司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          燃えよ剣 下

■新撰組と違って幕軍には戦意がなく敗れる

<本文から>
 だが、戦意がなかった。薩長のように必死でなかった。この点も、日本史に封建体制をもたらした関ケ原の合戦に似ている。関ケ原の戦いも図式的にみれば西軍が負ける戦いではない。人数も多く、戦場における地の利もよかった。ただ西軍に戦意がとぽしく、必死に働いたのは石田三成隊、大谷吉継隊、宇喜多秀家隊ぐらいのものである。
 鳥羽伏見の戦いにおける第一日も、必死に戦国したのは、会津藩と新選組だけであった。しかもそれらは不幸にも、刀槍部隊で洋式部隊ではない。
 英国人サトーでさえ幕軍主力を嘲笑している。
「一万の大軍を擁しながら意気地のない連中だ」
 と。−英国ははやくから幕臣の腰抜けに見切りをつけ、薩長による日本統一の構想をひそかに後援してきたが、
 「自分たちの賭けは裏切られなかった」
と、安堵した。
 歳三、T
 路上に立っている。東南方の奉行所の猛火が、歳三の姿をくっきりと浮かぴあがらせた。
(戦さは勝つ)
 と、歳三は信じている。この幕軍最前線の修羅場さえ死守しておれば、明朝には洋式武装の意軍歩兵が大挙してやってくるのだ。げんにその先発の幕軍の仏式第七連帯がすでに伏見に入りつつある。
 幸い、友軍の会津藩兵は、ひどい旧式装備ながらも、その藩士は、薩摩とならんで日本最強の武士、といわれた本領をみごとに発揮し、例の林権助隊長などは、体に三発の弾をくらいながらも、一歩もひかない。
 ところが、
 午後八時ごろになって、歳三が伝令として使っていた平隊士野村利八が駈けもどり、
「御味方、退きつつあります」
 と報告した。
「うそだ」
 と歳三はどなり、二番隊組長永倉新八らに確認を命じた。

■近藤には哲学はなかった

<本文から>
「政治家がもつ必須要件は、哲学をもっていること、世界史的な動向のなかで物事を判断できる感覚、この二つである。幕末が煮えつまったころ、薩長志士の巨頭たちはすべてその二要件をそなえていた。
 近藤には、ない。
 ないが、おぽろげながら、京都時代に接触の多かった土佐藩参政後藤象二郎などの説をおもいだしていると、わかるような気がするのである。
 近藤がもし、自分の頭のなかのモヤモヤを整理できる頭があったとすれば、
 「歳、あの戦さは思想戦だよ」
 といったであろう。思想戦とは、天子を薩長に奪われたということだ。戦いなかばで薩長藩は強引に錦旗を乞い、自軍を、
 「官軍」
 とした。

■甲陽鎮撫隊は勝の策、新撰組は旧幕府の重荷に

<本文から>
一説では、近藤勇に対し、幕府の金庫から五千両の軍資金をあたえ、砲二門、小銃五百挺を貸与して「甲陽鎮撫隊」を組織させ、甲州百万石の好餌をあたえて勇躍江戸を去らしめたのも、勝の工作だという。
「新撰組に対する薩長土の恨みはつよい。あの連中が、前将軍への忠勤々々といって江戸府内にいるかぎり、官軍の感情はやわらぐまい。追いはつにかぎる」
ということだったらしい。
 考えてみれば、話がうますぎた。窮乏しきっている旧幕府から五千両の大金がすらりと出したというのもふしぎだし、「甲州百万石うんぬん」というのもそう言質をあたえれば近藤がよろこびそうだ、ということを、慶喜も勝も知りぬいていたのであろう。
 旧幕府にとって、いまは、新撰組の名前は重荷になりつつある。近藤、土方を幕下にかかえている、というだけで、徳川家、江戸城、さらには江戸の庶民がどうなるかかわらぬ、ということさえいえそうである。

■近藤との別れ、土方は時勢や勝敗は問題でない

<本文から>
「ちがう」
歳三は、目をすえた。時勢などは問題ではない。勝敗も論外ある。男は、自分が考えている美しさのために殉ずべきだ、と歳三はいった。
 が、近藤は静かにいった。おれは大義名分に服することに美しさを感ずるのさ。歳、ながい間の同志だったが、ぎりぎりのところで意見が割れたようだ、何に美しさを感ずるか、ということで。
「だから歳」
 近藤はいった。
「おめえは、おめえの道をゆけ。おれはおれの道をゆく。ここで別れよう」
「別れねえ。連れてゆく」
歳三は、近藤の利き腕をつかんだ。松の下枝のようにたくましかった。
ふってもぎはなつかと思ったが近藤は意外にも歳三のその手を撫でた。
「世話になった」
「おいっ」
「歳、自由にさせてくれ。お前は新選組の組織を作った。その組織の長であるおれをも作った。京にいた近藤勇は、いま思えばあれはおれじゃなさそうな気がする。もう解き放って、自由にさせてくれ」
「・・・・・・・・・」
歳三は、近藤の顔をみた。
 茫然とした。
「行くよ」
近藤は、庭へおりた。おりるとその足で洒倉へゆき、兵に解散を命じ、さらに京都以来の隊士数人をあつめて、
「みな、自由にするがいい。私も、自由にする。みな、世話になった」
近藤は、ふたたぴ門を出た。
歳三は追わなかった。
(おれは、やる)
ぴしゅつ、と顔をたたいた。脚の黒々とした薮蚊がつぶれていた。

■土方の壮絶なる最期

<本文から>
 官軍は主力をここに集結し、放列、銃陣を布いてすさまじい射撃を開始した。
 松平隊らの砲、銃隊も進出して展開し、
 −その激闘、古今に類なし。
 といわれるほどの激戦になった。
 歳三は白刃を肩にかつぎ、馬上で、すさまじく指揮をしたが、戦勢は非であった。敵は歴戦の薩長がおもで、余藩の兵は予備にまわされており、一歩も退く気配がない。それにここまでくると函館港から射ち出す艦砲射撃の命中度がいよいよ正確になり、松平太郎などは自軍の崩れるのをささえるのにむしろ必死であった.
 歳三はもはや白兵突撃以外に手がないとみた。幸い、敵の左翼からの射撃が不活発なのをみて、兵をふりかえった.
 「おれは函館へゆく。おそちく再び五稜郭には帰るまい.世に生き捲きた者だけはついて来い」
 というと、その声にひきよせられるようにして、松平隊、星隊、中島隊からも兵が駈けつけてきてたちまち二百人になり、そのまま隊伍も組まずに敵の左翼へ吶喊を開始した。
 歳三は、敵の頭上を飛びこえ飛びこえして片手斬りで左右に薙ぎ倒しつつ進んだ。
 鬼としかいいようがない。
 そこへ官軍の予備隊が駈けつけて左翼隊の崩れがかろうじて支えられるや、逆に五稜郭軍は崩れ立った。
 これ以上は、進めない。
 が、ただ一騎、歳三だけがゆく。悠々と硝煙のなかを進んでいる。
 それを諸隊が追おうとしたが、官軍の壁に押しまくられて一歩も進めない。
 みな、茫然と歳三の騎馬姿を見送った。五稜郭軍だけでなく、地に伏せて射撃している官軍の将士も、自軍のなかを悠然と通過してゆく敵将の姿になにかしら気圧されるおもいがして、たれも近づかず、銃口をむけることさえ忘れた。
 歳三は、ゆく。
 ついに函館市街のはしの栄国橋まできたとき、地蔵町のほうから駈け足で駈けつけてきた増援の長州部隊が、この見なれぬ仏式軍艦の将官を見とがめ、士官が進み出て、
 「いずれへ参られる」
 と、問うた。
 「参謀府へゆく」
歳三は、微笑すれば凄味があるといわれたその二重瞼の眼を細めていった。むろん、単で斬りこむつもりであった。
 「名は何と申される」
 長州部隊の士官は、あるいは薩摩の新任参謀でもあるのかと思ったのである。
 「名か」
 歳三はちょっと考えた。しかし函館政府の陸軍奉行、とはどういうわけか名乗りたくはなかった。
 「新選組副長土方歳三」
 といったとき、官軍は白昼に竜が蛇行するのを見たほどに仰天した。
 歳三は、駒を進めはじめた。
 士官は兵を散開させ、射撃用意をさせた上で、なおもきいた。
「参謀府に参られるとはどういうご用件か。降伏の軍使ならば作法があるはず」
「降伏?」
 歳三は馬の歩度をゆるめない。
「いま申したはずだ。新選組副長が参謀府に用がありとすれば、斬り込みにゆくだけよ」
 あっ、と全軍、射撃姿勢をとった。
 歳三は馬腹を蹴ってその頭上を跳躍した。
が、馬が再び地上に足をつけたとき、鞍の上の歳三の体はすさまじい音をたてて地にころがっていた。
 なおも怖れて、みな、近づかなかった。
が、歳三の黒い羅紗服が血で濡れはじめたとき、はじめて長州人たちはこの敵将が死体になっていることを知った.
 歳三は、死んだ。

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