司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          「明治」という国家・上

■勝海舟は日本国という思想をもった奇跡的存在

<本文から>
 老中の一人が、勝に対して質問しました忘は手もとに原典をもっていませんから、記憶だけで申しあげます。
 「勝。わが日の本と彼国とは、いかなるあたりがちがう」
 というようなことだったと思います。勝海舟は、自分の度胸と頭脳にあぐらをかいているような男ですから、
 「左様、わが国とちがい、かの国は、重い職にある人は、そのぶんだけ賢うございます」
 と、大面当をいって、満座を鼻白ませたといいます。この一言は封建制の致命的欠陥をつき、しかも勝自身の巨大な私憤をのべています。勝は、アメリカヘゆく威臨丸においても、艦長室にいながら(軍艦操練所教授方頭取)、正規の指揮官はつまり提督ともいうべき軍艦奉行は、門閥出身の木村摂津守喜毅(一八三〇〜一九〇一)で、勝よりも実務の能力がひくい上に、勝よりも七つも年下なのです。この木村という人は明治後、「芥舟」という号をつけ
て隠遁して世に出なかったという、じつにきれいな人なのですが、明治後の速記録に、勝についてこう語っています。「(身分を低くとどめられていたために)始終不平で、大変なカンシャクですから、誰も困っていました」威臨丸の航海中も船酔いだといって艦長室から出て来ず、木村提督のほうから相談の使いをやると勝は「どうでもしろ」という調子で、「はなはだしいのは、太平洋の真中で、己はこれから帰るから、バッテーラ(ボート)を卸してくれ」という始末だったといいます。船酔いだけでなく「つまり不平だったんです」と、おだやかで人を中傷することがなかった木村芥舟が語っています。私は勝海舟が、巨大な私憤から封建制への批判者になり、このままでは日本はつぶれるという危機感、そういう公的感情(もしくは理論)へ私憤を昇華させた人だと思っています。海舟は偉大です。なにしろ、江戸末期に、
 「日本国」
 という、たれも持ったことのない、幕藩よりも一つレベルの高い国家思想−当時としては夢のように抽象的な−概念を持っただけでも、勝は奇蹟的な存在でした。しかもその思想と、右の感情と、不世出の戦略的才能をもって、明治維新の最初の段階において、幕府代表(勝は急速に立身してすでにそこまでになっていました)として、幕府みずからを自己否定させ、あたらしい″日本国″に、一発の銃声もとどろかせることなく、座をゆずってしまった人なのです。こんなあざやかな政治的芸当をやってのけた人物が、日本史上いたでしょうか。そのバネが、右のことばです。″アメリカでは、政府のえらい人はそれ相当にかしこい。日本はちがう″。
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■小栗は難事業をみごとに実施

<本文から>
 −新国家はどうあるべきか。
 古ぼけて世界の大勢に適わなくなった旧式の徳川封建制国家の奥の奥にいながら、そんなことを考えつづけていました。むろん、小栗構想の新国家は、あくまでも徳川家というものをコンパスのシンにして、円をえがこうとするものでした。小栗は渾身の憂国家でしたが、しかし人と語りあって憂国の情を弁じあうというところはありません。真の憂国というのは、大言壮語したり、酔っぱらって涙をこぼすというものではありません。この時代、そういう憂国家は犬の数ほどたくさんいて、山でも野でも町でも、鼓膜がやぶれるほどに吠えつづけていました。小栗の憂国はそういうものではなく、日常の業務のなかにあたらしい電流を通すというものでした。
 げんに、かれはそれをやれる位置にいたのです。
 アメリカから帰ったあと、数年して小栗は、幕府の財務長官である勘定奉行の職に就いて金庫の中身を知り、ついで、こんどはお金を使うほうの陸軍奉行や軍艦奉行になり、さらには、これら幕府の軍制をフランス式に変えるべく設計し、みごとに実施に移しました。難事業で、矛盾にみちていました。武士制度という日本の伝統的なものを一挙に解体することは幕藩否定−つまり自己否定になりますからそいつには手をふれず、それを残したまま、直参の子弟を洋式陸軍の士官にし、庶民から兵卒を志願でもって募集するという、いわば新旧二重構造の軍制でした。とくに海軍を大いに充実させようとしました。ヨーロッパの帝国主義に対しては、ヨーロッパ型の国をつくる以外に、独立自尊の方法がなかったのです。いま考えても、それ以外に方法はみつかりません。
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■明治国家は外国から借りた金はすべて返し信用を勝ち得た

<本文から>
「金の話が出たついでに申しますと、明治国家は、貧の極から出発しました。旧幕府が背負った外債もむろんひきつぎました。あらたに明治国家は借金もしました。それらを、貧乏を質に置いても、げんに明治・大正・昭和の国民は、世界じゅうの貧乏神をこの日本列島によびあつめて共にくらしているほどに貧乏をしましたが、外国から借りた金はすべて返しました。
 「国家の信用」
 というのが、大事だったのです。
 私は一九八七年の春はロンドンにいって、そこで、ラテン・アメリカのある国が、先進国から借りた金、これは返せません、ということをわざわざ記者会見して言明した、ということをきき、明治国家を思って、涙がこぼれる思いでした。律義なものでした。
 これは、自画自賛しているわけではありません。
 第二次大戦後、たくさんの新興国家ができ、借金政策で国をやっている処が多く、しかも堂々と返さないといったような国もいくつかあります。
 それらとは、時代がちがうのだ、ということを言いたかったのです。
 十九世紀の半ばすぎという時代において、古ぼけた文明の中から出て近代国家を造ろうとしたのは、日本だけだったのです。そのことの瞼しさをのべたかったのです。いったん返すべきものを返さなければ植民地にされてしまうのです。でなくても、国家の信用というものがなくなります。国家というのも商売ですから、信用をなくしてしまえば、取引ができなくなるのです。信用がいかに大事かということは、江戸期の人達も、その充実した国内の商品経済社会での経験で、百も知っていたのです。
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■小栗と栗本は幕府が滅んでも横須賀ドックが役立つこと知り建設した
<本文から>
 かれは、前にのべた横須賀の巨大なドックの施工監督に、幕臣の栗本瀬兵衛をえらびました。
 歴史のなかで、友情を感ずる人物がいますが、栗本瀬兵衛などはそうですね。いい男です。
 幕府の御医師の子で、幕臣きってのフランス通でした。横浜開港後は主として外務国事をあつかい、外国奉行になったりしました。幕府瓦解後は、官に仕えず、新聞記者として終始しましたが、和漢の学問・教養は明治初年第一等の人物です。風貌は秀才肌でなく、豪放磊落、およそ腹に怪しき心をもつという所がなく、直参が生んだ武士的性格の代表者ともいうべき人物でしょう。かれは、生涯、勝ぎらいで通しました。明治後、栗本鋤雲の名で知られています。
 横須賀ドック工事の目鼻がついたある日−栗本の書いたもの(「鞄庵遺稿」)によれば、元治元年十二月中旬のよく晴れて風の激しい日だったようです −大男の栗本が横浜税関を出て、官舎に帰ろうとしていると、背後に馬の蹄のとどろく音がして、二騎駈けてきます。横須賀を検分しての帰りの小栗上野介で、
 「やあ、瀬兵衛殿、よくなされたな、感服、感服」
 と、声をはりあげた。栗本のしごとをほめたのです。
 私は、小栗のこのことばを言いたくて、えんえんとここまで喋ってきたわけなのです。
 あのドックが出来あがった上は、たとえ幕府が亡んでも″土蔵付き売家″という名誉をのこすでしょう。
 小栗はもはや幕府が亡びてゆくのを、全身で悟っています。貧の極で幕府が亡んでも、あばらやが倒壊したのではない、おなじ売家でも、あのドックのおかげで、″土蔵つき″という豪華な一項がつけ加えられる、幕府にとってせめてもの名誉じゃないか、ということなんです。
 小栗は、つぎの時代の日本にこの土蔵が−横須賀ドックが−大きく役立つことを知っていたし、願ってもいたのです。
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■薩長土肥の藩風の多様さが財産

<本文から>
 佐賀藩士大隈重信は、むろん家中きっての秀才でした。が、無個性な人間や、詰めこみ勉強を、親の仇のようににくんでいました。後日、かれは自分の藩の詰めこみ勉強をののしって、
 「独自の考えをもつ人物を育てない」
 といいましたが、あるいはそうかもしれません。しかし、実直で有能な事務官タイプの人材を多くもつことができます。げんに佐賀藩は、京都から東京に移った新政府に、有能な行政官と事務官を提供することになったのです。
 薩摩の藩風(藩文化といってもよろしい)は、物事の本質をおさえておおづかみに事をおこなう政治家や総司令官タイプを多く出しました。
 長州は、権力の操作が上手なのです。ですから官僚機構をつくり、動かしました。
 土佐は、官にながくはおらず、野にくだって自由民権運動をひろげました。
 佐賀は、そのなかにあって、着実に物事をやっていく人材を新政府に提供します。
 この多様さは、明治初期国家が、江戸日本からひきついだ最大の財産だったといえるでしょう。
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■新国家のプランがないので大挙欧米見学に発つ子供っぽさ

<本文から>
 西郷はプランがないために弱りきっていたところでしたから、津田のもとから帰ってくると、めずらしく昂奮していました。盟友の大久保にもそのことを語ります。ついに、西郷は、
 「われわれが津田先生を頭として仰ぎ、その下につこう」
 と、いいます。
 西郷のすばらしい一面だと思います。
 同時に、明治維新勢力が、どんな新国家をつくるか、という青写真をもっていなかったことをもあらわしています。もっていないのがあたり前ですね。まったく文化の質のちがう日本が、にわかに欧米と出くわして、それから侵されることなく、それらとおなじ骨格と筋肉体系をもった国をつくろうというのですから、これは、青写真があるほうがおかしいのです。日本のような国が他にあって、それが先例になっていたとしたら、べつですがね。
 さっぱりわからないため、いっそ外国を見にゆこうじゃないか、ということで、廃藩置県がおわって早々の明治四年秋、岩倉具視を団長(正しくは全権大使)とする五十人ほどの革命政権の権官が、大挙欧米見学に発ちます。
 「国家見学」
 というべきものでした。世界史のどこに、新国家ができて早々、革命の英雄豪傑たちが地球のあちこちを見てまわって、どのように国をつくるべきかをうろついてまわった国があったでしょうか。
 これは、明治初期国家の、好もしい子供っぽさでした。この中に長州の総帥木戸孝允もいます。薩摩の大久保利通、また伊藤博文もいます。
 西郷は、留守番でした。
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■廃藩置県は維新以上の革命

<本文から>
 私は、明治国家というものを一個の立体物のような、この机の上に置いてたれでもわかるように話したいのです。はじめて出会った外国の人に説明しているような気持で話そうと思っています。
 明治四年(一八七一)の廃藩置県。この日本史上、最大の変動の一つについてお話します。これは、その四年前の明治維新以上に深刻な社会変動でした。
 同時に、明治維新以上に、革命的でもありました。
 大変なものでした。日本に君臨していた二百七十の大名たちが、一夜にして消滅したのです。士族−お侍さんですね−その家族の人口は百九十万人で、当時の人口が三千万としますと、六・三%にあたります。これらのひとびとが、いっせいに失業しました。
 革命としかいいようのない政治的作用、外科手術でした。これが他日、各地に士族の反乱をよび、また西南戦争(明治十年)という一大反作用を生む撓みになりました。ところが当座はじつに静粛におこなわれました。
 静粛といっても、無事ということではなく、火薬庫からおおぜいで火薬を運びだすような危険を学んでいたことはいうまでもありません。深夜、作業員たちが、火気を厳禁しつつ、粛々と、火薬を運びだす光景を思わせます。一つまちがえば大爆発をおこすのです。ぶじ、運びだされました。
 反乱という爆発は、後日おこります。ただし今回はその爆発については述べません。
 大名や士族にとって、廃藩置県ほどこけにされたことはありません。
 明治維新は、士族による革命でした。多くの武士が死にました。この歴史劇を進行するために支払われた莫大な経費−軍事費や、政略のための費用−はすべて諸大名が自腹を切ってのことでした。
 そのお返しが、領地とりあげ、武士はすべて失業、という廃藩置県になったのです。なんのための明治維新だったのか、かれらは思ったでしょう。
 大名・士族といっても、倒幕をやった薩長をはじめいくつかの藩、もしかれらだけが勝利者としての座に残り、他は平民におとすというのなら、まだわかりやすいのです。しかし事実は、勝利者も敗者も、ともに荒海にとびこむように平等に失業する、というのが、この明治四年の廃藩置県という革命でした。
 えらいことでした。
 要するに、武士はいっせいにハラキリをしましょう、ということでした。
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