司馬遼太郎著書
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          木曜島の夜会

■明治四年の金納制の衝撃

<本文から>
 孤島における経済から世界経済の中に加わった日本は、明治四年までは上古以来のとおり、租税を米でとっていた国であった。これでは国家予算をたてにくいということで、明治四年、にわかに金納制を布告した。このことは農民および農民同様の下級士族階級に深刻な衝撃をあたえ、各地で農民一揆が頻発した。室町期以来、日本には十分の商品経済が根を張っていたが、しかし農民の暮らしは原則として自分の消費用品は自分でつくるという自給自足がたてまえであり、貨幣経済にまきこまれないというのが農民の心得であるということを、江戸期、治者や農政家が農民に説いてきた。金納するにも、貨幣がなかった。この時期、現金を持った者に田畑をゆずり、納税金を肩代りしてもらうということで進んで小作になった者が、全国的に多かった。日本において、住民を一人のこらず金銭の中に巻きこんだという意味での本格的な貨幣経済が成立するのは、このときからである。それまでの農民は金を欲しがらなかった、というよりも、すくなくとも身の危険を冒してまで金をほしがるということは、個々の経済の基盤としては、ないにひとしかった。シソンズ教授の見方に従うとすれば、その金銭を得たいという特徴は、明治、大正の農民にかぎる、といえばいえそうである。もし江戸期の農民が、仮りに応募するとして濠州へ行っても、あれだけ果敢なダイヴァーになったかどうか、やや疑問のように思われる。

■松陰は富永の門人になる姿勢をとって

<本文から>
 そういう寅次郎に対し、富永というようなしたたか者が飼い猶のようにおとなしくなって、すくなくとも悪意をわずかしか見せなくなるのに、一カ月とかからなかった。
「富永有隣は、吉田松陰の門人になった」
と、かつて長州の郷土伝説でいわれたことがあったが、それは違っている。寅次郎はひとを弟子にするような、そういう不遜な若者ではなかった。かれはのちに松下村塾をひらいたときも、
 「塾生というのは自分の門人ではない。自分と共に学ぶ同学の士である」という態度を本心からとっていた人物で、人間が当然持っていい私心や私情というものをかれは気の毒なほど、もしくは不具といえるほどに持っていなかった。そういう寅次郎が、富永を弟子にできるはずがなかった。まして相手は、自分の少年のころと同様、十三歳で藩主の前で「大学」を請じたという長州きっての秀才だった男で、しかもそれが大自慢の男だった。じつは逆に、寅次郎のほうが富永の門人になる姿勢をとったのである。
 それも、策略ではなかった。寅次郎自身、「自分は人をだますことができない。だから英雄になれる人間ではない」と自分の無邪気さについてはかなしいほどに知っていた。
 かれは入牢早々、一同にむかって、
 「このように毎日すわっていては退屈じゃありませんか」
 と、いった。寅次郎の声が無神経なほど明るかったのは、かれの性分だった。この底抜けの楽天家はなによりも陰気さをきらい、どこにいてもその場所を自分の好みにあう明るさにしようとした。
 「おたがいに師匠になり弟子になり合うということを致しましょう。皆さんそれぞれ長技がおありになります。私蔵なさるのは惜しゅうございますから、ぜひそれを教えていただきましょう」

■富永は塾生を見下げた

<本文から>
そこへゆくと、富永有隣は多くの師匠がそうであったように、幼い塾生どもを「虫蟻」のように見た。
 「はじめて塾へ行った者は、みな富水有隣を吉田先生であると誤認した」
 と渡辺高蔵も語っているが、この塾舎における態度や塾生に対する容儀の尊大さはたしかに塾主のようであった。それにひきかえ、寅次郎のすわる場所はきまっておらず、塾生のあいだに座を転々と移し、もし塾に無縁の者がこの光景をみれば寅次郎のほうが助教であるように錯覚したにちがいない。
 有隣は寅次郎を内心、
 「小僧が」
 と、にがにがしくおもっている。しかし杉家に起居している以上、蔭では言っても面とむかってはその感情を噴き出すわけにいかない。その分だけ、塾生に対してつらくあたった。とくに人によっては目の敵にした。伊藤博文なども年少できていたのだが、変に小生意気で、あまり学問の基礎もできていなかつたため、有隣はかれの顔をみると「利助のアホウが」と馬鹿あつかいにした。博文は当時利助、のち俊輔といった。少年の身ながら他家の使い走りをして家計をたすけているため時間の余裕がなく、このため塾にあまり顔を出さなかったが、ひとつには有隣に対し子供心に含むところがあった。そのせいもあって博文は生涯松下村塾の時代を懐しまず、師の松陰−寅次郎−に対してさえ、他の連中のような尊崇心をはなはだしくは持たなかった。有隣への悪印象が、松陰への印象まで暗く灰色ににじませていたにちがいない。

■富永は自身の投獄を恐れ松陰の悪口を言いふらす

<本文から>
再度の野山下獄のときに、寅次郎は富永の前に出て丁寧に頭をさげ、
「塾のことは、よろしくおねがいします」
と、後事を託した。寅次郎がいなくなっても、官学(明倫舘)にゆく資格のない初学の少年たちがこの塾に読み書きを習いにやってくるのである。寅次郎はその面倒を富永にみてもらおうとおもった。
「承知した」
と富永はうなずいたが、あとで、
「寅次郎も虫がいい。おのれの不在の面倒をおれにみろというのか」
とひとにいった。富永にすればそんなことより彼自身が私塾をひらいたほうが晩酌の一合でも飲める身になれるのである。「寅次郎というのはああいうやつだ」と、ひとに言いふらした。
 寅次郎が再度野山獄に入ったとき、寅次郎を敬慕する門人たちはあらそって獄舎のまわりをうろつき、しきりに手紙を差し入れ、なお教えを乞おうとし、寅次郎もさかんに返事を書いたが、しかし後事を託されたはずの富永は一度も野山獄に訪ねてやろうとはしなかった。
おそろしかったのである。
 (自分も牢に入れられるのではないか)
という、藩当局も塾生たちもおよそ思いもよらない痛点を富永だけが持ち、富永ひとりが恐怖し、戦慄していた。この心事は獄中経験をした者でないとわからない機微かもしれず、あるいは尊大な者が往々もっているけたはずれの臆病さによるものかもしれなかった。ともかく富永にすればもう二度とあの獄へ戻るのは御免であった。富永は寅次郎と一緒に松下村塾で塾生を教育した。当然、幕府も藩も寅次郎と同罪であると疑うであろう。寅次郎の下獄の理由や幕府の寅次郎への嫌疑は富水のその恐怖とはまったくべつの問題であったが、富永にすればそうはおもえなかった。かれは寅次郎と数珠つなぎになって牢にほうりこまれないために、何者をも売ろうとした。このことは富永の悪徳というより極端な臆病さによるものであり、極端な臆病というのはそれ自体が悪でありうる場合が、あるいはあるのかもしれない。
 「寅次郎は妖言を吐いていた」
 と、富永は自分をまもるために、萩の城下のあちこちに言いふらしはじめたのである。妖言というのは、幕法でもっとも忌まれるところであった。江戸二百七十年間、妖言を吐いたということでどれだけ多くのひとが刑殺されたかわからない。
「わしは寅次郎の妖言とはなんの関係もない」
 とも富永はいった。富永にとってこれが重要な点であった。
 富永は誰かれなしに会ってはこれを言った。相手に見境もなかったことは、かつて寅次郎にたのまれて富永の出獄運動をした秋良敦之助にまでそのことをいったことでもわかる。
 秋良がたまりかね、どういう妖言だ、と詰め寄ると、富水はさすがに返答に窮し、
 「孟子だ」
と、いった。さらにいう。「孟子」は妖言の書である、なぜならば君臣の名分を寮すからだ、寅次郎はあたかも門徒の宗門が阿弥陀経を奉ずるがごとくにして「孟子」を奉じていた、自分はこれに反対であった、と富永はいうのである.
 富永は、寅次郎が野山獄に送られた数日後に松下村塾を出てしまった.そのあと、狂ったように寅次郎や杉家の悪口をいってまわった。
 「沢庵しか食わさない」
 というような次元の話柄もあった。事実ではあった。杉家は居候の富永にだけでなく、めしどきになればどの乗客にも食事を出す習慣があったが、ただ杉家そのものが貧乏であったために家族の副食物はまずしく、富永は杉家の家族とおなじものを食っていたにすぎない。杉家の生活には農業も入っていた。寅次郎の父も兄も畑を打っていた。富永が食っているものは、寅次郎の父兄が菜園や水田でつくったものであった。
 「富永が逃げた」
 ということを、寅次郎は野山の獄できいた。さらに富永が自分がいかに寅次郎と無縁かというためにさかんに悪口を言ってまわっているということを聴き、司獄の福川犀之助さえ驚いたほどに深刻な衝撃をうけた。寅次郎は、かれを支えてきた性善説というのが、もはや生涯が終るかもしれないこの時期になって崩れるのではないかという恐怖を、自分自身に対して持ったのである。
「悪人というのは、いるのです」
と、寅次郎の牢格子のむこうの牢格子から言ったのは、まだ放免されずに−引取人がいないため−残っていた高頒久だった。彼女は寅次郎が富永のような男に入れあげていたのが最初から不満で、寅次郎を尊敬しつつも、
(えらい人でも、やはりお若いという未熟さはどうにもならない)
とおもっていた。
 寅次郎は、偽善者ではなかった。衝撃をうけたあとぼつ然と怠りを出し、
「老狡、憎むべし」
 と叫んだひとことは、寅次郎の死後もその門人たちにながく伝えられた。

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