司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          夏草の賦 上

■元親は生得の臆病者

<本文から>
 「おれは少年のころ、物事に臆病であった。正直なところ、いくさというものを想うだにこわく、もし長じてこの家の大将になればどうしようと思い、そう思うと気がくるいそうであった。何度、武門の家にうまれたことを後悔したことか、わからない」と、意外なことをいいだした。
 「人からは、姫芳子といわれていた」
 と、元親はいった。すでにその一件については菜々もきいている。うなずきつつちょっと微笑すると、元親は「笑いごとではない」といった。
 「おれは少年のころ、何度も女に化りかわりたいとおもった。女ならば戦場にゆかなくともよい。そう思い暮らしているおれを人が姫君子とよんだのもむりはなかった」
 (私こそ、男にうまれたかったのに)
と莱々は思い、できれば代りたかったといおうと思ったが、元親の目が据わっている。
 「いまでも、そうだ」
 「え?」
 「怖い」
 「敵や合戦が、でございますか」
 「矢弾のうなり音、焔硝の爆ぜるひびき、とぎすました槍の穂や敵の武者押しのどよめきなど、どうにもならぬほどにこわい。そちだけに明かすが、おれは生得の臆病者だ」
 「そうでごぎいましょうか」
 「みろ」
  と、元親は腕をみせた。そう話しているだけで、おぞけがそそけだっている。
 (本音かしら)
 と、菜々は何度かそう思いつつきいていたが、元親が告白(としかいえない)している顔つきには一種の鬼気のようなものがあり、冗談とも思えない。

■元親は勝つだけの準備がととのわないといくさはしない

<本文から>
「四、五日、野山を歩いていた」
という。聞けば、百姓姿に変装して安芸氏との境界付近まで歩き、予定戦場の地形などを調査し、他日おこるべき大会戦の戦術をあれこれ練った、というのである。
 「おれは、つねにそういう男だ」
 と、元親はいった。われながら天性の武人ではないようにおもわれる。つねに自信がないために工夫に工夫をかさねるのだ、と元親はいうのである。
一方、敵の安芸国虎は武将としての天分がゆたかで、どうみても元親には自分よりすぐれているように思える。
 「名前どおり、土佐の虎だ」
 元親が物心づいたころから国虎の武辺は国中を圧していたし、元親がまだ十代のころ、せめて安芸国虎ほどの男になりたいと思ったことさえある。
「しかし考えてみれば、いくさに勝つということは、さほどむずかしいことではない。勝つ準備が敵よりもまさっていればもうそれで勝てるのだ。それだけのことだが、存外、武辺という評判の大将でも、この簡単な理に気づいていない」
 元親にいわせれば、勝つだけの準備がととのわねばいくさは絶対にすべきではない。撃つまで待つべきなのだ。待つために、敵を立ちあがらせぬだけの外交手段をくどいほどにほどこすべきだ、ともいった。
 元親は、それをやっているらしい。当方の準備未了のままで敵が立ちあがらぬよう、安芸氏にはそういう手を打ちつづけていた。
 「両家は永久に仲よくしたい」
という旨の手紙や使者を送ったし、めずらしい物産なども惜しげもなく安芸氏に贈った。

■元親は情報収集に熱心

<本文から>
 元親も、かわらない。
 「よく知る者は、よく謀ることができる」
 と考えている元親はその点では群をぬいてその収集に熱心だったといえるであろう。元親の上方関係の情報源は、堺商人であった。堺の船が入るたびにその商人や船頭を岡豊城へよんで歓待した。
 「長曾我部殿には、みやげはいらぬ。話さえもってゆけばよろこばれる」
 とかれらは思い、堺港を出港するときにはできるだけの多くの情報を、できるだけくわしくかきあつめて持って行った。
 天正元年九月、堺からやってきた播磨屋寮玄は岡豊で元親に拝謁し、
 「織田殿は、かようでござりまする」
 と信長の近況をつたえた。信長はこの八月、ながいあいだ敵対関係にあった近江・浅井と越前・朝倉の連合軍をついにほろばし、近江を平定したという。
 「やったか」
 元親は、おもわず声をあげた。これによって信長は、その本国の実演、尾張のはかに近江と京都、それに越前、伊勢の一部を掌握する大勢力になった。
 「しかし、織田殿には敵が多く、そのために封殺されるかもしれませぬ」
と宗玄はいったが、元親はもうきいておらず、視線を虚空にすえおいたまま身うごきもしない。
 元親は衝撃をうけた。この男は早くから信長を遠いはるかな国にいる競争相手として見据えていたのだが、いま話をきくと、そこまでに織田家は成長したという。
 が、元親はなお土佐二国七郡のうち、六郡まで得たにすぎず、一条氏をどうすることもできなかった。

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