司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          菜の沖の花4

■利と欲は違う

<本文から>
 嘉兵衛は箱館に入ってちょうど十日目に、幕府の仮役所から割賦(よびだし状)がきて、
 −御用がある。
 と、いう。すぐゆくと、三橋藤右衛門と高橋三平が、書類をあちこちにつみあげた広い御用し部屋にすわっていた。嘉兵衛はむろん身分柄、そこへは入れない。枚敷の廊下にすわらされた。
 「やあ、嘉兵衛、そちの顔を三日も見ぬと淋しいわい」
 と、三橋藤右衛門は、心からの声を出して、うれしいことばをかけてくれた。そのそばで、三橋以上に嘉兵衛好きの高橋三平が、顔をほころばせてじっと見つめてくれている。嘉兵衝は、ばかなことに、涙をあふれさせてしまった。
(自分をそこまで買って、それほどまでに好いてくれている)
という人にめぐりあうほど、人の世でのよろこびはない。むかし、唐土では、こういう感動のために男は命をすてる、という激しい言葉が書かれている書物があるということをきいている。
 一面、嘉兵衛は、商人であった。
世に商人ほど、物や人を見る目と姿勢が冷静なものはないと嘉兵衛はおもっていた。
 −商人たる者は、欲に迷うな。
 とさえ、嘉兵衛は、自分の手育ての者たち忙教えてきたのは、一種の極端な表現であった。利と欲とはちがうのだ、ということを教えるための表現で、世間をひろく見渡すに、欲で商いをする者はたとえ成功しても小さくしか成功せず、かりに大きく成功してもすぐほろぶ、ともいった。
 この極端な表現は、商いの上で私情を出すな、と嘉兵衛がかれらにいっていることにもつながっている。自分の趣味、嗜好、あるいは商いの相手を私的に好きだというだけで利の潮から外れた舟のうごかし方をするな、ということをも意味していた。

■松前藩は千島を領土と考えた

<本文から>
 アイヌが千島列島に鮭やラッコなどを獲るべく島々に展開したのは、いつの時代であったか、よくわからない。ただ島々の名が、ことごとくアイヌ語であることだけはたしかである。
 つまりは、和人やロシア人が千島にやってきたときは、この島々やその沿海で狩猟・漁業を営む者がアイヌであったことだけはまぎれもない。
 かれらは、領土権を主張しなかった。
 シベリアの原住民と同様、狩猟・採集の生活者として領土権の思想を稀薄にしかもたなかったことと、たとえ持っていても、太古のひとびとのように小集団にわかれ、広域社会をつくっていなかったため、主張するだけの力をもたなかったということが理由の大きな部分であろう。
 「千島は、わが藩のものだ」
 と、松前藩はふるくから考えていた。その「領有」とは、後世、ロシア人たちがやったように、上陸してきて租税をとりたてる権利のことであった。
 松前藩は、自分の版図である蝦夷地と樺太、千島をふくめた地図を持ち、極秘に保存していた。三代将軍家光のころの正保四年(一六四七年)に幕府に提出し、それによって元禄十三年(一七〇〇年)の『松前蝦夷国』が描かれた。これには千島の三十五島が描かれ、同時期の『松前郷帳』には三十四島の名があげられている。千島については、
 「まだ一部でしか徴税していないが、他の島々についてはその権利を留保している」
というつもりであったのであろうか。

■大公儀のために蝦夷地の海運をひきうける

<本文から>
こういう建前からいえば、幕府が島々をふくめた東蝦夷地を行政するにあたって、当然「深き思召し」によって堅牢な方針と精密な施策があるはずで、高官たる者が、
 −霧の中にいるようだ。
 というようなことは、すくなくとも一介の船頭にいうべき言葉ではない。
 松前藩のながい怠慢によって、北海道本土ですら、沿岸を把握しているだけで、内陸の大部分がわかっていないのである。蝦夷地を行政するということは、探検を伴った。このため幕臣のなかから名だたる探検家が数人も出たが、しかしかれらは海を知らない。
 西洋も、あるいは赤人たちも、その探検をするにあたって、航海者が先頭に立つ。日本国には航海者らしい航海者がいなかった。
 このことはむろん、開祖家康幕府以来の方針によって、遠洋航海を禁じ、大船の建造を禁じたためで、たれの責任でもなかった。徳川蔦府そのものが、櫓と帆をすてた政権だったからである。
 「どうであろう、嘉兵衛」
 と、三橋藤右衛門は言いつづけている。
 嘉兵衛は、決心してしまった。
 とっさに、決心というものが、なにやら酒に似たものだと思った。それが血にまじって頭にのぼったとき、
 (これで、なにもかも仕舞いだ)
 と、目のくらむ思いがした。
 嘉兵衛は、本来ならおそらくここで没落へ出発したであろう。官の御用を言いつかった廻船業には、ろくな運命が待っていない。それに、かれが持船としている数艘の手船は、どれもが、かれとその配下たちによる命がけの航海および低い貨銀によって手に入れたものであった。かれらに相談もなくここで幕府の蝦夷地御用の運送業者になってしまうというのは、かれらへの裏切りといっていい。
 −かれらは、辛抱してきた。
 そのことは、弟たちはともかく、誰もがゆくゆく独立し、小さくとも持船の廻船業者になりたいという気持があったからでもあろう。
 それらの希望が、ここでこなごなになるのである。
 ただ一つ手がある。
 −深入りをしない。
 ということであった。深間にはまって、たとえばこのさき、幕府からお扶持をもらったり、あるいは苗字帯刀の身分にとりたてられたりすることになれば、商いの自由はうばわれてしまう、そこまではゆかず、
 −ただ一時期にかぎり、あるいは仕事を限って、大公儀のために蝦夷地の海運をひきうけてもいい。
 ということであった。
 ただ一つ、三橋藤右衛門の懇請をうけると、とくなことがある。
 「高田屋」
 というものが、廻船問屋として公認されることである。
 嘉兵衛は、兵庫に籍を置いている。
 今後も兵庫を本店としつづけるつもりでいるが、しかし兵庫においては、廻船業を営みうる権利(株仲間)が十三軒分きりしかない。
 いまの嘉兵衛は、サトニラさんの「堺屋」の既得権を看板にして廻船業を営んでいるが、違法といえば違法である。
 この点、
 「箱館」
 というのは、新規な土地であり、廻船問屋の株仲間も形成されていない。ついでながら、
 「株仲間」
 の本質は、幕府や藩が問屋商人を同業ごとに統制するために作らせたものではなかった。同業者自身が、過当競争を避けるため申しあわせたことから出発した。ただその申し合わせを法的にするために幕府や藩の力を借りてきただけである。
 その株仲間を箱館でつくるには、幕府のうしろだてがあったほうがよい。何にしても、いまひとつの本店を箱館におくということで、廻船問屋「高田屋」は、天下公認のものになりうるのである。
 「とりあえずは、エトロフ島に漁船、漁網、漁具を運ぶだけのことをさせていただきます。あとのことは、嘉兵衛の一存では参りませぬ」
 と、募兵衛は、自分の事業の実情について、正直に語った。

■嘉兵衛たちは蝦夷の人々と共生した

<本文から>
嘉兵衛たちの漁業は、島蝦夷たちの協力がなければなりたちにくかった。
 商品(貨幣)経済はそれ自体に毒性を持っている。数百年の時間をかけて徐々に発達するときは毒性が多分に薬効になるが、短兵急にそれが処女地的な純農地帯に殺到するとき、元禄期の南部藩領に凄惨な貧富の差をつくったように、むしろ悪害であった。
 しかし千島は、そうではなかった。
 島蝦夷たちは釣針をつくるほどの鉄器も生産しないほどに生産的には未開で、むろん農耕さえ知らなかった。
 かれらはヤスを用いたり、手づかみしたりして魚を獲ってはいたが、冬の食糧備蓄まではできなかった。ただこの当時、北海道の噴火湾や千島方面忙は鯨が多かった。鯨がなにかの拍子で陸へ突進して打ちあげられるときのみ、その肉を冬の食べものにした。鯨がとれないときは、冬季に餓死する者が多かったといわれる。
 これほどに生産的未開の段階においては、大漁業方式をもちこんだ嘉兵衛は、島蝦夷たちにとって、食べものをもたらしてくれる救いぬしになった。
 ある時期の嘉兵衛のエトロフ漁場は、幕府におさめた運上金だけで千五百両以上になり、漁獲高は一万五千石を越えた。産物は鱒や紅鱒だけでなく、錬、鱈、鰯、鯨、布海苔のほ
か、ラッコ皮、狐皮、縞鼠(シマリスのこと)、鷲の羽などまでふくまれていた。
 漁獲高のうち、数百石は地元に分配し、食糧とした。さらに一年にこの島に運んだ米は三千五百俵で、これによって島蝦夷が米食をするようになった。
 さらに嘉兵衛は、かれが漁場をひらいた最初から島蝦夷に農業を教え、適地をえらんで、豆類や蔬菜を植えさせた。気候条件のわるい土地だけにどうかと思われたが、種子をまいてみると、さほどの手間をかけたわけではなかったのに、思ったより大きな収穫があった。
「土が初心なのだ」
 と、嘉兵衛は大いによろこんだ。それ以上に、島蝦夷たちはよろこび、まだ三十そこそこの嘉兵衛を父親のように慕った。
 嘉兵衛がエトロフ島でやったことどもをあげれば、きりがない。島蝦夷たちに衣類をあたえ、米、塩、酒をあたえた。
 その上、
 「蝦夷舟もいいが、図合船のほうが安全だ」
として、その操法を教えた。
 それらはむろん労働力の確保のためということでもあったが、この男の気持も、かれがやることも、そういう功利性をはるかに越えていた。
「わしの故郷も、島だ」
 と、かれらにいった。
「気候こそこの島よりはいいが、人間が多く、そのわりには田畑がすくなく、四面が海でありながら、この島の五十分の一も魚がとれない。それから思うと、エトロフ島は神仏の恵みの深い島だ。みな元気を出せ」
 −みな元気を出せ。
 というのが、蝦夷びとたちへのロぐせになった。
 この寛政十二年から数年のあいだこそ、嘉兵衛の生荘でもっとも張りつめた時期であったろう。
 (人の一生に、そういうときがあるらしい)
 と、嘉兵衛自身、その流れの真っ只中で抜き手を切って力泳している自分を、体中の節々の手ごたえで感じていた。
 齢三十二であった。
 体力も充実していた。気が張っているために、わずかな睡眠で日々の疲労をとることができた。酒は飲んだ。ただ嘉兵衛はごく少量の酒で酔うたちで、酔えば筋肉が豆腐になったようにやわらかくなる。瞼が垂れて居ながらに眠ってしまうこともあったし、ときに、
 「章魚おどり」
 と称して、章魚の泳ぐさま、岩につかまるさま、えものをとらえるさまなどを実演してみせた。最後はたこつぼに入るさまを演じて、そのままでねむってしまうこともあった。
 陸の小屋にいるときもそうであったし、船上にいるときもそうだった。
 小屋では、たえず蝦夷びとと酒をのんだ。

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