司馬遼太郎著書
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          俄−浪華遊侠伝

■わが一生は一場の俄のようなものだ

<本文から>
  左様、この俄。
 ニワカとよむ。仁輪加と書いたりする。路上などでやる即興喜劇のことだ。この小説にそういう奇妙な題名をつけたのは、この小説の主人公が晩年、小林左兵衛と名乗って日本一の快客、といわれるようになったころ、自分の一生をふりかえって、
 「わが一生は、一場の俄のようなものだ」
 といった言葉からとっている。読者は、この男のやることなすことに、一場一席の「俄」を感じてもらえば、筆者の主題は大いにつらぬき通せることになる。
 さて、人の身。
 運命というか。江戸時代も末期にちかづいているこのころは、物価も高く、都会生活が苦しくなっており、自然、市井に住んでいる人の身にふしぎなことが多い。
 なかでもふしぎといえば、万吉の父親ほどふしぎな一生の男もすくない。
 もとは、江戸のうまれで歴とした旗本だったという。
 武士のころの名を、明井釆女といった。公儀お庭番というから、隠密である。
 十一代将軍家斉の内命をうけ、隠密として大坂にくだり、町人に身を変えて大坂の高級幕吏の身辺をさぐっていたが、そのうちかんじんの家斉が死んだため、復命するあてをうしなった。
 お庭番というのは将軍じきじきの密命によって動くもので、役目を果すまでは幕府の士籍からものぞかれてしまっている。
 浪人せざるを得なくなった。
 そのうち世話をする者があって、堂島中町船大工町の質屋で明石屋儀左衛門の養子になり、名も九兵衛とあらため、女房も、北野村の百姓長兵衛という者の娘およねをめとり、妻にした。
 その失格のあいだにうまれたのが、この万吉である。 
▲UP

■インチキばくちをした万吉は孝行者として表彰

<本文から>
 筆者、言う。
 この物語の主人公についてである。実は万吉はなおも小僧をつづけている。
 早く大人になってくれねば、と思うのだが、小僧時代があまりにも面白いので、筆者もつい輿に乗りすぎている。
 実はこの小僧が、お上からなんと「孝子」として正式に表彰されたのだから、江戸時代とは奇抜な世の中だ。
 いやさ、それが妙である。
 北野村に「村預かり」になったといえば、いわば少年監獄に入った、といっていい。庄屋の弥右衛門の屋敷で、「受刑者」として万吉は働かされつづけた。
 よく働く。
 年が明けて正月になり、この小僧は十三歳になった。
 十日戎もすぎたある日、庄屋の弥右衛門のもとに、東町奉行所から差紙がきた。
 「万吉を同道の上、出頭すべし」
 ということである。
 弥右衛門も仰天し、
 「いよいよ、重き罪がきまったぞ。万吉、いかなお仕置きになるかは存ぜねども、覚悟のほぞだけは決めておけい」
 と、浄瑠璃調子で庄屋は言い渡し、翌日、朝一番に北野村を発ち、天満橋を南に渡って、奉行所に出頭した。
 さっそく当番所の白洲によびだされ、一時間ばかりひかえていると、縁側まで吟味与力が出てきた。
 庄屋が平伏したが、万吉は蛇が鎌首を立てたように頭をあげている。
 「これ万吉」
 と、吟味与力は申し渡した。
 「そのほうなみなみならぬ孝心の儀、お上に聞え、殊勝の仕方につき、おそれながら青桐二十貫文を差し下きる。有難く御受け申せ」
 うれしかろう、と吟味与力が万吉のほうを見ると、ハテ、と小僧は小首をひねった。
 「なにかのお間違いでござりませぬか」
  と、笑いもしない。
「この万吉は悪事を働いたのでござります。悪いことをした者が、御褒美をいただくはずがござりません」
 「これ」
 吟味与力は、狼狽した。
 幕府体制は儒教を政治思想としているから諸国の幕府領では孝行の奨励ということが地方役人の仕事の一つになっている。
 ところがこの年、大坂ではめぼしい孝子がみつからなかったため、やむなく万吉を表彰することにしたのである。
 「これこれ、そのほうの考え違いである。そのほうがインチキばくちを致して多額の金銭をとったことはお上においてもご承知であるが、それはそれ、その一件については呪橋の会所において苔を打たれ、罪料は済んでいる。罪料は罪科、孝行は孝行、これ万吉」
 「へい」
 「そのほうは孝子であるぞ」
 と申し渡されて、わけもわからずに銭二十貫文を押しっけられ、北野村に帰ってきた。
▲UP

■堂島米相場の潰滅を救って牢屋から出てきた英雄

<本文から>
「万吉がきょう出る」
 ということは、牢内の万吉呂身こそ知らなかったが、奉行所同心などの口から大坂市中に知れわたっていた。
 米相場で衣食している者が、家族までふくめると大坂で一万や二万はいるだろう。それらが、
 「堂島の潰滅を救うてくれた守り神や」
 ということで、牢屋敷裏の横堀川へ迎え舟まで出し、舟を造り花や大万灯でかぎりたて、景気づけに芸妓を乗せ、三味線をひかせながらやってきた。
 ほかに貧民もいる。かれらは、
 「よくぞ安い米にしてくだされた」
と口々に叫びながらやってきたし、そのほか単にこういう利害とは別に、
 「算盤責め、蝦責めに遭うても口を割らなかった小僧」
 ということで、いわば庶民のなかに忽然とあらわれた英雄を見ようとしてやってきた。
 生来、派手好きな土地である。奉行所の経済政策への反発もある。
 「このきい、奉行へあてつけにわっと騒いでしまえ。奉行や与力衆のあたまも冷えよるやろ」
 という気もある。江戸とちがい、役人や武士を尊敬する念の薄い土地だ。
 とにかくさまざまな市民感情が一つのエネルギーになって、万吉のまわりをかこんだ。
 万吉は、一朝にして英雄になった。
 横堀川から舟で迎えにきた連中は、万吉を路上でむか、え、
 「明石屋はん、どうぞお乗りになっとくなはれ」
 と、手を頂くようにして連れ去ろうとしたが、万吉は動かない。
 群衆を掻きわけてやってくる一概の辻駕寵を見ている。駕籠かきの顔に見覚えがある。
 (あれは北野村の駕籠昇きやないか)
 やがて駕籠は万吉のそばまでくると、
 「万吉っつぁん、えらいご苦労はんやったな。この駕籠は、北野村のお母はんからの差しまわしや。はい、お乗りやす」
 「そらありがたい」
 万吉はころりと駕籠のなかにころがりこんだ。体中が痛い。
 (堂島衆の駕籠には乗れん)
という分別がこの小僧にある。それに乗ると、まるで堂島のたのみでやったことのように奉行所や市民に受けとられるのがおもしろくない。
「貴方さんら、帰ってンか」
 と、堂島衆にいい、仏頂面で駕籠の人になり、やがて駈けさせた。
(おれも、大坂でいっぱしの人間になれた)
 と、万吉は思った。
 やがて太融寺の前の家に帰った。
家の内外に、北野、曾根崎、天満あたりの駄菓子屋の老婆が、一蹴蹴の着物にきかえて祝いにきていた。
「お婆ンら、おおきに」
 万吉は大声でお婆ンらの祝い言葉を受けながら、家に帰った。
明石屋万吉の名は、この一件で確立した。
▲UP

■弱小・一柳藩から自前で西大坂警備を引き受ける

<本文から>
「さあごらんくだされ」
建部小藤治は色分けされた地図を示し、
「この赤の部分がわが一柳藩でござる。なんと広いことか」
と、万吉の同情をひくようにいった。
なるほど、見れば哀れなことだ。
 船場の横堀が南北の境界線になっていて、紀州藩は大藩だけにその横堀以東の繁華な市街地を一手にうけもつ。つまり現今の東区、天王寺区の一部である。
 現今の北区は越前福井の松平。
 道頓堀から南地区、つまり現今の南区、浪速区の一部は肥前平戸の松浦の殿様。
 一柳藩のうけもちはひどい。
 横堀から以西ぜんぶである。つまり、いまの西区、大正区、港区という広大な地域をたった一万石の大名が担当するのだ。
 おまけにこの西大坂は川筋が多く、いわゆる天誅浪士や御用盗と称するにせ志士、さらに本格的な討幕志士は、みな海から大坂に入りこの川筋をのぼって潜入するのだ。
 そのために、川口の要所要所に、従来船番所が置かれている。その船番所も警備力不足で、あってなきような存在なのだ。その船番所も一柳藩の担当になる。
 「とてもとても一万石の小所帯ではなんともなりませぬ」
 と、建部小藤治は無気力に笑った。
 一万石の大名といえば士分の侍は三十人も居ればいいほうで、足軽をふくめてせいぜい百人そこそこである。
 国許では城も持たない。
 陣星があるだけである。
 そのくせこんな小藩でも幕府の慣例によって江戸に大半の侍が詰めねばならない (この江戸定府についてはこの年、幕令がゆるんで強制的ではなくなったが)。さらに京都屋敷にも藩士を置いている。
 大坂は蔵屋敷でこれは藩の経済上必要だから藩士が詰めている。
 むろん国許が藩の本拠である以上、殿様もおり、国許の諸役人もおり、これにともなう多くの人員を置いておらねばならない。
 要するに、小人数の藩士が各地に分散しているのである。
 「大坂のお屋敷詰めは何人だす」
 「士分が五人でござる」
 「へっへへへ」
 万吉は失敬と思ったが思わず笑い出してしまった。この五人で、広大な西大坂をまもり、川口から潜入してくる不遥浪士を取蹄まろうというのは気違い沙汰である。
 「足軽衆は?」
 「左様、七人おります。あわせて十二人でござる」
 「なるほど」
 万吉は笑いを噛み殺すのにこまっている。
 「しかし幕府の御命令をことわるわけにも参りませず、ついにお受けせざるをえぬはめになりました。そこで一藩の重役が額をあつめて凝議つかまつりましたところ、京には新選組という例もあり、ここで明石屋万吉殿に武士になって頂き、この危難をお救いねがおうということになったわけでござる」
▲UP

■新撰組の斬る気を失わせ逃れる

<本文から>
(どうしよう)
 と、さすがの大石鍬次郎のような人斬りの練達者でも万吉のあとをつけながら、迷った。斬ったものかどうかである。
 が、隊命をうけているかぎり、斬らねばならない。連れてきている隊士のなかに監察がいる。大石がどう処置するかを、上司の土方歳三に報告する役目の者である。
 (えい。大根だと思え)
 大石は、自分の感情をねむらせた。そういう習練は血のなかで鍛えあげている。大石は刀の鯉口を切った。
−いいな。
 と仲間にもささやいた。万吉の背後、三歩ほどの距離である。一躍して刀を一閃させれば明石屋万吉の素っ首は飛ぶであろう。
 (が、やりにくい)
 と大石が天を仰いで嘆じたくなったのは、万吉の挙動であった。
 万吉は覚悟のほぞをきめているらしい。それはいい。しかしその姿である。
 左手に提灯をもち、右手に「わが身の供養に」と称して線香束をかかげつつゆくさまは、ちょうど死出の旅にのぼりつつある死者のようでやりきれない。
 しかもあたりは漠々たる闇である。仏道でいう無明長夜とはこのようなものであろう。
 道は一筋である。このあたりまでくると竹餌街道の左右は田ンポで、家の灯もみえず、闇は凍るようにつめたい。
 その上、万吉はお経のようなものを声高らかに唱えている。太融寺の門前に住んでいたからじつに堂に入ったもので、唱えているのは無常和譲らしい。
 アア無常の風一厳吹きて有為の露、永く消えれば哀れこの世の別れにて、耳は聞えず目も見えず、舌は閉じられ物言えず。
 (いやなやつだ)
 と大石は刀を抜く弾みがうまくゆかない。
 いとし可愛の妻や子も、めぐみも深き父母も、いかなる友も兄弟も、皆ふりすてて死出の旅。
 連れもなければ只一人、行く先き知れずに門を出で、永の旅路をトポトポと、頼むは西方弥陀如来。
 「おい、明石屋」
 大石はたまりかねていった。
 「そいつをやめてくれるわけにはゆかんか」
 「ゆかんな」
 万吉が生声をはさんだとき、当然気が抜けた。大石はとっさに弾み、踏みこむなり刀を抜いて挑ねあげた。
 が、奇妙なことがおこった。
 スイ、と万吉が前へ行ってしまっている。切尖はわずか一寸で、万吉の頸すじをはずれてむなしく流れた。
 「観自在重量、行深般若波羅蜜多時、照見五経皆空啓二切苦厄…」
 と、万吉は般若心経をあげながらゆく。万吉の宗旨にはないお経だが、これも小僧のとき駄菓子屋のお婆ンどもにつきあっていたり太融寺門前に住んでいたりした余得というものであろう。節まわしもみごとにこの男は郎蹴いてゆく。
 とうとう伏見まできてしまった。
 「おい」.
町並みに入ったとき、大石鍬次郎はたまりかねて叫んだ。
 「明石屋、伏見の町に入ったではないか」
 「つまり」
 万吉はふり向きもせず誦経風の節まわしでいった。
 「まだわいはこの世にいるということやな」
 「こいつ」
 舐められた、と大石は思った。とたんに、新選組のなかでもとくに「人斬り鍬次郎」とよばれ ている残忍酷薄な本性に戻った。
 「……!」
 と無言で地を蹴り、豹が獲物にとぴかかるような勢いで、万吉の背を袈裟がけに斬った。
 が、手応えがない。
 万吉はむこうを歩いてゆく。相変らず、わけのわからぬ経文を、陰々滅々と風謂しながら進んでゆく。
 「どうなされた」
 と、若い隊士が大石の腕をささえた。気が遠くなり、思わずよろめいたのである。
「おれは今夜、どうかしている」
 と、大石は苦笑して刀を鞘におさめた。
 「伏見で、女でも抱くか」
 「帰営後、しかられましょう」
 「女を抱けばか」
 「いいえ、あの男を斬らねば」
 「いや、考えてみると」
 と、大石は小首をひねった。副長土方の口ぶりになにやら含みがあったようにも思えるのである。
 (逃がしてかまわぬのかもしれぬ)
 大石鍬次郎は、斬る気を喪っていた。人を斬るのはよほど気根の要ることだ。こうも気をそらされっぱなしでは、斬ろうにも斬れない。
 水屋の河岸に出た。
 万吉はその河岸に立ち、闇のなかで顔をあげた。立っている石垣の下に舟は待っているが、舟提灯に火が入っていないところをみると、まだ出ぬようである。
 (新選組め、とうとう斬らなんだな)
 と思うと、さすがに疲労を感じた。が、まだまだ油断ができない。
 それに、彼等はいったん狙った以上、仕止めおわるまではどこまででもやってくるときいている。おそらく他日、大坂まで下向してきて万吉を襲うだろう。
 (ここで腐れ縁を断たねば)
 それには形だけで斬られてやって、彼等を満足きせるしか手がない。万吉は覚悟した。
 「大石はん、斬りなはれ」
 と、むこうをむいたまま、背後に言った。
 「もはや十分に経巻をあげた。この明石屋万吉もまぎれもなく極楽浄土に行けるやろ。されば御遠慮は無用や」
 なるほど、と大石は思ったらしい。するすると歩み寄ると、抜き打ちで斬った。
 斬られた、と誰の目もそう確認した。死体は水に落ち、激しいしぶきがあがった。
 水底では、死体がいる。
 泳いでいる。水底の中で、万吉は息がつづくかぎり泳いだ。
▲UP

■往来安全の基準で長州人であろうと佐幕人であろうとたすける

<本文から>
(可哀そうやないか)
 と思うのだ。可哀そうやという感情こそ孔子孟子の教えの基本であることも万吉は学んで知っている。
 しかし単に、
 −可哀そうや。
 という感情だけで、西大坂警備の隊長をやってゆけるものではない。役目には役目遂行の基準があらねばならぬものだ。
 が、恩も義理もない幕府の頽勢挽回だけの目でその走狗につかわれてはたまらない。京の新選組と大坂の明石屋万吉は行きかたがコロリとちがって然るべきであろう。
 (どういう行き方をとるかい)
 と、万吉は思案しながら歩いた。すでに足もともあぶなくなるほど夕闇が濃い。
 町家の密集地帯に入った。
 商家もあれば、商家でない仕舞うた屋もある。町内に入れば家々の明かりが路上に射して道はひどく歩きやすい。
 軒行灯がある。
 商売によって、さまざまな行灯がかかっている。灯の賑わいこそ、町の賑わいなのだ。
 ところが、商いをしていない仕舞うた屋の軒にも行灯がかかっていて、そのどの行灯にも灯が入っている。
  往来安全
  という行灯である。その家に住まうひとが夜間の通行人に対してあたえている親切の灯火といっていい。
 「浪華名物・往来安全」
 ということばがあるくらいで、この郎は江戸にも諸国にもないといわれていた。
 (おお、往来安全かい)
  と、万吉はとっさに頓悟した。往来安全こそ、西大坂の武装警備隊長である明石屋万吉こと小林佐兵衛のとるべき基準ではないか。
 (勤王も佐幕もあるかい。おれは往来安全でゆく)
  と覚悟した。大坂の市中が安全に歩けるようにきえ努力すればいいので、それ以外の天下の情勢など何も考えぬほうがよい。気の毒なやつをみれば長州人であろうと佐幕人であろうとたすける。
▲UP

■長州を助けていたことから処刑を免れる

<本文から>
 万吉は浜ぎわの道路を横切って河原におりようとしたとき、背後で馬蹄がとどろき、その馬蹄のひびきが通りすぎたが、すぐひきかえしてきて、
 「明石屋ではないか」
 と、馬上の士が、声をかけた。
 万吉がふりむくと、官軍の高級士官らしい人物で、長州軍制服の上に錦の陣羽織をはおっている。
「おれだ、わすれたか」
「はて」
 万吉はとぼけた。このあたりが、万吉の侠客としての腹芸のひとつであろう。
「わすれてもらってはこまる。おまえに命をたすけられた長州の遠藤謹介だ」
 (ああ、理屈屋の遠藤か)
 むろん、万吉は馬上の士を見たとたんに思い出しているのだが、そういう顔つきをすれば万吉の男稼業がすたるであろう。
 「一向に存じまへんな」
 「よく顔をみろ」
 と、遠藤は馬から降り、韮山笠をとって万吉に笑いかけた。
 「ああ、思いだしました」
 「あっははは、物おぼえのわるいやつだ。−ところで」
 と、遠藤は万吉と、万吉をとりかこんでいる松時雨らを見くらべつつ、
 「ここでなにをしている」
 「首」
 自分の首に手をやり、
 「これだす」
 と、刎ねるまねをした。
 「ははあ、時勢だな」
 遠藤は笑いだした。以前は自分がいまの万吉の立場にあったことを思うと、時勢の変転というのはまるで芝居の回り舞台のようである。
「ほな、失礼」
と万吉が河原へおりかけると、遠藤はあわてて、待て といった。
「おまえを処刑すれば、長州の恥辱だ。なぜわれわれを救ったことを、この屯官の連中に言わぬ」
「わすれましたのでな」
 万吉はもう芝居がかっている。
「わすれたわけでもあるまい」
「たとえ覚えていても、この場になって昔の恩を担保に命乞いをしようとは思いまへん」
「申したなあ。それでこそ任侠だ」
 遠藤は万吉の鈍をとかせ、あらためて屯営へ連れてゆき、座敷にあげ、この寺の小僧に命じて茶菓の接待をさせた。
 その間、長州軍の幹部をよび、万吉にひきあわせた。
「ああ、この仁か」
 と、万吉のうわさをきいて知っている者もあった。
 「が、たとえここで命を助けても、あとで薩州から呼び出されては何もならぬ。いま手紙をかいてやるから、帰りに南御堂の薩州屯所に寄り、それを見せておけ」
 「ありがたいこって」
万吉は、やっと本音を吐いた。
▲UP

■自前で大阪全市の消防総頭に

<本文から>
「軽口星にも、相談した。
「一品選びでさがして来まっさ」
と軽口屋もそういってくれたし、他の息のかかった連中も、人物さがしに躍起になってくれた。
 結局、百人あつまった。
「食うことは心配するな」
 と、万吉は彼等の手当.は自分が出すことを宣言し、その舎貝を北区に住まわせた。
早速、与力町に火事があって、旧組織とこの新組織が同時に出動した。
たがいに競いあって竜吐水から水を噴射させ、とび口をふるって火止めのための家をこわしなどをやったが、旧組織はつねにひるみ、新組織はつめに勇敢で、つぎつぎと
 「消し札」
を立てて行った。消し札というのは消した場所に、何組がこれを消したという旨の証拠の高札で、この数が多ければ多いほど、当然火消しの名誉になる。
 半年経ち、夏になった。
 万吉は土用の前の日に府庁へよばれ、渡辺知事から、
 「頼みがある」
 と、のっけから言われた。
 (ろくなことはないやろ)
 と思ううちに、実のじょう、北区の消防だけではなく大阪全市の総頭になってくれ、というのである。むろん一文の給料も経費も出ない。
 「えらいこっちゃな」
 万吉は苦笑したが、乗りかかった舟でここでことわるわけにはいかない。
 結局、ひきうけた。
 このせつ、大阪の消防区は四区にわかれている。一区に百人を増員するとして、いままでの出費が四倍にかさむことになる。
 (餓えるまでの日数が四倍短こうなった)
 と、万吉はあきらめた。
 万吉はふたたび遊び人の中から人選びをしてあと三百人の人員を整えた。
 むろん、
 「火事」
 ときけば万吉も飛び出してゆく。この新組織の活動はめざましいばかりで、到着第一番の「一番札」をかかげるのも万吉の新組織であったし、消し札の最も多いのも、万吉の手の者であった。
 町の者も心得ていて、近所に火事があってどんどん燃えひろがってきても、万吉の顔をみれば、
 「北区のおっさんが来たさかい、これ以上大きくなることはないやろ」
 といって荷物を運びだすのをやめるのが普通になった。
▲UP

■授産場と銘打ち働けない者たちを収容した

<本文から>
消防道楽をするようになってから、万吉の頭は妙にねじまがったらしい。
 「ほかに、金を捨てるところはないかいな」
 と人に頼んだりした。
 もっとも、捨てるだけの金は、磯野小右衛門が米相場で儲けさせてくれる。
 「けったいなお人やな」
 といって、その磯野小右衛門が万吉の馬鹿浪費を忠告したことがある。相場はつねに儲かるものではなく一度暴落がくればこの世に身を置けぬほどの借材を背負うことがある。そういう場合貯財がなければどうにもならぬ、というと、
 「首をくくって死んだら、そえやろ」
 と、万吉は相手にならなかった。どうせ人間の一生は一場の俄だと思っているこの男は、面白おかしく生きることしかあたまにないらしい。
 このころ真砂町に家を新築し、ここに長町の貧民窟からとくに因っている者を二十人ほどひきとって養った。
「佐兵衛もやきがまわりやがった」
 とその慈善趣味をあざ笑う悪党もあれば.
「おやッさんの家にはどうも行きづらい」
 とぼやく連中もあった。なにしろ万吉の家にゆくと手足が利かない者や盲人が大勢いる。寝たっきりの中風老人もいれば肺病人もいた。
 「えらいことをやりはじめやがった」
 と、みな驚いた。
 いちばんへきえきしたのは、それらを世話せねばならぬ小春だった。
 (もう、地獄やな)
 と思った。亀山のちょん兵衛もここまで来れば双六のあがりであろう。
 しかも凝り屋の万吉は、そういう連中を集めはじめたとなると、人数をどんどんふやしたがった。
 例の渡辺知事がこれをきいて、ある日、着流しでこっそり訪ねてきた。
 「頼みがあるんだ」
 「あほらし」
 万吉は、頭からいった。
 「ろくな話やおまへんねやろ」
 「いや、悪い話ではない。お前はちかごろ、手足の利かん者を集めているそうだな」
 「肺病やもうろくも集めてます〕
 「そこでだ」
 渡辺は、身を乗り出した。旧幕時代の「お救い所」というのが粉河に残っている。幕府の官設救民所で、身寄りのない老衰者や体が不自由な者を収容してある建物である。新政府はそれをひきつぎ、いまも五六十人の者が入っているが、それを維持する予算が、旧幕府時代より乏しい。
 「いっそ、おまえがひき受けてくれんか」
 と、頼んだ。むろん金などはびた一文も出ないのである。
 新政府そのものに福祉思想というものがあまりなく、各府県の知事にもそういう志のあるものはほとんどいない。この渡辺昇が手ぶらながらもこうして頼みに来るのは、まだしも名知事のほうであった。
 「やりまっき」
 小春が茶を運んできて驚き、いよいよ地獄だと思った。
 万吉はまったく妙な男になった。
 持ち金を注ぎこんで、北野の小松原町に宏大な建物を建て、授産場と銘打ち、ここに働けない者たちを収容した。
 同時に市中を歩き、悪少年をみつけてきてはここに収容した。授産場とは、養老院兼少年院のようなものであったろう。
 少年たちにはここで手に職をつけさせた。左官、大工、ツルベの縄ないなどの技術がおもで、逃げるやるがあると、万吉は血相を変えてさがし歩き、つかまえてはほうりこんだ。その少年の口の悪いのが、
 「えらそうに言うて親爺っさんも子供のときに不良やったくせに」
というと万吉は呵々大笑し、
 「いまでもわるや。しかしおれでこそわるでも食えるが、尋常のやつはこうはいかん。そのために職をつけきせるのや」
 といった。
 後日だんになるが、この施設は明治三十六年には収容人員三百九十七人にのぼった。この年の春、大阪で第五回内国博覧会があり、万吉はこの会場のごみひろいを彼等にさせることになりみずからもその一員になって拾ってまわった。
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