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<本文から>
かれは、御影屋という廻船問屋の株を買って、十艘ばかりの船持であった。
松右衛門は、水主あがりである。
水主のころには北風の湯の世話になり、その後も北風家やその別家の船具屋喜多二平家の応援をずいぶん得た。
やがてはこの兵庫浜の旦那衆のひとりになったのだが、それでもときどき北風の湯にやってきて諸国の船乗りと話したり、台所ではまれに膳部をもらい、銚子一本をうれしそうに飲みながら、帆のあつかい方や、舵の取り方などをひとびとに懇切に話した。
「松右衛門旦那は、おいくつぐらいでしょう」
嘉兵衛にすると、松右衛門といえば歴史上の人物のように思えるために七十、八十の老翁かとおもっていたが、
「四十九かな、五十かな」
と、松右衛門がいったことで、また驚かされた。まだ十分直乗の船頭がつとまる壮齢ではないか。
播州に高砂という浦がある。
山影が遠く、加古川がひろやかな平野を流れて海に入るあたりに洲をつくり、やがてこの白い砂上に浦ができた。
播磨灘を通る船は、古来、この高砂の白い渚をいろどっている松原を目印にし、謡曲の文句からも想像できるように、遠くから帰ってきた船はこの松原をみて、はや住吉(難波)も近いぞとよろこびあったかとおもわれる。
高砂と尾上は地域がつづいていて、海上からみれば区別して考えるほどのこともない。松原もつづき、高砂尾上の松などといわれる。
この松原は、黒松と赤松が相生になっている。
相生は相追という読もある。沖からみれば松がたがいに追いあいをしているように見えるという形象から出た想像だろうが、赤と黒が互いちがいに入りまじっているめでたさを意味すると考えたほうが自然かもしれない。
さらにそれも不自然の説とする考えもある。相生とは単に「一緒に生まれ、一緒に育つ」というだけの意味で、後世の物知りが赤と黒の松が、一幹おきにはえているのを相生であるとしたため、元禄年間、明石侯がわざわざ整頓してそのように植えかえたのだとする説である。
松右衛門は、寛保三年亥の年(一七四三年)にこの高砂にうまれた。
募兵衛がこの北風の湯へ行った年よりもずっとのちに松右衛門は幕府から工楽の姓をあたえられ、工楽松右衛門として海事史上記憶されているが、この時期は御影屋松右衛門として知られている。
高砂の生家も、船持の小さな問屋であった。 |
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