司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          宮本武蔵

■武者は意識して自分自身の伝説をつくろうとした

<本文から>
 人間は鳥のように空へは飛べぬが、下へ飛ぼうとおもえば何丈の下でも飛びおりられるものだ。事は簡単である」
 技能の問題はなく、勇気の問題だというのである、武蔵は、飛びおりねばならない。飛びおりれば足の裏をあのつるぎのようにするどいそぎ竹がつらぬくであろう。
 なぜ、このような遊びを思いついたのか。
 「見ろ」
 と叫んだときは、武蔵は空中にいた。落下した。そぎ竹が、その蚊を突き刺した。やがてはいあがってきて馬糞をひろい、その傷穴へ詰めて歩きだした。
 (いやなやつだ)
 武蔵の自己顕示欲のつよさを、そのようにおもった者もいたにちがいない。この当時の武者は意識して自分自身の伝説をつくろうとした。伝説はこういう奇行の砕片があつまってできあがるものであり、伝説がその武者を装飾し、ついにはその者を栄達させてゆく。
 が、武蔵自身はそのようなつもりでは飛ばなかったであろう。この少年は(かれ自身は大人のつもりだったろうが)、この未曾有宇の合戦に自分の将来を托していた。
 その夢の大きさのわりには、その身分はあまりにもかぼそかった。身分は「陣借りの牢人」であり、しごとは足軽である。たとえ功名をあらわしたところで、あとで正規の足軽にしてもらえるか、御徒士になれるか、その程度であろう。一介の足軽のぶんざいから士分になり、侍大将になり、城主になり、団主になり、ついに天下を得た秀吉の生涯は、その死(関ケ原の二年前)とともにすでにおとぎばなしになっていた。
 しかしながら、武蔵は不安ながらもそのお伽話を信じようとしている。信じようとすればこそこの戦場に出てきた。ところがその分際は牛馬同然の足軽であり、ひそかに自分が考えている自分の勇気、力量に比してあまりにもみじめでありすぎる。その鬱々とした不満が
−みろ。
 と、この度のむこうへ武蔵を飛ばせたのであろう。

■吉岡清十郎との決闘

<本文から>
「あの男は、まだか」
 何度か叫び、門人になだめられた。清十郎は萎えてゆく鋭気を保つために型の一人稽古 もした。腰を沈め、空を撃ち、四方を斬り、八方に進退した。京流(吉岡の兵法をそうよぶ)は古兵法のひとつで、しかも京で発展したため型は華やかで、人目をおどろかすためだけの無用の型も多い。
 不意に武蔵がきた。
「きたか」
と清十郎が叫んだとき、かれ自身も思わぬことに木刀を捨て、真剣をぬいた。清十郎の動揺のあらわれといっていい。
 武蔵は、長目の木刀である。材はこの男の生涯のこのみで琵琶であった。
 清十郎は京流の作法どおり十間ばかりの間隔をとろうとしたが、武蔵はそのまま(歩き足のまま)ずかずかと踏み入れてくる。木刀を構えず、ダラリと右手にさげたままである。
(どうする気か)
清十郎は、とまどった。こういう流儀ははじめてであった。
 やがて武蔵がみぎわ(武蔵の兵法用語。敵のまつげが見えるまでの近さ)までせまったとき、武蔵はちょっと立ちどまり、不意に巨大になった。
 武蔵の著「兵法三十五箇条」ではこのことをたけくらぶるという。敵との切取のとき一瞬丈競べるように、「我身をのばして、敵のたけよりは我たけ高くなる心」に位取る。位をもって圧すことであろう。
 居たたまれず、清十郎が先攻した。大剣をうちおろした。
が、武蔵の先が早かった。木剣を中段へはねあげ、清十郎の初動を制した。
−突キか。
 と、清十郎はとっさに備えを変えようとしたことが不覚になった。先を武蔵にとられた。武蔵の木刀は突キとみせてもう変化し、そのまま上段へ舞いあげた−武蔵の二刀流でいう喝当の打である。喝と突き、突くとみせ、当と打つ。その当の位に舞いあげた木刀がふたたび変化して真っ向から落ちたとき、渚十郎の敗北であった。
 頭蓋を、激しく撃たれたが、武蔵は紛厳に割るまではせず、ツカを締め、打撃のみにとどめ、ただ清十郎を昏倒させた。露のなかに清十郎はうつぶせに倒れた。武蔵はとびのき、しばらく敵の背を見つめていたが、やがて息を吐いた。
 「御命、ご無事である。ご介抱なされよ」
 それが、武蔵が発した唯一のことばであった。そのあと身を翻して消えた。どこに消うえどこに住むのか、たれも知らない。

■相手へのねぶみに優れた武蔵

<本文から>
自己顕示欲のつよい人物はついには狂人のようなふるまいをするが、夢想権之助は狂人ではない。
 ただの人間であるらしい証拠にのちに筑前福岡の黒田家に召しかかえられてからはふつうの地味な服装にもどっており、ひとが諸国渡遊時代のその異体のことをいうと、
 −いやいや、あれは芸者(兵法者)のつねでな、あのようにせねば世に知られぬ。
 と弁解し、その話題をきらった。そういうあたりからみると、他の女体の男や天狗姿の男たちとくらべて多少わが身がわかる感覚はあったらしい。
 武蔵は、
 「試合はさておき、この日向で雑談でも聞かせてくださるならば、当方はさしつかえござらぬ」
 と取り次がせた。夢想は入ってきた。夢想の目からも、武蔵の姿は先刻からみえている。
 夢想は庭さきに立ち、自己紹介した。武蔵も工作刀をおいてわが名を名乗ったが、座は動かない。夢想は自分の試合歴を語った。なるほど「兵法天下 日下関山」を自称するだけに、戦って負けたことがないらしい。
 (しかし、わしより弱かろう)
と、武蔵は評価した。勘でわかる。それにこの種の虚喝人(はったりや)に共通しているのは自己抑制のよわさだった。
 (試合ってみよう)
とおもった。試合は、おのれの実力よりも低く評価した相手とせねばならない。武蔵のころの牢人兵法者はすべてそうであり、兵法感覚の初動は相手へのねぶみであり、もし値踏んでなおかつ負けたときは自分の評価力の不足といえるであろう。「自分は生涯六十余たびの試合をしたが一度も負けたことがない」と武蔵は晩年に書いているが、かれのもへともすぐれていたのはこの感覚であった。

■小次郎に勝てると思ってから挑む

<本文から>
 武蔵はそれらのはなしを内海孫兵衝から聞き、この太刀ゆきのはやさというくだりほ至ったとき、
(それはちがう)
と武蔵はおもった。
 武蔵の兵法思想では太刀ゆきの速さなどはそれほどに重視しない。なるほど速いに越したことはないが、しかし兵法は太刀ゆきの速さに冬きるというのはどうであろう。
 武蔵の兵法は、燕斬りでいえば素早く燕を斬るという反射運動よりも、むしろ燕への凝視に終始する。燕がひるがえる。ひるがえってどういう姿勢をとり、どう逃げ、どう滑空するか、ということを一瞬で見さだめ、変転する燕の変態を、変態のつど、変態ごとに斬りうるというものであり、その思想からゆけばときに太刀はゆるやかでもよい。むしろゆるやかなほうがいい場合が多いであろう。この点、兵法思想からみれば武蔵と小次郎は対立する両極であり、武蔵が、
 (その男に勝てるかもしれない)
 と最初におもったのは、この話をきいてからであった。

■巌流島の決闘、敗れたり、と放って動揺させる

<本文から>
断負は一瞬できまった。
 武蔵は、陸地の小次郎をのぞみつつも陸地にあがらず水のなかを歩き、やがて停止し、陸をめざして進みはじめた。
 小次郎は、待った。
 が、待ちきれなかった。かれは床几を蹴って立ち、汀にむかって駈けだした。武蔵が陸にあがらぬうち、つまり武蔵の足場が水にとられているうちに一撃を加えたかった。が、武蔵はあがった。
 小次郎は大喝し、武蔵の遅参を罵倒した。と同時に剣をぬき、鞘を海中にすてた。武蔵はすかさずいった。
−汝の負けである。
 それが武蔵の調略であった。小次郎はそれに乗った。なぜ負けか。
 「知れたこと」
 武蔵は、ひややかにいった。
 「勝つつもりなら鞘を捨てまいに」
 小次郎はすでにその大剣をふりかぶっていた。武蔵はゆるゆると砂をふんでゆく。小次郎は相手のことばに冷静さをうしなった。怒気が、その構えにこもっていた。武蔵のもくろみはそこにあった。
 これよりむこう、慢幕の位置からみれば武蔵の行動ほど大胆にみえたものほない。
 無造作に小次郎に近づいてゆく。例の木太刀は肩にかついだままであった。小次郎はその武蔵に対し、間合をはかりつづけた。間合のみに気をとられ、武蔵のもっている兵器に注意をはらうことを怠った。

■武蔵の晩年、細川氏に

<本文から>
武蔵はその後、九州にくだった。小倉で逗留した。そのころ小倉は細川家が肥後熊本に移り、小笠原家が城主であった。小笠原家は武蔵を招博しようとしたが、これは武蔵のほうからことわった。はじめに幕臣になろうとし、ついで尾張徳川家に仕官しようとしたかれが、それらが不調におわったからといって他の大名の平凡な家臣になることは自分の価値を値引くような、そういう不快さがあって、かれの自尊心がゆるさなかったのであろう。
 その後、武蔵はなおも幕臣になることについて望みをすてきれなかったようであったが、しかし天はかれにそういう運を恵まなかった。
 晩年、細川家から招碑があった。
 このときの細川家当主は三代日の忠利で、人の心の微妙さがわかるひとであり、武蔵をまねくにあたって禄をもってしなかった。
 「武蔵の兵法に値段をつけては悪しかろう」
と、忠利はいった。
 禄をあたえれば、身分の上下がつく。たとえ五千石をあたえても、それ以上の禄高の重臣はおり、武蔵は当然序列としてそれらの下風に立たねばならず、世間であれほどの名声を得ている武蔵としては堪えられぬところであろうということを忠利は見たのである。
 このため、武蔵のほうも、この交渉をうけたとき、
 「客分」
という身分をのぞんだ、嘱託、相談役、顧問といったような位置であり、家士ではないだけに家臣序列のそとにある。細川忠利はそれを了承し、とくに武蔵のために、
 「堪忍分の合力米」
 という、藩の給与行政にはない特別な手当を創設した。合力米というのは寄付という言葉にちかい。堪忍分というのは「少なかろうがこれで辛抱せよ」という意味である。武蔵の晩年における世間的名声、無形の地位、微妙な心情を理解してやるのにこれほどのやさしさをもった給与名目はないであろう。この堪忍分の合力米は、十七人扶持のほかに現米三百石という大きなものであった。
 さらに忠利は、武蔵の自尊心のために、
 −鷹狩りをしてもいい。
 という特権をあたえた。この特権は家老だけがもっているものであり、鷹狩りをするせぬはべつとして、この小さな特権があたえられることによって武蔵は家老なみの礼遇をされているということで、そのするどすぎる自尊心は一応の充足を得るであろう。これが、武蔵の五十七のときである。
 六十二で死んだ。
 熊本での晩年には逸話が多いが、すでに紙数が尽きている。
 かれは熊本郊外の金峰山のなかにある霊巖洞という洞窟を好み、ここで著述をしたり、絵をかいたり、座禅を組んだりして晩年をおくった。かれの死は、この洞窟のなかで座禅をしているときにきた。洞窟でかれの世話をしていた家僕ふたりがかれのからだをかつぎ、城下の屋敷まで運んだが、その途中もまだ多少の息があったともいう。

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