司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          菜の沖の花5

■嘉兵衛は大火のあと函館を復旧した

<本文から>
 嘉兵衛が三十八歳の文化三年(一八〇六年。フヴォストフ大尉が北辺襲撃をはじめた最初の年にあたる)、箱館に大火がおこり、町のほとんどが焼け、嘉兵衛の店も焼けた。
 幕府は、嘉兵衛なしでは蝦夷地運営ができないところまできていた。すぐさま新地を下付し、嘉兵衛に店を建てさせた。
 嘉兵衛は、町をつくるためにこまごまとしたことをやった。市中八カ所に、自費で防火用の井戸を掘った。このため多数の井戸掘り人足を内地からよびよせた。
 「井戸」
というものを、蝦夷びとたちは知らなかった。人足たちが井戸を掘るのをめずらしそうに見にくる蝦夷びとも多かった。
 箱館は、一面職人の町にもなった。たとえば井戸掘り人足たちも、嘉兵衛のすすめで定住するようになった。しごとはいくらでもあった。農家が二戸できるたびに井戸は一つ要るのである。町に農村に、人口は急速にふえた。
 植木職人も、定住させた。最初、市内恵比須町の備蓄米の倉庫群のまわりに、桜、梅、桃などを植えたのだが、植えるについては大坂の高津から親方以下をよんだ。職人たちの何人かは、この土地に残った
 「苗は、いくらでも船で運んであげるから」
と、かれらをはげました。
 また嘉兵衛は、幕命によってつぎつぎに官船をつくった。そのための船の作事場が拡大し、その規模は大坂などにはとても太刀打ちできないとはいえ、日本海岸の浦々の平均的な造船能力をはるかに越すほどになった。船大工の人数が、大いにふえた。大火以来、内地から家大工も多数移住してきて、住みつくようになった。
 「いまに箱館が長崎になる」
 と、嘉兵衛はたえず言って、定住しようとする者や、またすでに定住していながら冬の寒さに悲鳴をあげる者をはげました。

■嘉兵衛は業欲は欠けいたが不思議な能力をもっていた

<本文から>
 嘉兵衛は、みずから船を指揮して航海をする。また日本国を一つの経済的機能として見る思想がごく自然にできていて、商売をし、流通に従事してもいる。次いで船も造る。造船家としての嘉兵衛は、この時代、とびきりの存在であったろう。
 嘉兵衛に欠けているものは、業欲というものであった。業欲以前に、金銭についてのごく一般的な欲望もすくなかった。あるいは欠如しているといったほうがよかったかもしれない。そのことが、ひとびとに嘉兵衛という人間にふしぎな味を感じさせた。
「あの男は、ちがった男だ」
と、幕府の箱館の駐在者も、松前(福山)の駐在者も、おもっていた。
 嘉兵衛を旋回させているのは、この男が持っている能力というものである。
 「能力」
というものだけでは、世の中はまわらない。それが、江戸封建制というものであった。武士は門閥や身分制の上にあぐらをかき、商人は株仲間という特権の上で安住して、関心と精力の多くを、武士なら組頭の気うけをよくし、特権商人なら役人との関係を円滑にするという社交についやしてきた。
 このように品よくおさまった秩序社会にあってめざましく能力を発揮するというのは、それじたいが下品な印象をうけ、いかがわしく思われ、出る杭は打たれるという当時の諺が示すように、結局は自滅することが多い。
 封建制の目的は、あくまでも古沼の水面のようにしずかな秩序の安定にある。しかし、社会の底をゆるがしている流通経済は、幕府や藩の財政をあやうくしていたために、幕府はともかく、諸藩では右の流れに調和すべく能力のある経済官僚をひきたてては、この時代のことばでいうところの殖産興業に力を入れてきた。もっとも、それが成功すると、かえって能力のある成りあがり官僚が「奸臣」として農本主義的な「忠臣」から指弾され、結局は忠義の刃にかかって斬られてしまう。多くの御家騒動は、爽雑物を洗いながすとほぼ右の類型に近かった。
 幕府には、諸大名の政治・行政の範たるべし(つまりは農本主義をまもる)という伝統がある。このため、幕府自身が、諸藩のようにはしたなく殖産興業にはげむということはなかった。
 松前薄からとりあげた蝦夷地を直接経営するという局面になって、幕府も、蝦夷地に限定したことながら、殖産興業をやらざるをえなくなったのである。ただし、儲けようという意識はすくなかった。
 幕府はみずから「天下」と称している。天下国家という意識があるがため、幕府自身の私利を追求するわけにはゆかず、防衛と開発のために、当初は莫大な予算を蝦夷地の山と海にそそぎこんだ。が、そのことが、財政を危うくした。
 「できれば、蝦夷地で利益をあげ、その利益で防衛と開発をする」
という方針に変わって行った。そのつど、嘉兵衛に頼らざるをえなかった。この時期の幕府は、一介の町人である嘉兵衛一個の能力におんぶしつづけていたという見方もなりたたなくはない。このため、嘉兵衛に大きな官金が集中した。嘉兵衛はそれを開発のために小気味よく散じた。でなければ、この男は多くの先例のように没落していたにちがいない。

■フヴォストフ事件以降に防衛のための造船の注文をうける嘉兵衛

<本文から>
 翌文化三年、フヴォストフ事件がおこり、幕府は北方の課題のなかで防衛の面を大きくした。
「大きくした」
といっても、奥羽諸藩から警備兵を出させることと、官船をさらに多く建造することぐらいのもので、それ以上のことは、江戸幕府の能力を越えていた。
 たとえば、文化五年(一八〇八年)、松前奉行が嘉兵衛をよんで、諮問している。
 −官船を小型にしたい。
 というのが、松前奉行の考え方であった。せいぜい、三、四百石積みの船を多くつくり、一艘に人数を多く乗りこませるようにすれば、戦闘力も輸送力も増すではないか、ということである。
 「それは、よろしくございませぬ」
 と、嘉兵衛はむしろ大船をつくるべきだ、と逆のことをのべた。
 「三、四百石積みでは、船を操る上での便利もわるく、それに船体もよわく、とても北海の風浪に耐えられませぬ」
 と言い、
 「よく沖合を凌ぎ、しかも御人数を多くのせ、さらには大筒も備える軍船となると、三千石積みぐらいでないと叶いませぬ」
 と、三千石積み論をのべた。
 嘉兵衛はこの前年、フヴォストフ事件の影響による幕命で、あらたに軍船三艘を箱館でつくり、十月に凌工させていた。明徳丸干六百石積み、翔鳳丸干五百石積み、景福丸干四百石積みである。嘉兵衛のかつての手船辰悦丸が千五百石積みという威容をもって人目をおどろかしたように、この当時としては、その程度が最大の船といえた。むろんそのことは江戸初期の幕府の大船禁止令によるもので、技術的な建造能力の問題ではない。技術的には、三千石ぐらいの船はらくにつくれるのである。
 松前奉行は、いまひとつ質問した。
 「唐船はどうか」
 中国式のジャンクのことであった。ジャンクならば構造が堅牢で、西洋船ほどではないにしても甲板に似たものがあり、舷側を超飛してとびこんでくる波に対しても、多少の水蜜性はある。それに帆柱が二、三本で、帆走力は西洋船にややちかい。しかし、ジャンクをつくるとなると幕府自身が、大船建造の禁を破ることになり、ゆくゆくは諸藩や商船にそれが波及し、禁令が有名無実になるのではないか。
 が、嘉兵衛は、唐船は建造法もわからず操帆の方法もわからない、といってロをとざした。不得手なことをやらなくても大和型の船で十分だと思っていたのであろう。右の概要は、嘉兵衛はあとで文書でさし出している。

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