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<本文から> ナンは、幽鬼のごとく立ちあがった。
王は、八方に剣を振った。ただ、煙のみを斬った。
血は、滴々と走る。
外に出るや、廊下の飾灯が割れ落ちて再び赤煙があがり、血はなおも、王を誘うように階段を下へと走り続ける。
血と王が、筆のあかあかと燃える中庭の入口まで降りたとき、主は大きく跳躍し、赤煙の右端をめがけて力の限りに刺突した。
「…」
もう一条の血糸が、新たに赤煙の中から流れ出た。
「はあっ」
突き終ると、王にはげしい疲労が襲った。思わずよろめき、剣を杖に身を支えたとき、
「はははは、まだお前の剣はわしの心臓を刺していないではないか。ボルトルよ、この心臓が動いている限り、勝負はおわっていない」
二条の血は、洪笑した。
「とまれ、グラペット・アッサムの一代の失策であったよ。王よ、剣を捨てるがよい。どうせ死ぬ身だ、お前もわしもな。剣を捨ててわしの最後の繰言を聴くがよい。−幻術師の血とはな、あくまで氷のごとであらねばならぬものだ。が、今わしの体から流れている血に触れてみよ。それは小羊よりも温い。はや浅ましくも、わしは愛を感じたのだ。愛というものをな。・・・お前の剣は、たしかにわしを貫いた。しかし、待つがよい。お前が勝ったのではなく、わしの中の本能が、その主をたおしたに過ぎぬ。強いて、勝者を選べというなら、あの女・・・」
「ナン−」
幻術師は、虚空にむかって呼びかけた。
「上ったか、望楼に。そこで、やがて起るナナムの潰滅を見よ。ナン、わしは、お前を真剣に愛した。聞えるか−」
きこえた。低く、うめくような声となって望楼にいるナンの耳の奥にひびいた。
彼女はそのとき、この数日間の夢幻の世界からはじめて醒めた。呆然と、東のかた、微かに白む地平線の彼方を見た。
雨は、何時のほどにか遏んでいる。
青い狼が美少女を誘って天に住んだという「狼座」が哀しいばかりの美しさで輝いていた。
地平の白みを逆光にごえたいの知れぬ真っ黒な層が、むくむくと盛りあがっているのを見たのである。同時に、地軸までどよめくような、無気味な遠雷の音をきいた。
望楼に思うていてきえ、床に重苦しくゆすりあげてくる地鳴り−。
遠雷では、なかった。
(洪水−)
ナンがそう直覚したとき、真っ黒な奔流が天地にすさまじく鳴動しつつ、眼下の宮殿はおろか城郭も町も一瞬に呑みつくしていた。
母シュラプが、決潰したのである。
メナムは、全滅した。
征服者ボルトルとその魔下三万の蒙古軍団は、叫喚の声さえあげるいとまもなく、刹那のうちに濁流の底へ消えた。
一二二三年八月二十六日の未明、ただ蒼穹を蔽う星のみが、きらきらと生きていた。
ナシがその後どのような運命をもったか、草原の伝説にも定かではない。
水は二日を経て退き、一句ぶりで復活した太陽が、再び地上に現われた町を灼りつけはじめたときは、くろぐろした廃墟に、生けるものは一茎の草さえなかった。
メナムの町は、この時をもって永遠に歴史の彼方へ没した。
洪水が、線泉の水脈を変えたためであろうか、廃墟はその後、七百年のあいだ、人影を絶ったのである。
いまなお、クラサン沙漠の東北辺に無気味な死の市街を横たえ、謎の古代都市ペルセポリスやパサルガタイの遺跡とともに、草原をゆく旅人の眼を傷ませている。
グラペット・アッサムの死については、その後も多くの異説がある。生きてヒマラヤふもとの麓を越え、インドに漂泊したともいわれるが、たしかな史実はない。
ただ、いつの時代か、廃墟の中から、一個の宝石が発掘された。
真紅の色を湛え、指頭ほどもあった。
それが、伝説の幻術師グラペット・アッサムの所持したものかどうかは分明でないが、その後ながく、ペルシャの幻術師の仲間で、法流を継ぐときの印可の証として伝承されたという。こんにち、テヘランの博物館に収蔵されている「悪魔の石」がそれである。 |
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