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<本文から>
−羽柴秀吉が山城の山崎で光秀を倒してのち、にわかに勢威を得はじめている。
といううわさをきいても、たいしたことはあるまいとおもっていた。この争乱を、単に織田家の後継者あらそいであると解釈していた。いわば、一大名家の内紛であり、それがまさか天下の政権の帰趨につながろうとはおもっていなかった。
秀吉という人物についても、それがどれだけの男であるかを判断する材料をあまりもっていない」
「いったい、羽柴秀吉とはどういう男だ」
と、あの山崎における明智光秀の敗死の報が土佐につたわったとき、莱々にきいてみたことがある。莱々は織田家の家中の出だから、その評くらいはきき知っているであろうとおもったのである。
が、莱々の繊田家についての知識は、永禄六年、七年という、十八、九年も以前のふるい知識ばかりであった。
「そのひとの名、存じませぬ」
と、莱々はいった。当確、秀吉は木下藤音郎と名乗っており、羽柴筑前守ではなかった。
「知らぬことがあるものか」
「だって、存ぜぬことは存じませぬもの」
と、菜々は仕方なく笑っていた。
元親は、されば名が変わっているのかもしれぬと思い、
「秀吉の以前の名乗りはなんだ」
と重臣にきいてみたが、たれひとりとして知る者がなかった。たまたま嫡子弥三郎信親の鼓の師匠が上方くだりの者であり、これが、
「たしか、木下藤吉郎と申しました。わたくしの若年のころ、まだ公方(足利将軍義昭)さまが京におられましたとき、そのひとが信長公より命ぜられて京都守護職だったことがございます。そのときはまだ木下藤吉郎どのでございました」
といった。
そのことを、元親は莱々にいった。莱々は大げさにうなずいた。
あの木下どのが、羽柴筑前守どのでございますか。存じておりますとも」
菜々が岐阜にいた娘ごろ、すでに藤吉郎は織田家の重臣、とまではゆかずとも高級将校のひとりとしてときめいていた。
足軽か小者から出頭したお人で、信長さまのご機嫌をとるのがお上手だという話をきいたことがございます」
たいしたひとではない、ということを莱々の実家の斎藤家では内蔵助も話していたという。
「そうか」
元親は、うなずいた。 |
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