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<本文から> 嘉兵衛が三十八歳の文化三年(一八〇六年。フヴォストフ大尉が北辺襲撃をはじめた最初の年にあたる)、箱館に大火がおこり、町のほとんどが焼け、嘉兵衛の店も焼けた。
幕府は、嘉兵衛なしでは蝦夷地運営ができないところまできていた。すぐさま新地を下付し、嘉兵衛に店を建てさせた。
嘉兵衛は、町をつくるためにこまごまとしたことをやった。市中八カ所に、自費で防火用の井戸を掘った。このため多数の井戸掘り人足を内地からよびよせた。
「井戸」
というものを、蝦夷びとたちは知らなかった。人足たちが井戸を掘るのをめずらしそうに見にくる蝦夷びとも多かった。
箱館は、一面職人の町にもなった。たとえば井戸掘り人足たちも、嘉兵衛のすすめで定住するようになった。しごとはいくらでもあった。農家が二戸できるたびに井戸は一つ要るのである。町に農村に、人口は急速にふえた。
植木職人も、定住させた。最初、市内恵比須町の備蓄米の倉庫群のまわりに、桜、梅、桃などを植えたのだが、植えるについては大坂の高津から親方以下をよんだ。職人たちの何人かは、この土地に残った
「苗は、いくらでも船で運んであげるから」
と、かれらをはげました。
また嘉兵衛は、幕命によってつぎつぎに官船をつくった。そのための船の作事場が拡大し、その規模は大坂などにはとても太刀打ちできないとはいえ、日本海岸の浦々の平均的な造船能力をはるかに越すほどになった。船大工の人数が、大いにふえた。大火以来、内地から家大工も多数移住してきて、住みつくようになった。
「いまに箱館が長崎になる」
と、嘉兵衛はたえず言って、定住しようとする者や、またすでに定住していながら冬の寒さに悲鳴をあげる者をはげました。 |
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