司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          菜の沖の花3

■無名の嘉兵衛は大船・辰悦丸で一気に信用を得る

<本文から>
 嘉兵衛は、無名の人間として松前城下へきた。
 ところが、入港早々人気があがり、数日すると、
 「ぜひ、うちにも遊びにきてほしい」
 などという誘いが、上級武士や大老舗の両浜商人などからしきりにかかった。この人気は、ひとつにはかれが搭乗してきた、
 「辰悦丸」
 という途方もない大船のおかげであったろう。
 ふつう津軽から松前へくるのは五百石積み程度で、若狭小浜や越前敦賀からくる船も「千石船」とは称していながら八百石ぐらいであった。
  そこへゆくと辰悦丸は正味千五百石を積むのである。松前という遠隔交易の一大基地においても千五百石船があらわれたのは最初で、毎日、碇泊中のこの巨船をみるために浜に人がむらがっているほどであった。
 当然、
 −この船頭・船主はたれじゃ。
 ということになった。
 −よく蕨屋の旦那と歩いているあの小兵の大頭どのがそれよ。
ということになって、ときには子供がうしろからついてくるほどにまでなった。
 子供たちには閉口したが、御家中のお歴々や大商人が、
 −ああ、お前様が辰悦丸の船ぬしであられますか。
 といって、商いの話がすべてうまくいくことが、嘉兵衛自身おどろくばかりであった。
 (まことに、よい目に遭わせてくれる)
と、辰悦丸を幸運の化身のようにおがみたくなるおもいがした。
 嘉兵衛はかねがね海南である以上は船がりっぱでなければならないと思っていた。
 この当然な思想を、名だたる廻船問屋が存外もっていなかった。
 船というのは高価なわりには寿命がみじかく、とくに百石以上の大船はせいぜい十五年ぐらいの寿命で、まことにはかない。家屋が恒久財とすれば船は消耗財であろう。
 それに北前というような冬季の月本海の荒海を避けねばならぬ航路の船は、一年に一、二航海できる程度で、一隻の生涯が、よく働いても二十往復できればいいほうだった。
 このため、つい、船にかける資金をけちけちせざるをえなくなる。その上、難船・破船してしまえば荷もろとも元も子もなくしてしまい、そのため底の浅い廻船問屋はつぶれてしまう。
 廻船間屋というのは剛腹な肚づもりを必要とする商売でありながら、その危険の多さと注ぎこむ資金の大きさから考えると、たれでもやれる稼業ではなく、気が小さくなればどこまでも小心になってしまう稼業でもあった。その気の小ささが、卓れた船をもつという方向にどうにもゆかないものらしかった。
 嘉兵衛は旗揚げの最初から日本一の大船を造ってしまった。この船の入費をとりもどすのは大変なことであったが、しかし人目を驚かせる大船であったればこそ、無名の嘉兵衛が、松前上陸早々、土地の商人から信用を得たし、また多分に商人化している松前の御家中からは、あたかも一軍の総帥でもあるかのような敬意をうけるにいたったといえる。
 嘉兵衛が、馬鹿でかい船をつくった理由は商いのすべり出しをよくするためであったが、そのことが予想以上にうまく行った。

■松前藩は蝦夷を奴隷化したときからこ統治能力をうしなった

<本文から>
 松前藩は、蝦夷を奴隷化したときから、この蝦夷地に対する統治能力をうしなったといっていい。
 さらには、ロシアの南下情勢を幕府に対して隠蔽する政治的習性をももっていた。
 −ロシア人のことが幕府に知られたりすると、蝦夷地をとりあげられてしまう。
 という自藩の権益中心の利害判断が、この藩の対外情勢を判断する上での絶えぎる基準になっていた。
 嘉兵衛のこの時期から十三年前の天明五年(一七八五年)といえば、最上徳内がはじめて幕府の蝦夷地巡検使の下役としてこの地を踏んだ年である。
 そのときの幹部のひとりである佐藤玄六郎(勘定方普請役)が江戸に帰って幕閣にさしだした報告書のなかに、
 「天明五年の秋、宗谷から東蝦夷地にやってきたとき、アッケシ(厚岸)の大魯長イコトイという者が、玄六郎の泊まり小屋に夜陰ひそかに訪ねてきた」
 という。
 この大魯長が訴えるのに、松前の役人も運上屋の手代も、幕府のお役人に赤人のことは言うな、と釘をさされた、というのである。
 「もし残らしたれば、その方らの首を切るぞ、船もいっさいよこさぬぞ、ときつく言われました」
 実際に赤人はウルップ(得撫)島まできているのだ、ということを大酋長はくわしく語った。
 この大魯長は、クナシリ(国後)島の乙名(魯長)のツキノエの話もした。ツキノエは赤人を見届けるためにウルソプ島まで行っているのである。しかし、松前の役人はツキノエの口から赤人のことが洩れるのを恐れ、
 「江戸役人と面会してはならぬ。もしするならば槍にて突き殺すぞ」
 といったという。

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