司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          夏草の賦 下

■元親は最初は秀吉を見くびった

<本文から>
 −羽柴秀吉が山城の山崎で光秀を倒してのち、にわかに勢威を得はじめている。
といううわさをきいても、たいしたことはあるまいとおもっていた。この争乱を、単に織田家の後継者あらそいであると解釈していた。いわば、一大名家の内紛であり、それがまさか天下の政権の帰趨につながろうとはおもっていなかった。
 秀吉という人物についても、それがどれだけの男であるかを判断する材料をあまりもっていない」
 「いったい、羽柴秀吉とはどういう男だ」
 と、あの山崎における明智光秀の敗死の報が土佐につたわったとき、莱々にきいてみたことがある。莱々は織田家の家中の出だから、その評くらいはきき知っているであろうとおもったのである。
 が、莱々の繊田家についての知識は、永禄六年、七年という、十八、九年も以前のふるい知識ばかりであった。
 「そのひとの名、存じませぬ」
 と、莱々はいった。当確、秀吉は木下藤音郎と名乗っており、羽柴筑前守ではなかった。
 「知らぬことがあるものか」
 「だって、存ぜぬことは存じませぬもの」
と、菜々は仕方なく笑っていた。
 元親は、されば名が変わっているのかもしれぬと思い、
「秀吉の以前の名乗りはなんだ」
 と重臣にきいてみたが、たれひとりとして知る者がなかった。たまたま嫡子弥三郎信親の鼓の師匠が上方くだりの者であり、これが、
「たしか、木下藤吉郎と申しました。わたくしの若年のころ、まだ公方(足利将軍義昭)さまが京におられましたとき、そのひとが信長公より命ぜられて京都守護職だったことがございます。そのときはまだ木下藤吉郎どのでございました」
 といった。
 そのことを、元親は莱々にいった。莱々は大げさにうなずいた。
あの木下どのが、羽柴筑前守どのでございますか。存じておりますとも」
 菜々が岐阜にいた娘ごろ、すでに藤吉郎は織田家の重臣、とまではゆかずとも高級将校のひとりとしてときめいていた。
足軽か小者から出頭したお人で、信長さまのご機嫌をとるのがお上手だという話をきいたことがございます」
 たいしたひとではない、ということを莱々の実家の斎藤家では内蔵助も話していたという。
 「そうか」
元親は、うなずいた。

■元親は四国制覇が限界であった

<本文から>
「いまは四国だけを考えている。四国を完全におさえ、しかるのちに天下の変を待つという考えでいる」
 それが、基本方針らしい。
 「間違っていらっしゃいます」
 と、弥三郎は明快なことばでいった。四国といえば天下の片隅にすぎぬ。そのような片隅にうずくまってわがなすことに夢中になっていればついにはほろびるのではないか。
 外交が、肝要であった。
 さらには、日本全体の動きを理解したうえでわが絵をかいてゆかねば、これからさきは四国一つを維持することもできぬのではないか。
 「そう思います」
と、弥三郎はいった。
 「そなたは若い」
 「若さとこれとは無縁でございましょう」
 「おれはうまれどころを、間違っていた。もし家康のごとく三河にうまれ、もし秀吉のごとく尾張でうまれておればためらいなくかれらと覇を争ったであろう」
 「土佐のおうまれでは、いけませぬか」
 「どうにもならぬ。−考えてもみよ」
 と、元親はいう。土佐人は太古以来土佐に野生し、他国を知らなかった。隣国の阿波を知ったのも、元親がかれらを連れて攻め入ったのが最初で、大げさにいえば太古以来はじめて外界をかれらは見たのである。
 「おれとて、おなじだ」
 はじめて阿波、讃岐、伊予といった四国における他郷をみた。それですら唐・天竺のような異境の思いがした。
「わたくしはしませぬ」
「それは、おれが他国へ攻め入ってから物心がついたからだ。それゆえ、そなたのあたまは四国が普通になっている。四国を土台にしてつぎのことを考えることができる。おれはちがう。四国そのものが限度だ」
 「父上ほどの偉いなるお人が」
「これだけはどうにもならぬ。おれの家来たちも、上方へ攻め入るときけば、もうそう聞くだけで気が遠くなるだろう」
 「そうでございましょうか」
 「それが、世代なのだ」

■元親は名誉のために秀吉に降伏せず

<本文から>
ひとは、利に貪欲なのではない。
 「名誉に貪欲なのだ」
 と、元親はいった。戦場においてひとびとが勇敢であるのは、自分の名誉をかけているのである。名誉は、利で量られる。つまり戦場における能力と功名は、その知行地の多いすくないではかられる。他人よりも寸土でも多ければそれだけ名誉であった。男はこの名誉のためにいのちをすら捨てる。
 「それが、男といういきものだ」
 と、元親はいった。
 「それが」
 と、つづける。それ、というのは元親の士卒四万のおのれの名誉への期待のことをいう。その四万人の期待が、元親の一身にかかっている。それを、元親はいった。
「もし降伏すればどうなる」
 いわずと知れている。もとの土佐一団にもどってしまう。
 土佐一国ではかれらの期待を満足させてやることが不可能であった。かれらにわけてやる土地がない。かれらは失望し、その二十年の労苦、戦功、そして父兄の死はすべて無駄になってしまう。かれらはなんのために生きてきたか、その意義をうしなってしまうであろう。
「それをうしなわせてしまえば、わしは将としての価値がなくなる。ばかりか、かれらを裏切ったことになる」
 それが、元親の論理である。
 莱々には、ちょっとわからない。
 菜々に理解しにくい−というそのことは、つまりこうであった。戦ってほろべば土佐一国もなくなる、しかも敗北と滅亡は必至である。であるのに、「将士にあたえるべき土地を確保するために秀吉と決戦する」という元親の論理はどういうことなのか。
 「せめて」
 と、莱々はいった。
「せめて、土佐一国でもあれば、乏しさをさいて暮らすことができるではありませぬか」
 「総数四万人だぞ」
 元親は、目をむいた。総勢四万人にわけてやるべき土地は、たかが七郡二十余万石しかない土佐ではどうにもならぬ。二十余万石の力でせいいっぱいの兵数は四、五千人である。その十倍の将士を元親は養っている。
 「理由は、右に申したとおりだ」
 と、元親はふたたびおなじことをいった。もとの土佐一国に戻れば将士たちの生涯は無になるという意見である。無にすれば、元親はかれらを裏切ったことになる、ということであった。
 「だから戦うのだ。しかしかならず負けるだろう」

■元親は秀吉に天下を目指していたが生まれが悪かったと答える

<本文から>
 この時期、秀吉に対する最後の抵抗者であった小田原の北条氏も片づき、天下はまったく平定し、秀吉にとって得意の絶頂期であった。
 上段から諸侯をながめていると、
 (いずれもひとかどの英雄豪傑であったが、しかしながらおれの手にかかってはみなひと網でとらえられ、野の虎どもがいまは猫のようにおとなしくなっている)
 とおもえば、おのずと頬が笑みくずれてくる。
 ふと、長曾我部元親に目がとまった。痩せで色黒の顔に杯をくみ、黙然と飲んでいる。
 (酒が、好きらしい)
 ときに庭の紅葉をながめ、やがては杯にもどり、ふくんでは干している。
 秀吉は、座中を歩きだした。大名だけで二百余、旗本の高位の者、諸侯の待遇の御伽衆(お話相手)をふくめると三百人を越える大宴席である。
 秀吉は、下戸にちかい。わずかな酒で陽気になり、たれかれなく声をかけながらやがて元親のそばにゆき、どかりと腰をすえた。元親は気づき、
 −これは。
 と居ずまいをただそうとしたが秀吉は押しとどめ、無礼講よ、といい、
 「なんと、宮内少輔」
 と、かねがね聞いてみたかったことを、からりときいた。
 「ぬしはあれか、むかしあのように馬を四方に出して駈けまわっていたが、あのときの真のこんたんはどうであった。−四国だけが望みだったのか、それとも天下を心掛けたのか」
 突如の質問である。しかもその内容はいかに過去のこととはいえ重大であった。
 元親は、笑わない。
 もともとこの顔はよほど笑いづらく出来ているらしく、目じわひとつ寄せずに、
 「天下でござる」
 といった。秀吉は笑いだした。
 「四国だけが望みではなかったのか」
 「なんの四国ごとき」
 と、元親は吐きすてるようにいった。四国ごときが最終の望みではなかったという。
 「おもしろい」
 秀吉は、からかっていた。
 「宮内少輔のその器量ではちょっと天下はむりであろうな」
元親は内心むっとしたが、さすがに顔には出さず、相変らずの無愛想さで、
 「生まれあわせが悪うござった。ただそれだけでござる。いますこし早くうまれて参りましたならば天下の主になっていたでござろう」
「言うわ」
 秀吉は、手を拍っておかしがった。秀吉にすれば元親の器量のたかがどの程度のものか十分にわかっており、天下をとるにはだいぶ目方が軽いとみている。その軽さで歯ぎしりを噛んでいるのが愛嬌だったのであろう。
 が、元親は笑わず、秀吉が去ったあと、胸中の苦味が増して、いくら酔おうにも酔えなくなった。二十年の征戦の結果、いたずらに四国を荒廃させて結局は秀吉に献上するはめになったおのれの一生のばかばかしさが、元親をやりきれなくした。

■元親は秀吉の度量に感服した

<本文から>
天守閣は、五層八階である。その各階を見てあるくだけで足腰がくたくたになりそうであった。秀吉は一巡したあと、二階の一室で休息し、煎茶を出させ、侍女をよび、
「あの伊達染の羽織をもって来よ」
 と命じた。秀吉が気に入っている華美な羽織で、これを元親にくれてやろうというのである。やがて侍女が捧げてくると、秀吉はそれをうけとり、あらためて元親のほうへ押してやり、
「着よ」
 といった。元親は進み出て拝領したが、秀吉はここで着よ、といってきかない。元親はおどろいた。どこまでこの人物は気さくなのか。ともあれ元親はしりぞき、別室でそれを着用し、ふたたび御前にあらわれると、秀吉はこどものように手をうった。
「よう似合うた」
 元親はもう天守閣よりもなによりもこの秀吉に肝をつぶされた。
(この男にはかなわぬ)
 とおもう一方、この男になら負けるのは当然であったかともおもえた。
 元親は、帰国した。岡豊城にもどり、菜々に対面するなり、
「こんどこそ、秀吉に負けた」
 と、尻もちをつくようにすわった。
「お城の大きさに、でございますか?」
 菜々がきいているところ、大坂城というのは石垣のながさだけでも三里余にわたるというもので、この岡豊城にくらべると虎と犠ほどのちがいがある。
「いや、ちがう」
 元親は、くびをふった。なるほどあの気違いじみた巨大さの城には元親もおどろいたが、しかし、元親も秀吉の条件さえもっておればあのくらいの城はつくる。
「お城に積みあげられているという金鉱でございますか」
 と、莱々はきいた。元親は、その秀吉がもっている金銀もみせてもらった。秀吉は自分の金蔵、銀蔵をひとにみせるのがすきで、南蛮人でさえそれを秀吉みずからの案内でみせてもらい、そのおびただしさにきもをつぶしている。
「ちがう」
と、元親はいった。金銀など、そのように気のきいたものはなるほど元親はもたぬ。土佐にもない。秀吉がそれらを豊富にもっているというのは、かれが天下をとるなり佐渡ケ島の金山を官営にした。その時期、偶然、佐渡金山にあたらしい鉱脈がいくつも同時に発見され(その産出高は一時期世界で最高量を示した)沸き出たからである。秀吉という人物の運のよさはこういうところにもあるのであろう。しかしそれも元親はおそれない。
 「ちがうのだ」
 「では、なんでございましょう」
 「あの大海のような度量だ」
 と、元親はいった。じつのところ元親は秀吉に降伏したとき、次男の五郎次郎(批桝)を人質としてさし出した。人質は秀吉の実弟秀長があずかり、大和郡山城にとどめられていた。それを秀吉はこのたび、
 「人質などもうよい。五郎次郎を土佐へつれてもどってよい」
 と、みずから手をひいて元親の膝もとに乗せた。降伏者に対し、これほど寛大な態度を示した例は古来まれであろう。
 このよろこびについては元親は上方滞在中に国もとに手紙を書き、莱々にもあらかじめしらせておいた。
 「その五郎次郎の一件だけでなく、なにもかもかの人は大きい。それにくらべると、おれなぞは四国の虎といわれていても、たかが知れているとおもった」
 (虎が、猫におなりあそばしたらしい)
 莱々は内心そうおもったくらい、元親のことばは秀吉への敬慕でみちていた。
 この心境は、帰国後最初に家臣団と対面したときも語った。
 が、元親がいかに秀吉に随順したところで、もどるべからざるものがある。かれの四国平定事業のためにたおれた二万の人命であった。そのつぐないはその子孫に土地をあたえてやることでうずめるべきであったが、その土地もない。
 このとき元親はいった。
「元親自身でさえ、わずか一国程度のぬしになりさがった以上、知行をわけてやることも心にまかせぬ。この不本意、やむをえぬことながら深くわび入りたい」
 と、家臣にあらためて詫びた。戦国期の武将、武士たちの盟主、主人たる身としては、かれらの期待と労苦とその死にむくい得なかったのは一種の契約違反に似たようなものなのであろう。
 元親はせめて弔いをと思い、この数日後、国中の諸宋諸派の僧を国分寺によびあつめ、二夜三日の大法要をいとなみ、それをもって二十年の戦乱の終止符をうった。打ったつもりであった。

■元親の晩年は、一見、自分を投げてしまった

<本文から>
筆者は、長曾我部元親において人間の情熱というものを考えようとした。これをもってこの小説はおわるが、その主題が充足したかどうかは、筆者にはわからない。
 元親の晩年は、一見、自分を投げてしまったようなところがある。
 かれは朝鮮ノ陣にも出たが、しかし諸将の軍議にもあまり顔を出さない。
「青臭い大将どもが、もっともらしげに議しあう席に居たたまれるか」
というような心境だったのであろう。
四川に日本軍が城を築いたとき、塀に鉄砲鮮酢(銃眼)を切る。その工事のとき、秀吉の手もとから派遣されてきている目付の垣見和泉守家純という者が、
「それでは低すぎる。もうすこし高い場所に切れ」
 といった。そばにいた元親が、
「垣見どの、これでいいのだ。上の銃眼は胸の高さにし、下の銃眼は腰の高さにして切るがい」
「なにを申される。左様に低く切っては敵がのぞきこもう」
 「ばかな」
 元親はだるそうな笑いをあげ、「敵がここまできて城内をのぞきこむほどになっては城もしまいのときだ。大体貴殿は高く高くとおおせあるが、敵の頭上を撃つつもりなのか。諸事、かようなことは拙者のことばどおりになされよ」
 と、さっさと立ち去ったという。元親の物憂げな様子がそえるようである。
 −政治は土佐。
と、江戸時代になるまでいわれたが、元親の国内政治は、その法律である「長曾我部式日」や検地などにもみられるように、統治能力は非凡といっていい。
が、晩年はたしかに衰耗してしまっている。かれは朝鮮から帰陣後、からだが思わしくなく、土佐にはいい医師がいないため伏見にのぼり、伏見屋敷で起居していた。これが死ぬ年(慶長四年)の四月であった。この年の前年秀吉は死んでいる。その秀吉の死の前から、
「殿下(秀吉)にもしものことがあれば、天下は徳川どのに渡るであろう」
という観測は、目はしのきく大名たちのあいだでは半ば常識のようになっており、智恵の走った連中はすでに秀吉の死を見越し、なんらかの方法で家康に接近しょうとし、秀吉の死とともに目にみえぬ底流ができている。
 が、元親はその動きに無関心であった。自家保存のためには当然「徳川どの」に接近しておくべきであり、そのことが見えぬほどの人物ではむろんないのに、すこしも動いていない。
 動かぬばかりか、嫡子の盛親にも、それを輔佐する老臣にも、いっさい指示していないのである。ひとつには元親は世をすてたつもりか、豊臣家殿中を中心とする政界にいっさい無関心の姿勢をとっていたということであろう。かつ他の大名とも社交をしようとしなかった。このことが、元親を鈍感にしていたのか、そのために情報源がなかったのか、あるいはそういうようなことも面倒だったのか、そのいずれかであろう。この点、元親と似た経歴をもつ奥州の伊達政宗が、最後までいきいきとした時勢への感度と野望をもちつづけていたのとは非常なちがいである。
 元親は慶長四年五月十九日、六十一歳で死んだ。翌年関ケ原ノ役がおこり、盛親は様子もわからぬまま成りゆきに身をまかせて石田三成につき、敗亡し、土佐をとりあげられてしまっている。元親が、世に対してすべての情熱をうしなった結果がその死後に出たのであろう。さらに大坂夏ノ陣の結果、長曾我部家はあとかたもなくなり、歴史から消えた。

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