが得意とした青銅技術をもち、骨錬や石錬とはまったく威力のちがう金属の錬を用い、レイソコートのような外衣を着、その上を革のベルトで締め、ベルトには銅製の締金具をつけ、その革帯に剣をぶらさげ、さらに腰から下にはズボンをはき、足は穿つように革の長靴をはいていた。長い外衣、ベルト、締金具、ズボン、長靴というのは、かれらの服装から影響をうけてむしろそれが正統になった後世の服飾習慣からみてこそ珍奇ではないが、寛潤な衣服を用いていたギリシア・ローマ人あるいは春秋・戦国の漢民族の服飾感覚からみれば、なんとも奇妙なものであった。
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■ロシア浮浪民とが混血して武と牧の強力な小社会をつくったのがロシアのコサック

<本文から>
 十三世紀以後、二百六十年にわたってロシアは−タクールのくびきなどといわれるように−モンゴル人のキプチャク汗国に統治されていた。一五〇二年、その帝国が崩壊したあと、モソゴル人に属して南ロシアの草原で遊牧していたトルコ系の部族と、ロシア社会の農奴的な状況からのがれてきたロシア浮浪民とが混血して武と牧の強力な小社会をつくったのが、ロシアのコサックであるとされる。
 カザフの場合も、似ている。十五、六世紀に「離れ者」になった。
 ロシアにおけるキプチャク汗国の崩壊前後に、「ウズベク」といわれる新遊牧集団が出現する。トルコ人を主体に、モンゴル人、イランの混血者たちで、体が大きく、運動能力にすぐれ、その社会組織は堅牢で、容易ならざる勢力であったが、カザフの祖たちはこの新社会の統制をきらって離れた。離れることは、当然、大社会からの追撃と報復をうけねばならないために、よほどの武力的自信がなければ「カザック」にはなれなかった。カザフの祖は、それだけの自信があったのであろう。
 ただ、かれらが諸方の大勢カを避けつつ、
 「離れ者」
 でありつづけるためには、苦労が多かった。地球をどう経めぐってもろくな草原にあたらず、結局、ときには略奪者にもなった。慄悍と軽捷がカザフの特教だが、ときに他の遊牧民族を疾風のように襲い、羊などをうばって逃げてしまう。むろん歴史的なことで、現在はそういうことがないとはいえ、草原で見るカザフたちの限光や切るようにすばやく動く騎馬動作のなかに往年の精悍さを感じないでもない。
 すでに、トルグート系のモンゴル人の東還についてふれた。一七七一年、ロシア正教の受洗を強制されることをきらい、住みふるしたヴォルガ川の河畔の遊牧地から遠く東方のイリにむかって帰りつつあったトルグート系モンゴル人を、随所に襲って略奪・殺戮したのは、カザフであったといわれでいる。トルグート系モンゴル人の租は、チンギス汗の遠征軍の精鋭といわれていたのだが、民族の歴史のある時期を狂いものにさせた強烈な集団発狂の時代をすぎて、うそのようにおだやかなひとびとになっていたために、カザフの襲撃と略奪に対しては、なすすべもなかった。伝承によるとヴォルガの河畔を出発したとき十五、六万人ほどであったのが、イリ盆地にたどりついたときはその半分になっていたという。
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■漢字が日本人にとって無用有害なものであった

<本文から>
 まず漢字が日本人にとってそれほど負担で無用有害なものであったかという−ことから考えてみたい。
 日本というのは、中国にくらべれば比べようもないほどあたらしい地域で、中国においては漢の時代にすでに文明の高度の熟成を感じさせるのに、日本はいわゆる縄文時代であり、漢がほろびて、われわれが隣人のように親しい名前として感じている魏の曹操や蜀の劉備、関羽が活躍する三国志の時代でもなお卑弥呼の名が明滅する程度の地域にすぎない。
 漢字が大量に流入するのは六世紀末から七世紀はじめごろだろうが、このことは、日本という国名の誕生よりわずかに先立っている。一場のユーモアとして夢のようなことがいえるとすれば−つまり日本がインドに地理的に近いとしてもしインド文字(いわゆる悉墨文字の組織的輸入はずっとあとの空海にまたねばならないが)のほうを採用していれば−1その後の日本文化はずいぶん変ったものになっていたにちがいない。仏教にかぎって言っても、漢字世界で成立した大乗仏教が日本に伝わっていないことになり、従って真言密教や、天台宗、あるいは日蓮宗や禅や浄土教ももたず、要するに日蓮も親鸞も存在せず、さらにいえは本願寺も創価学会もなく、タイやラオスのように小乗仏教を墨守したかもしれない。つまりわれわれ日本人は、″別人″になっていたはずである。
 たしかに漢字は、日本語とまったく異る言語である中国語に適合(当時は)した文字であったために、水と油のような融けがたい関係にあった。
 他に例をいうと、モンゴル民族は中国と境界を接していながら、漢字を拒否した(政治的というよりごく自然に)民族である。モンゴル語は日本語の広い意味の仲間で、そういう言葉の生理からいえは、日本語と同様、漢字に適しているとはいえない。
 モンゴル人はながく文字をもたなかったが、十三世紀に表音文字であるシリア系の文字を、シリア文化とは切り離して文字だけを仕入れた。いまは、モンゴル人民共和国ではロシア文字をつかっているが、なにしろ地がシリア文字という純粋の表音文字であったために、切り換えは容易だった。日本も、はじめて文明に参加するときにシリア文字でも採用していれは、こんにち、簡単にロ−マ字化できる言語になっていたかもしれない。
 とはいえ、残念ながら、日本はケ小平氏の指摘するように、漢字をとり入れてしまったために、自然日本語が漢字という油を融かすために複雑に屈折し、変化した。
 ついでに、他の中国周辺の国についていうと、朝鮮は日本より先輩の漢字導入国だったことはいうまでもなく、また朝鮮語は中国語とは異質の言葉ではあったが、しかし漢文を徹底的に使用し、十九世紀まで公文書は漢文だった。これだけの漢字国家が、いまは朝鮮民主主義人民共和国も大韓民国も、ともに原則として漢字を廃止し、国字をつかっている。
 ヴェトナムの漢字使用の歴史は古い。ただこの国は以上の国々とはちがい、−言葉が中国語と類似しているため、漢字によく適合した。十九世紀にヴェトナムが不幸にもフランスの植民地になったとき、廃止された.かつてフラソス人宣教師がヴェトナム語をローマ字表記する方法を発明したのを、植民地官吏がそれを「国語」として流布したため、漢字は廃止というより自然にすたれたといっていい。
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