司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          菜の沖の花6

■捕らえた嘉兵衛の人品や態度からよほどの者と値ぶみした

<本文から>
やがて観世丸は、二隻のロシア船のあいだに入りこんで碇をおろした。
 「どうする気だ」
 と、嘉兵衛は、フィラートフ中尉にきいた。中尉は日本語がわからないため、かぶりを振った。ただ、笑顔を作ってみせたのは、どういうわけであろう。
 このとき、ロシア人は嘉兵衛の縄を解いた。さらに他の者全員の縄をも解いた。
 図合船の武装ロシア兵のほとんどは、本艦にひきあげている。
 そのうちディアナ号のボートが観世丸に横付けになった。
 「乗れ」
 と、ロシア人が手まねで嘉兵衛にいった。
 「待て」
 嘉兵衛は手で制し、自分の衣類一式を持って来させた。船頭として外国の船に乗るのに、ふだんの潮風のしみこんだ着物では見ぐるしい。
 かれは絹の紋服に羽織をはおり、袴をつけ、脇差を一本帯びた。小男ながら横に張った体で、顔が大きいために、見ちがえるほど立派な容儀になった。
 ボートに移り、ほどなくディアナ号に着くと、上から音をたてて縄梯子がおろされてきた。
 ただの縄ではなく、緋色の羅紗を編んだ贅沢なもので、嘉兵衛があとで知ったことであるが、これは佐官−もしくは艦長−かそれ以上の高位の者に対する礼遇として用いられるものだった。尉官は紺色の羅紗、ふつうの者はたんなる縄の梯子である。
 ディアナ号は、嘉兵衛の人品や態度を見て、よほどの者と値ぶみしたらしい。
 嘉兵衛に同行した尉官は、紺色の梯子をのぼり、他の者はただの縄梯子をのぼったことからみて、捕虜である嘉兵衛にも、意外なことながら、この一点だけは自分が礼遇をうけていることを理解した。しかしあと、どうなるかは、想像もつかない。
 緋羅紗の縄梯子を登りながら、嘉兵衛は、
 (ロシアの大将と話しあうのだ)
 というただ一つ事に目的をしぼっていた。その目的のさらに奥には、観世丸の全員をたすけるというほかに、一分の副目的ももっていなかった。たとえば荷や船を保全したいということなど、すこしも思わなかった。
 この目的意識を単純にしてしまったことが、登ってゆく嘉兵衛をかろうじて落ちつかせた。
 ロシア軍艦も、英国式の作法で艦内秩序がうごいている。登りきって甲板へ一歩踏み入れる入口が、
「舷門」
 とよばれる。碇泊中の艦には、つねに舷門に一人か二人の衛兵が立っているものである。時として、内外の高官を艦にむかえるときもある。その場合、舷門において登舷礼が用いられる。
 当直将校の尉官が、着剣した銃をもつ一隊の下士官・兵を、二列に、それもむかいあわせにならばせる。高官がのぼってくると、いっせいに、
 「捧ゲ銃」
 をやらせ、次いで銃剣を交叉させる。その下を高官に通過させるのである。
 船頭嘉兵衛は、そういうことは知らない。
 かれは、このロシア帝国の軍艦の緋羅紗の縄梯子に手足を触れたとき、ロシアそのものに接し、かつはヨーロッパ文明の一つの突角に接触したのである。
 ロシア人たちが、氷のような刃を銃につけて身がまえているのをみて、
 (なにをしやがるんだ)
 と、目が三角になってしまった。しかも、二列のロシア兵は、尉官の号令とともに、たがいに銃剣を差しちがえて、屋根のようなものをつくった。
 嘉兵衛が翌年の文化十年(一八一三年)、帰国後、松前奉行にさし出した「上申書」には、
 「槍付の鉄砲」
 という表現になっている。嘉兵衛は、ロシア人どもが自分をおどしているのだとおもった。
 のち、かれの口述をもとにした右の「上申書」の表現は、かれの心事と態度を、おもしろく表現している。
 (お前らのおどしに乗るこの嘉兵衛かよ)
 という気持だったのであろう。

■嘉兵衛とリカルドの友誼が戦争を回避した

<本文から>
「それに、お前とは九カ月も寝起きを共にしてきた。それだけの仲であるのに夜の別れもなさずにそそくさと艦をおりるなどは不本意なことだ」
 嘉兵衛の『自記』では、
 別れに臨み、暇乞も碇に致さず候ては、甚だ不本意成る事に候故、今宵は、互ひに隔てなく積る物語りもいたす間、面白き談とあらば、本国の土産に聞せ候へ。
 と、かれが言うと、リコルドは手を拍ってよろこび、艦長室に多少の酒肴を用意した。そのあと、たがいに椅子にもたれ、過ぎたことどもや少年のころの話、家族のことにいたるまで尽きることなく語りあった。嘉兵衛の生涯にとってこの夜のこの時間の流れほど深く心に刻まれたものはない。
 「菜の花の沖」
 と、たまたまそういう題のもとで嘉兵衛の人間と人生について考えてきたこの稿も、この一夜のくだりでおわってもいいほどである。
 二人の話題は、転々とした。緊張した過去の一情景として、ディアナ号が日本にむけてぺトロバグロフスタの沖を出帆するとき、陸上からにわかに役人がボートで漕ぎよせてきて、リコルドになにかを伝えたということがあった。リコルドは憤然として拒否し、強行するようにして出航を命じた。嘉兵衛もその情景をおぼえているが、事の内容までは知らない。この夜の話で、
 「あのとき」
 と、リコルドはいった。
−出帆をとりやめろ。
 という急使が、上級機関からとどいたというのだ。
 「じつをいうと、ゴローニン少佐以下が生きているというタイショウのことばを信じたのは、私とオホーツク長官のべトロフスキーさんだけだったのだ。私の部下も、すでに少佐以下は殺されたと思っていたし、首都ぺテルブルグもそのように疑っていた。この報復のために、オホーツクで五隻から成る日本攻撃のための艦隊が編成されようとしていて、あの出帆間際の急使というのは、やがて日本と戦争をするから、出航を待て、ということだった。が、私はタイショウを信じて碇をあげさせた」
 と、リコルドは秘話を明かした。これが正しいとすれば(正しいにきまっているが)ただ二人の間に成立した信頼だけが、両国を戦争から救ったことになる。
 かれらは、文字どおり語り明かじた。夕食時から翌朝六時前までざっと十二時間、たがいに飽きることはなかったという。
 双方、相手の言語についてはほとんどカタコト程度にしか話せないのである。すでに幾度かふれたように両人だけに通用する単語、文法、言いまわしによって、語られた。さらには、言葉に聡いオリ−カ少年はすでに就寝していて、文字どおり余人は交えられていない。
 結局は、流暢な言語のみが人間の関係を成立させたり、深くしたりするものではないことを、この夜のリコルドと嘉兵衛における交情が物語っている。
 かれらは、なによりもたがいの精神が、わずかな量の言葉を理解するごとに、灯が点じられるようにして輝くというふしぎなことを知った。そのつど、相手の精神のふかさを知り、よろこびと驚きが漢いた。
 リコルドが、
「私は都でうまれ、少年期をロシアでもっとも美しいその町のなかで送った」
というだけで、嘉兵衛は、目の前のリコルドから、いかにも聡明そうな一人の少年を復元することができ、その少年がぺテルブルグの石敷の道を歩いている姿まで想像することができた。
 また嘉兵衛が、
「私は、ふしだらな娘と、物事のできぬ息子を持った」
と、悲しそうに語ったとき、リコルドはまだ四十五歳であるにすぎない嘉兵衛に、人の世に疲れた老人を感じ、心から同情した。
 「人間は、一代だ」
 事業を息子に継がせるつもりはない、私の事業は公の一部である、と嘉兵衛がいったとき、リコルドは嘉兵衛の哲学を知ることができた。
 ふたりが、夜が白みはじめているのに気づいたとき、
 「もう夜が明けたか」
 と、たがいに顔を見あわせた。
 「寝るか」
 双方、ベッドにもぐりこんだが、二時間後には目をさまし、ふたたび卓子をへだててすわり、茶を飲み、軽い食事をとった。
 このあと、上陸せねばならない。
 その前に、嘉兵衛は、乗組員全員に別れのあいさつをしたい、とリコルドにいった。
 「ついては、かれらにふるまうための焼酎を呉れまいか」
 焼酎とは、ウォッカのことである。ワコルドはよろこんで、船胎から五升(九リットル) の「焼酎」をとりださせた。
 総員が後甲板に集合し、それぞれの容器に「焼酎」を満たして、整列した。嘉兵衛はその前に立ち、杯をあげて、ながいあいだの友誼に感謝した。
 そのあと、艦長室で士官たちに別れを告げた。このとき、嘉兵衛は突如、謡曲の「高砂」をうたいはじめた。一同は、そのふしぎな節まわしにおどろいたが、「四海の波が静まる」というその意味を寡兵衝からきくにおよんで、いっせいに拍手をした。

■町人の嘉兵衛が外交の任にあたる異例の決定

<本文から>
 日本側も、よくやった。
 封建的身分制や幕藩官僚主義からいえば、外交の衝にあたるものは嘉兵衛ではまずない。
 嘉兵衛は、町人としてこの交渉から除外さるべき存在であった。幕藩体制の原理では町人には公権を担当する権利はみとめられないのである。たとえ諸藩の士といえども、陪臣であるために国事には参加できなかった。
 であるのに、松前奉行服部備後守と高橋三平、柑本兵五郎の三人は合叢し、
 −高田屋嘉兵衛を臨時の応接掛とすること。
という、異例の決定をした。幕藩体制の原理からいえば川がさかさに流れるような決定といっていい。
 つまりは、嘉兵衛に代理権をあたえた。むろん奉行を代理する資格ではなく、この一件の担当官高橋三平の権限を代理するのだが、それにしても与えられた権限の幅は大きく、かつ異例だった。
 交渉の第一日は、九月十八日である。
 朝、嘉兵衛は小舟に乗ってディアナ号に漕ぎつけた。小舟には、使者をあらわす白い幟ひるがえっている。
 嘉兵衛は艦長室で、自分が公式の応接掛にえらばれた、と言い、だからこの交渉中だけ、服装をあらためねばならない、といった。
 ただし、リコルドの「手記」によると、
 交渉の条々を申伝える間は、官吏として特別の礼服を着用せねばならないよ。
と、軽い調子で微笑いながらいったらしい。やがて嘉兵衛は、別室にしりぞき裃、黒絹服の小袖、袴、大小といった装束にあらためた。その間に、リコルド自身も金モールの光る礼服にあらため、長剣を帯びた。かつ士官たちにもそのようにさせた。
 やがて艦長室にリコルドは士官全員をあつめ、公式の外交官である嘉兵衛に、イルクーツクの長官から松前奉行にあてた公式の書翰を手わたした。書翰は、青い羅紗忙つつまれていた。
 「たしかに」
 と、嘉兵衛はおごそかにいったが、どこか田舎芝居の役者じみて滑稽感もただよっていた。

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