司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          「明治」という国家・下

■明治国家とキリスト教

<本文から>
  明治国家とキリスト教という話をします。
 といって、宗教くさい話をするつもりはありません。第一、私はキリスト教には関心がありますが、クリスチャンじゃありません。
 ごぞんじのようにキリスト教には、大別して旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の二つがあります。
 明治時代はふしぎなほど新教の時代ですね。江戸期を継承してきた明治の気質とプロテスタントの精神とがよく適ったということですね。勤勉と自律、あるいは倹約、これがプロテスタントの特徴であるとしますと、明治もそうでした。これはおそらく偶然の相似だと思います。今回の主題は、この偶然の相似についてのことです。
 もっとも″似ている″というのは、くりかえしますが、勤勉と自律、あるいは自助、それに倹約といった重要徳目だけで、他は似ていません。厳密好きな人がこれを聴いていて、苦情をおっしゃるといけませんので、ヘチマとヒョウタンが、蔓のぐあいや葉が似ているという程度の似方だと申しあげておきます。またキリスト教の一特徴は、教義の上で妥協ということがありません。その点、日本の仏教にせよ、神道にせよ、また風土全体が、大変妥協好
きでやや無原則でもあります。明治の精神とプロテスタンティズムが似ている、といえば、とんでもない、とクリスチャンの方でお怒りになる方がいらっしやるかもしれませんから、あらかじめ予防線を張っておきます。
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■竜馬は国民第一号

<本文から>
 さて、この神戸海軍塾時代、勝は塾頭に土佐浪士坂本龍馬をえらびました。
 坂本はもともと素朴な尊攘家で、江戸で勝を訪ね、返答によっては勝を開国派の好物として斬ろうと思っていましたが、勝の話をきいて頓悟し、その門人になります。「日本一の勝先生の門人になった」と大よろこびで故郷の姉に手紙を書いていますが、もともと坂本は土佐の高知にいるときに、オランダ国憲法に関心をもった時期があり、すでに″国民″たるべき素地をもっていたと思います。勝は、この坂本を神戸海軍塾の塾頭にしました。かって長崎におけるカッテンディーケの位置が神戸では勝、勝の位置が坂本でした。両人が話し合う内容は、しばしば深刻をきわめたであろうことは想像に難くありません。
 私が、いま話している主題をことさらに文法化しますと、文脈としては、勝が神戸海軍塾をひらいてひろく諸藩の士や浪人をあつめたのは、ひょっとすると″国民″をそこから得たかったのかもしれません。しかし、なにぶん危険で、かつ危険思想でもありますから、たれに対してもそんなことを言おうとは勝は思っていない。勝は、坂本を得て、かれを″国民″あるいは第一号(勝は、なお幕臣ですから)にしたかったのかもしれません。おそらく勝という瓶子に満ちた蒸留漕が、坂本という瓶子に移されたのかもしれません。勝は、明治後の座談をみても、自分がふれあったひとびとのなかで最大の人物を、西郷隆盛と坂本龍馬としているようであります。勝としては、身動きのとれぬ幕臣という立場上、坂本を得たことは、どんなにうれしかったことでしょう。坂本という稀代の瓶子に日本最初の酒を移すことによって、勝の洒はすばらしい自由と、普遍性をもちました。
 神戸海軍塾が閉鎖されますと、こんどは坂本が長崎にゆき、塾時代の土佐系の浪土たちとともに亀山社中(のち海援隊)をおこします。海軍実習と貿易をめざす結社ですが、坂本はこの結社の″憲法″として、同志は浪士であること、藩に拘束されないことをかかげます。″国民″の育成ととれないでしょうか。
 いまでもなお、人類とか世界とかというのは多分に観念のものであるように、封建身分制社会で″国民″あるいは″日本人″などというものは″火星人″というに近い抽象的存在でした。そのように、宙空にうかんだ大観念の一点に自分を置いたとき、地上の諸事情・諸状勢はかえってよく見えてくるものです。かつ、未来まで見えます。さらには、打つべき手までつぎつぎと発想できます。
 坂本は、長崎で″国民集団″をつくりました。その資金は、一種の株式会社募集のやり方であつめました。勝の紹介で、越前、長州、土佐、薩摩からあつめたのです。
 かれは、たとえ新政権ができてもそれに参加するつもりはない、ということは、大政奉還後に薩摩の西郷にそういって、さすがの西郷を一瞬、小さくさせたような光景を演じていますから、十分その思想が想像できるのです。
 かれの志は、貿易にありました。そのためには、国は統一されねばならない。その段階として「薩長秘密同盟」を思いたち、じつにいいタイミングに、長州の桂小五郎(木戸孝允)を京都によび、薩摩の西郷と手をにぎらせます。
 が、その後、倒幕の状勢は膠着の状態にあり、機をみて「大政奉還」というアイデアを投じて状況を一変させます。ほどなく刺客のために集れるのですが、その間において新国家の構想をまとめもしました。「船中八策」とよばれるのがそれですが、じつに先進的なものでした。
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■江戸の遺産である武士の心と生活を明治国家は滅ぼした

<本文から>
 西郷が東京に居たたまれなくなったのは、じつは政論・政見の相違といったものよりも、馬車に乗り、ぜいたくな洋風生活をとり入れて民のくるしみ(百姓一揆が多発していました)を傲然と見おろしているかのような官員たちの栄華をこれ以上見ることに耐えられなくなったからでした。西郷は、真正の武士でした。
 しかも、その″東京政府″は、西郷がつくったのです。西郷はこれらの現状を見て″討幕のいくさはつづまるところ無益だった″とこぼしたり、
 「かえって徳川家に対して申しわけなかった」
 といって、つねに恥じ入る心をあらわしていた、という話を福沢はきいています。福沢はかっての町人にその経済を見習え、などといって、着流しの町人姿でいることが多うございました。さらには、一階級たるべきことをとなえ、平等をねがい、
 「国民」
 を設定し、国民が主人である、政府は国民の名代人にすぎない、といったりしました。さらには、
 「門閥制度は親のかたきでござる」
 ともいいました。だから、制度としての士族保存をいっているのではないのです。前時代の美質をひきつげ、といっているのです。革命というのはじつに惨憺たるもので、過去をすべて捨て去るものですが、過去のよかったものを継承しなければ社会や人心のシンができあがらない、ということをいいたかったのでしょう。
 西郷も、廃藩置県に同意したことでは、国民の設定については大きく賛成したということになります。が、かれには、かれ自身が一身で解決できないほどの矛盾がありました。かれは、武士がすきだったのです。とくに薩摩武士が好きだったのです。人間として信頼できるのはこの層だと思っていました。この層を制度として生かせば″国民″はできあがらない。かといって、かれにとって宝石以上のものである武士を廃滅させることはできない。
 西南戦争の真の原因はそこにあります。
 同時に、これをほろぼした政府は″議論″をもって滅ぼさず、権力と武力をもって滅ぼしたのです。あまつさえ、その″武士″である敵を″賊″としました。福沢のなげきは、この″賊″ということにあります。せっかく欧米とくに新教国と、精神の面で張り合って十分遜色のない″武士の心と生活″というものを、政府は″賊″としたということを、福沢は、国家百年のために惜しみかつ、心を暗くしたのです。『丁丑公論』の文章の激越さは、その憤りにあります。
 西南戦争における当初の薩摩士族軍(私学校軍)は、約一万二千でした。西郷は、反乱について終始積極的ではありませんでした。かれら郷党人が決起するというので、かれはやむなく、勝海舟にいわせると、身をわたしてしまったのです。以後、西郷は、作戦についてなんの意見ものべていません。自殺するようにして身をゆだね、七カ月の戦いのあと、政府軍の重囲のなかで、別府晋介をかえり見、
 「晋どん、このへんでよかろう」
 首を刎ねよ、といって自害しました。
 この戦いの規模は、大変なものでした。九州各地の旧藩の士族が呼応し、総勢三万にたっしました。薩摩を中心とする日本最強の士族たちが死ぬことによって、十二世紀以来、七百年のサムライというものは滅んだのです。
 滅んだあとで、内村鑑三や新渡戸稲造が書物のなかで再現しますが、それはもはや書斎の″武士″だったのではないでしょうか。さらには、政府は、軍事教育や国民教育を通じて武士的なものを回復しようとしますが、それらは、内村や新渡戸の武士道ではなく、ひどく痩せて硬直化した、きわめて人工的な武士像でした。西南戦争を調べてゆくと、じつに感じのいい、もぎたての果物のように新鮮な人間たちに、たくさん出くわします。いずれも、いまはあまり見あたらない日本人たちです。かれらこそ、江戸時代がのこした最大の遺産だったのです。そして、その精神の名残が、明治という国家をささえたのです。
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■明治憲法の不備で国が滅びた

<本文から>
 まことにこの点、明治憲法は、あぶなさをもった憲法でした。それでも、明治時代いっぱいは、すこしも危なげなかったのは、まだ明治国家をつくったひとびとが生きていて、亀裂しそうなこの箇所を肉体と精神でふさいでいたからです。この憲法をつくった伊藤博文たちも、まさか三代目の昭和前期(一九二六年以後四五年まで)になってから、この箇所に大穴があき、ついには憲法の″不備″によって国がほろびるとは思いもしていなかったでしょう(ついでながら一九二八年の張作霖の爆殺も統帥者の輔弼<輔翼>によっておこなわれましたが、天皇は相談をうけませんでした。一九三二年、陸軍は満洲事変をおこしましたが、これまた天皇の知らざるところでした。昭和になって、統帥の府は、亡国への伏魔殿のようになったのです)
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