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<本文から>
「おふさに、どうかお伝えくだされ、他日、おりを見て、お前も村を抜けよ、と」
「阿呆な」
播州はんは、本気で腹をたてた。
「私はこの網屋の家来ぞ。あるじにそむき、お姫様に村落ちをなされとこのロから言えますか。それはお前様が寝物語にして申しあぐべきことばじゃ」
結局、おふさの部屋へ入れてくれた。
おふさは熱睡していた。
嘉兵衛がおふさの寝床に入り、その肌に触れたとき、彼女は、死のような熱睡のなかから、探さ− たとえば水底にいるような− が感じられるところまで浮かびあがってきた。
さらに水底からまっすぐに浮上して、どういうわけか辻堂のある四辻まで出たとき、すべての景色が夢になったらしい。夢として、杉の木が立ち、山が横たわり、暗い沖がひろがっていた。
夢の辻堂から、ぬっと嘉兵衛が出てきた。
粗末な単衣のすそをからげ、柄杓を背にさし、ふといももを交互にうどかして近づいてくる。田植笠をかぶって顔をかくしているが、それが嘉兵衛であることがおふさ忙はわかる。
「なに?それ」
おふさは、びっくりしてしまった。抜け参りの姿ではないか。
「村を抜けるのじゃ」
嘉兵衛がいったとき、おふさの目がさめた。
ごく自然に、夢と現実の填もなく、嘉兵衛の温かいからだが横にいる。おふさの耳にロをつけ、息を吹き入れるようにして、村を抜けるのじゃ、と嘉兵衛はいった。
(嘉兵衛さんとは、なんとふしぎな)
あとでおふさはこの夢とうつつについて感じ入ってしまうのだが、ふしぎさは嘉兵衛のほうではなく、おふさ自身のほうであることに彼女は気づかない。いちずに募兵衛のことのみ想いつづけていると、ひとの心にはこういう現象もおこりうるのであろうか。
一方、嘉兵衛は、おふさの寝床に入ったときから、彼女が醒めてしまったものとおもい、落ちてゆくさきは兵庫の湊のそばの堺屋という廻船問屋ぞ、たとえ堺屋に身をよせていなくとも訊ねさえすればわかるようにしておく、といった。
−後日、その気があるなら追って来い。
ということを、言外にいった。おふさは白い腕を嘉兵衛のくびにまわして、いますぐ落ちたい、なぜ私をのこしてゆくのか、といった。
「聞きわけのない」
嘉兵衛は、おふさの薄い背に掌をあてながら、湧きあがってくるうれしさをどうあらわしていいかわからず、掌を下へすべらせ、おふさの背後のふくらみをはげしく抑った。
「痛いっ」
「銭がないのじゃ」
一人でも落ちかねているのに、二人で落ちれば道中で餓えて野ざらしななるしかあるまい。
「銭が?」
「まあ、一人ぶんはある」
と、嘉兵衛はおふさを安心させるためにいったが、じつは懐中百六十文しかなく、これでは藪入りの小僧の小遣い銭にもあたらない。
嘉兵衛は言いおわると、おふさをつよく抱いた。嘉兵衛の湯のような汗が、おふさの髪をぬらした。
嘉兵衛が網屋の裏木戸から村道に出ると、欠けた月が、空を濃い藍色に染めあげて、光りを増している。
(これが、故里か)
ばかばかしいような、腹にすえかねて涙も出ないような感情が、土を踏んでいるつまさきまでみなぎっている。
−人間のしあわせの一つは、故郷にくるまれてくらすことだ。
と、嘉兵衛はのちになってひとにも語るが、嘉兵衛の場合、故郷という仕組みが万力のように身を挟み、ねじあげ、ついにはこの男をはじき出してしまった。
(この仕組みのいやらしさ)
嘉兵衛は、人の世はつらいとおもった。新在家のひとびとは、終日嘉兵衛を、かれの居ない場所で、ののしっていた。嘉兵衛をさえ悪様にののしっていれば、貧しさや病いなどもろもろの不如意からのがれられるようにおもっていたようでもあるし、その病気は、募兵衛の母村である本村にまで伝染していた。 |
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