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<本文から>
人間は鳥のように空へは飛べぬが、下へ飛ぼうとおもえば何丈の下でも飛びおりられるものだ。事は簡単である」
技能の問題はなく、勇気の問題だというのである、武蔵は、飛びおりねばならない。飛びおりれば足の裏をあのつるぎのようにするどいそぎ竹がつらぬくであろう。
なぜ、このような遊びを思いついたのか。
「見ろ」
と叫んだときは、武蔵は空中にいた。落下した。そぎ竹が、その蚊を突き刺した。やがてはいあがってきて馬糞をひろい、その傷穴へ詰めて歩きだした。
(いやなやつだ)
武蔵の自己顕示欲のつよさを、そのようにおもった者もいたにちがいない。この当時の武者は意識して自分自身の伝説をつくろうとした。伝説はこういう奇行の砕片があつまってできあがるものであり、伝説がその武者を装飾し、ついにはその者を栄達させてゆく。
が、武蔵自身はそのようなつもりでは飛ばなかったであろう。この少年は(かれ自身は大人のつもりだったろうが)、この未曾有宇の合戦に自分の将来を托していた。
その夢の大きさのわりには、その身分はあまりにもかぼそかった。身分は「陣借りの牢人」であり、しごとは足軽である。たとえ功名をあらわしたところで、あとで正規の足軽にしてもらえるか、御徒士になれるか、その程度であろう。一介の足軽のぶんざいから士分になり、侍大将になり、城主になり、団主になり、ついに天下を得た秀吉の生涯は、その死(関ケ原の二年前)とともにすでにおとぎばなしになっていた。
しかしながら、武蔵は不安ながらもそのお伽話を信じようとしている。信じようとすればこそこの戦場に出てきた。ところがその分際は牛馬同然の足軽であり、ひそかに自分が考えている自分の勇気、力量に比してあまりにもみじめでありすぎる。その鬱々とした不満が
−みろ。
と、この度のむこうへ武蔵を飛ばせたのであろう。 |
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