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<本文から> 老中の一人が、勝に対して質問しました忘は手もとに原典をもっていませんから、記憶だけで申しあげます。
「勝。わが日の本と彼国とは、いかなるあたりがちがう」
というようなことだったと思います。勝海舟は、自分の度胸と頭脳にあぐらをかいているような男ですから、
「左様、わが国とちがい、かの国は、重い職にある人は、そのぶんだけ賢うございます」
と、大面当をいって、満座を鼻白ませたといいます。この一言は封建制の致命的欠陥をつき、しかも勝自身の巨大な私憤をのべています。勝は、アメリカヘゆく威臨丸においても、艦長室にいながら(軍艦操練所教授方頭取)、正規の指揮官はつまり提督ともいうべき軍艦奉行は、門閥出身の木村摂津守喜毅(一八三〇〜一九〇一)で、勝よりも実務の能力がひくい上に、勝よりも七つも年下なのです。この木村という人は明治後、「芥舟」という号をつけ
て隠遁して世に出なかったという、じつにきれいな人なのですが、明治後の速記録に、勝についてこう語っています。「(身分を低くとどめられていたために)始終不平で、大変なカンシャクですから、誰も困っていました」威臨丸の航海中も船酔いだといって艦長室から出て来ず、木村提督のほうから相談の使いをやると勝は「どうでもしろ」という調子で、「はなはだしいのは、太平洋の真中で、己はこれから帰るから、バッテーラ(ボート)を卸してくれ」という始末だったといいます。船酔いだけでなく「つまり不平だったんです」と、おだやかで人を中傷することがなかった木村芥舟が語っています。私は勝海舟が、巨大な私憤から封建制への批判者になり、このままでは日本はつぶれるという危機感、そういう公的感情(もしくは理論)へ私憤を昇華させた人だと思っています。海舟は偉大です。なにしろ、江戸末期に、
「日本国」
という、たれも持ったことのない、幕藩よりも一つレベルの高い国家思想−当時としては夢のように抽象的な−概念を持っただけでも、勝は奇蹟的な存在でした。しかもその思想と、右の感情と、不世出の戦略的才能をもって、明治維新の最初の段階において、幕府代表(勝は急速に立身してすでにそこまでになっていました)として、幕府みずからを自己否定させ、あたらしい″日本国″に、一発の銃声もとどろかせることなく、座をゆずってしまった人なのです。こんなあざやかな政治的芸当をやってのけた人物が、日本史上いたでしょうか。そのバネが、右のことばです。″アメリカでは、政府のえらい人はそれ相当にかしこい。日本はちがう″。 |
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