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<本文から>
だが、戦意がなかった。薩長のように必死でなかった。この点も、日本史に封建体制をもたらした関ケ原の合戦に似ている。関ケ原の戦いも図式的にみれば西軍が負ける戦いではない。人数も多く、戦場における地の利もよかった。ただ西軍に戦意がとぽしく、必死に働いたのは石田三成隊、大谷吉継隊、宇喜多秀家隊ぐらいのものである。
鳥羽伏見の戦いにおける第一日も、必死に戦国したのは、会津藩と新選組だけであった。しかもそれらは不幸にも、刀槍部隊で洋式部隊ではない。
英国人サトーでさえ幕軍主力を嘲笑している。
「一万の大軍を擁しながら意気地のない連中だ」
と。−英国ははやくから幕臣の腰抜けに見切りをつけ、薩長による日本統一の構想をひそかに後援してきたが、
「自分たちの賭けは裏切られなかった」
と、安堵した。
歳三、T
路上に立っている。東南方の奉行所の猛火が、歳三の姿をくっきりと浮かぴあがらせた。
(戦さは勝つ)
と、歳三は信じている。この幕軍最前線の修羅場さえ死守しておれば、明朝には洋式武装の意軍歩兵が大挙してやってくるのだ。げんにその先発の幕軍の仏式第七連帯がすでに伏見に入りつつある。
幸い、友軍の会津藩兵は、ひどい旧式装備ながらも、その藩士は、薩摩とならんで日本最強の武士、といわれた本領をみごとに発揮し、例の林権助隊長などは、体に三発の弾をくらいながらも、一歩もひかない。
ところが、
午後八時ごろになって、歳三が伝令として使っていた平隊士野村利八が駈けもどり、
「御味方、退きつつあります」
と報告した。
「うそだ」
と歳三はどなり、二番隊組長永倉新八らに確認を命じた。 |
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