司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          燃えよ剣 上

■山南からの浪士隊結成の話がなければ新撰組は誕生しない

<本文から>
  山南は、顔がひろい。
 なぜならば、江戸一の大道場で門弟三千といわれる千葉門下の出身だからである。この門下から、清河八郎、坂本竜馬、海保帆平、千葉重太郎など、多くの国事奔走の志士が出たのは、諸藩からあつまってくる健慨悲歌の士が多く、その相互影響によるもので、現代の東大、早大における全学連と類似とはいわないが、それを想像すれば、ややあたる。
 江戸府内に友人が多いから、山南は天下の情勢、情報を、しきりとこの柳町の坂の上の小さな町道場に伝えた。
 もし山南敬助という、顔のひろい利口者がいなければ、近藤、土方などは、ついに幕末の剣客でおわったろう。
 その山南が、
 「近藤先生、耳よりな情報があります」
と、仙台なまりで伝えてきたのは、文久二年も暮のことである。
 「どんなはなしだ」
 近藤は、山南の教養に参っている。
 「重大なはなしか」
 「幕閣の秘密に関する事項です」

■土方の独創による隊組織

<本文から>
「歳三は、山南敬助と相談しながら、これらの宿割りをした。
あとは、百十数名にふくれあがったこの隊を、どう組織づけるか、である。
「近藤君、これを二隊にわけて、貴下が一隊、それがしが一隊持ちますか」
などと芹沢はいい、近藤も同意しかけたが、歳三は、それに極力反対した。
 「それなら、烏合の衆になる」
というのだ。歳三の考えでは、これらが烏合の衆だけに、鉄の組織をつくらねばならない。しかし、どういう組織がいいか.古来、
 藩
という組織がある。これが日本の武士の唯一の組織だが、参考にはならない。かれらには藩主というものがあり、主従でむすばれている。しかもその藩兵体制は戦国時代のままのもので、不合理な面が多かった。歳三にはなんの参考にもならず、このさい、独創的な体制を考案する必要があった。
 歳三は、黒谷の会津本陣に行き、公用方外島横兵衛に仲介してもらって、洋式調練にあかるい藩士に会い、外国軍隊の制度をきいたりした。
 これは、参考になった。参考というより、むしろ洋式軍隊の中隊組織を全面的にとり入れ、これに新選組の内部事情と歳三の独創を加えてみた。これが、このあたらしい剣客団の体制となった。
 まず中隊付将校をつくる。
 これを、助勤という名称にした。名称は、江戸湯島の昌平コウ(幕府の学問所、東京大学の前身)の書生寮の自治制度からとった用語で、歳三はこれを物知りの山南敬助からきき、
 「それァ、いい」
 と、すぐ採用した。士官である助勤は内務では隊長の補佐官であり、実戦では小隊長となって一隊を指揮し、かつ、営外から通勤できる。その性格は、西洋の軍隊の中隊付将校とおなじであった。
 隊長を、
 「局長」
 とよぶことにした。
 ただ、芹沢系、近藤系の勢力関係から、局長を三人つくらねばならなかった。芹沢系から
二人出て、芹沢鴨と新見錦。
 近藤系からは、近藤勇.
 その下に、二人の副昇職をおいた。これは近藤系が占め、土方歳三、山南敬助。
 「歳、なぜ局長にならねえ」
 と、近藤がこわい顔をしたが、歳三は笑って答えなかった。隊内を工作して、やがては近藤をして総帥の位置につかしめるには、副長の横能を自由自在につかうことが一番いいことを歳三はよく知っている。

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