司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          菜の沖の花2

■松右衛門

<本文から>
  かれは、御影屋という廻船問屋の株を買って、十艘ばかりの船持であった。
 松右衛門は、水主あがりである。
 水主のころには北風の湯の世話になり、その後も北風家やその別家の船具屋喜多二平家の応援をずいぶん得た。
 やがてはこの兵庫浜の旦那衆のひとりになったのだが、それでもときどき北風の湯にやってきて諸国の船乗りと話したり、台所ではまれに膳部をもらい、銚子一本をうれしそうに飲みながら、帆のあつかい方や、舵の取り方などをひとびとに懇切に話した。
 「松右衛門旦那は、おいくつぐらいでしょう」
 嘉兵衛にすると、松右衛門といえば歴史上の人物のように思えるために七十、八十の老翁かとおもっていたが、
 「四十九かな、五十かな」
 と、松右衛門がいったことで、また驚かされた。まだ十分直乗の船頭がつとまる壮齢ではないか。
 播州に高砂という浦がある。
 山影が遠く、加古川がひろやかな平野を流れて海に入るあたりに洲をつくり、やがてこの白い砂上に浦ができた。
 播磨灘を通る船は、古来、この高砂の白い渚をいろどっている松原を目印にし、謡曲の文句からも想像できるように、遠くから帰ってきた船はこの松原をみて、はや住吉(難波)も近いぞとよろこびあったかとおもわれる。
 高砂と尾上は地域がつづいていて、海上からみれば区別して考えるほどのこともない。松原もつづき、高砂尾上の松などといわれる。
 この松原は、黒松と赤松が相生になっている。
 相生は相追という読もある。沖からみれば松がたがいに追いあいをしているように見えるという形象から出た想像だろうが、赤と黒が互いちがいに入りまじっているめでたさを意味すると考えたほうが自然かもしれない。
 さらにそれも不自然の説とする考えもある。相生とは単に「一緒に生まれ、一緒に育つ」というだけの意味で、後世の物知りが赤と黒の松が、一幹おきにはえているのを相生であるとしたため、元禄年間、明石侯がわざわざ整頓してそのように植えかえたのだとする説である。
 松右衛門は、寛保三年亥の年(一七四三年)にこの高砂にうまれた。
 募兵衛がこの北風の湯へ行った年よりもずっとのちに松右衛門は幕府から工楽の姓をあたえられ、工楽松右衛門として海事史上記憶されているが、この時期は御影屋松右衛門として知られている。
 高砂の生家も、船持の小さな問屋であった。

■海では人間が大自然のなかでいかに非力で小さな存在かということを知る

<本文から>
松右衛門旦那は酒を飲んでも、姿勢がくずれない。野のように太いひじを水平に張って杯をふくむ。
 「海は、良えな」
一度、海を知った者は、陸で暮らしている人間とどうにも間尺があわなくなる、とも松右衛門旦那はいった。
 その一つは、海でくらしていると、人間が大自然のなかでいかに非力で小さな存在かということを知る、という。海の人間のなかで、陸にいるような増上慢や夜郎自大の者はおらんよ、といった。
 陸には、追従で立身したり、人の褌ですもうをとって金儲けをする者がいるが、海にはおらんな。
 真に人間というものが好きになり、頼もしくなるというのも、海じゃな。一ツ船に乗ってあらしに遭ったとき、たがいにたすけあって何とか破船、難船せぬように走りまわったあとは、のちのち思いだしても仲間とはなんとありがたいものじゃと思う、と松右衛門旦那はいった。
「わしは、神仏を尊んでいる」
 わしのような者がもし陸の稼業でいたら、神仏など屁とも思わぬ人間になったろう、と松右衛門旦那はいう。
 (松右衛門さんでも、神仏を尊ぶのか)
 と、募兵衛は意外におもった。
 というのは、松右衛門旦那はこの話題の前に、
 「多度津にきて、なぜ金毘羅さんが舟人から大もてであるかがわかったろう」
 と、いわば罰があたりそうなことをいったのである。
 金毘羅さんは、本来、山なのである。象頭山ともいわれる秀艶なすがたの山で、海上を走っている航海者の側からいえば類なくすばらしい目じるしになる。その山を見て自分の船の位置を教えてもらい、また他海域から帰ってくると、ふたたびその山を見て、こんどの航海もぶじだったことをよろこびあう。自然、山を崇敬するようになる。
 多度津の前の海忙、船乗りの輩出地としては質量ともに日本一の塩飽諸島がうかんでいる。
 「大むかしから塩飽衆が朝な夕なあの山をおがんでいたのを日本中にひろめたのよ」
 塩飽衆の船には金毘羅大権現がまつられている。かれらが日本国の潮路という潮路に活躍しているためにいつのまにか他国の船も金毘羅大権現を崇敬することになったのよ、と松右衛門旦那はいう。

■故郷のありがたさを知る

<本文から>
 そういう嘉兵衛に対し、渚のひとびとは自分一個があいさつを受けたように、たれもが深く頭をさげてくれた。こういうあたりの反応は、純朴としか言いようがない。
 嘉兵衛はおどろき、再度頭をさげた。すると人垣がいっせいに頭をさげてくれた。
 (なんということだ)
嘉兵衛は故郷に対して持っていた恨みのようなものが、胸の中から抜けてゆくような気がした。
 (やはり、わしのくになのだ)
 とおもうと、このときはじめて噴きだすように涙がこぼれた。
 渚で嘉兵衛は丹念にあいさつした。
 従兄の高田律蔵が嘉兵衛のぶあつい肩を抱くようにして、
 「今夜、いつ来る」
 と、ささやいた。
 「遅くなっても、待っていてくれるか」
 「待っている」
 と律蔵はいった。
 嘉兵衛はこのあと、みやげの栖本綿の切れを若衆二人に持たせ、本村よりもまず新在家をめざした。一軒ずつ洩れなくまわるつもりであった。
 それはまだいい。
 嘉兵衛がずっと人にも言えず悩んできたことは、おふさの実家網屋幾右衛門宅をどういう顔で訪れるかということである。
 ふつうなら網屋幾右衛門は嘉兵衛にとって岳父にあたるはずだが、実際は幾右衛門にとって嘉兵衛はおふさを盗み出した男であり、義父・婿という義理の縁を結びあってはいない。こういう夫婦のことを、この当時、
 「どれやい」
 という。まことに音のきたない言葉でよばれていて、世間からもいやしめられていた。
 「どれやいから義父よばわりされることはない」
 と、網島の戸口で、幾右衛門から胸を突かれてしまえばそれでしまいのことなのである。

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