司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          北斗の人・下

■周作の教授法は斬新で人気

<本文から>
「面金は焼くな」
 ともいった。面金とは、肋骨の形をした顔の防禦物である。その鉄に火で焼きを入れると固くなり、稽古のとき折れやすい。
 「鉄をそのままにして、それぞれの枝金ごとに型に入れ、たんねんに鎚で打って形をつくれ」
 と、鍛冶のことまで指導した。
 「籠手はかならず鹿皮」
 これは周作の考案である。布刺子を用いている流儀があるが、これは打たれると骨にひびく上に、すぐ破れてしまう。
 「鹿皮もな」
 と、この研究心旺盛な若者は、どういう種類がいいかについて結論をもっていた。
 「甲州印伝の鹿皮財布につかつている大唐という種類のものがいい。よく伸縮する。下緒の皮花緒などでつかう小唐という類はきめがこまかくて見た目はいいが、細工するときには針が通りにくい」
 「胴は孟宗竹だぞ。真竹はいかん。真竹は元来ほそいから丸竹をならべたようなかっこうになる」
 「竹刀はべつだ。これは真竹だ」
 といった。
 竹刀の寸法は、周作は原則として三尺八寸にきめている。竹刀の重要部品である尖革と柄革は、牛のナメシ革を用いさせた。
 「柄革は内縫にせよ。外縫にすると籠手の皮をいためるからだ」
      つる
 竹刀には舷が要る、この絃を、最初甲曽師は琴の糸にした。周作は、
 「てんぴきがいい」
 といった。てんぴきとは、牛の筋に捻をかけた硬質のものである。
 とにかく、上州一円で北辰一刀流は割れるような人気になったといっていい。
 周作の教授法も、斬新だった。すでに他流をきわめている者についてはとくに北辰一刀流の「形」を教えず、この新流儀の真髄である竹刀撃ち合いにいきなり入らせてしまう。
-運動のなかから自然、流儀のこつを体得するだろう。しかるのちに既得した形をすこしずつ修正し、無理なくこの流儀の形に変えさせてしまう。
 というやりかただったから、小泉や佐鳥などすでに一流儀をきわめた者の上達は魔法のように早く、一月目で十分、「北辰一力流の使い手」として通るようになり、二段も三段も腕があがった。このふしぎさがなければ、こうも爆発的な人気がかちとられるものではない。
 (こわいほどの人気だ)
 と周作自身もおもった。
 周作にすれば、兵法の図上州をもって自分の流儀の試験台にしようとしていた。それが目的の大部分だった。
 (わが流儀、いける)
 という自信がついた。上州で成功すればハおそらく天下に及ぼした場合、水の低きにつくがごとく天下の剣は滑々として北辰一刀流になびくであろう。
 いわば、実験のつもりできた。実験がおわれば周作はさっさと去るほうがいい。
 が、実験というものは、その実験が大きければ大きいほど危険をともなうものだという教訓を、周作は徐々に得つつある。
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■対千人への暴挙に打って出る

<本文から>
 このままではかれらに行きあうことはあるまい。
 周作は、道を捨てた。右手の空間へ身を移した。谷へ降りはじめたのである。すでに松明はにじり消した。
 (馬庭の宗家樋口定輝に出遭いたい)
 という一念が周作を駈っている。それ以外にこの事態を救う方法がなかった。
 が、相手は千人である。そのおびただしい松明の動きからみても、それだけの数はくだらないであろう。
 千人に一人では、到底勝ち目はない。それは周作にはわかっている。しかしそういう無謀の飛躍がなくてはものごとのおさまりのつかぬことがあるものだ。
 (おれのような男が)
 と、周作はおもった。
 (こういう暴挙に打って出るというのは、生涯に一度かもしれない)
 周作の思考の質からいえば、こういう破れかぶれの直線行動に出られるような男ではない。この若者は平素、そういう自分の合理的な頭脳を愛しつつも、一方でははなはだしく不満に思っている。
 (一度は)
 谷に飛びおりるような破目に自分をおとしこんでみたいという願望があった。いま、現実に飛びおりた。
(おれでないおれが、いま谷を越えている)
 谷の底は、ほそい渓流になっていた。それをとびこえようとして、一度は流れに落ちた。やがてずぶぬれになって、むこう斜面にとりついた。
 周作は岩角をつかんだ。身をせりあげるようにして、よじ登った。頭上には道があり、そこを足音を踏みとどろかせつつ光の列が通っている。
 周作は、道の崖側にはえている椋の木をめざし、這いのぼった。路面に出ると、椋の幹に寄り添った。
 その眼の前を、人がつぎつぎとよぎってゆく。博徒がいる。浪人がいる。百姓らしい剣客がいる。歴とした武士のような男もいて、手槍、長柄、弓、鉄砲などさまざまな得物をもっていた。
 (妙なものだ)
 当の周作が二十糎とへだたらぬ椋の閣に立っていることを、この剣客の大群のなかのたれ一人も気づかない。
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■舌刀など世間智といった感覚が空前絶後の隆盛をもたらす

<本文から>
 呆然、周作は小田原城下に入り、旅籠品川屋惣兵衛方に投宿した。そこに泊まりつつ、城下の小道場をしらみつぶしに破ってまわった。
 「ばけもののような男だ」
 というのが、城下の噂になった。強いというだけではない。座敷の鴨居にあごをのせられるはどの大男だということもある。
 当然、礼助の耳に入った。
 待つうちに、周作がこの宝山流武藤弥五郎道場にやってきた。
 (他流試合はむずかしいものだ)
 と、周作はこのころには、人間を相手にするむずかしさという、剣外の智恵を肥らせはじめていた。
 (かけひきが要る)
 というのである。まず勝たねばならぬ。が平凡に勝っても相手はなかなかひきさがらないため、めだつほどの鮮やかな勝ちをとらねばならない。ところがめだつほどに勝ってしまえば相手の名誉を根こそぎにうばい、恨みを買うことになる。
 たとえば、武州熊谷で村田金作という剣客と立ちあったとき、検分役がなかったため、相手は打たれても打たれても、参った、とはいわない。
 ついに周作は竹刀で相手の首の根をおさえつつ、足を飛ばして左に右に十度ばかり押し倒し、やっと相手に敗北を認めさせた。
 が、それだけでは村田は多数の門人の手前、面目がまるつぶれになる。
 「おどろき入った」
 と、試合後、周作は満座の前でいった。
 「私は諸州を遍歴しておりますが、御辺ほどに、心気の通った術をみたことがない」
 そうほめると、相手の感情はにわかに溶けるものらしい。素直に敗北をみとめ、しかもあとで悪声を流したり、闇討ちをかけてくることをしなくなる。
(他流試合には、舌刀がいる)
 舌刀とは周作の造語である。こういういわば俗臭のある点、この若い天才が、過去の伝説的な兵法者と多少ちがっている点だし、そのいわば世間智といった感覚が、のちに兵法史上、かれの流儀を空前絶後の隆盛をひらかしめたもと種の一つになっているのであう。
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■一流をひらくために負けられぬ

<本文から>
千葉周作という若い剣客の到来は格好な刺激だったのだ。
 「わしは家中にも知人が多い。しかるべき仲介者をえらんで試合を申しこませようとおもうが、どうかの」
 と、乗り出すようにいった。
 「いや、それは」
 こまる、という表情を周作はしてみせた。
 (自分はそういう剣客ではない)
 と言いたかった。この若者にすれば、この回国修行は、いたずらに勇を誇り、技をてらうがための目的ではない。野望があった。
 一流をひらくことである。
 かれが開創した北辰一刀流が、はたして日本剣術の革新たりうるかどうかを、現実の古流儀と対決することによって試してゆきたいというのが、目的であった。
 「そのためには、負けられませぬ」
 と、この若い開創者はいった。負けた、という評判をとると、いかにその体系がすぐれているにせよ、世評は一時に堕ちてしまう。堕ちれば二度とうかびあがれない。
「勝つ以上は、百世に語りつがれるはどのあざやかさで勝ちたい」
 それが、この一流を栄えしめる唯一の方法であった。この若者はそのあざやかな勝利へもってゆく条件を、虚実をつくしてつくりあげつつある。
 だからこそ最初、できるだけ姿をみせることを避けた。自分の虚像をできるだけおおきく相手に感じさせ、畏怖感をあたえてその精神を萎縮させるためであった。
 ついで、来訪者に教授を開始したのは、一閑の緊張をゆるめるためであった。ゆるめなければ、一閑はついに試合を忌避することになるであろう。それではこまる、とおもったのである。
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■超一流の学者・東条先生が友人とし扱い世間の目がかわり大盛況した

<本文から>
 (東条葉先生ほどの方が)
と周作は最初その商売っけのつよさを意外におもったが、すぐ思いかえした。上総の一百姓の子が、氏も素姓も背景もなく、ただ学問一つで天下に名をあげ諸侯の師になるまでには、世間厭離の脱俗者流の物の考え方ではとてもなりおおせるものではない。
 出身階級の卑さは、周作もおなじである。東条一堂の気持は十分に理解できたし、むしろ一堂にあやかろうとさえ思った。
 ともあれ、周作の生涯の恩人のひとりは、この東条一堂であったろう。この当時超一流の学者が、周作をもって同格の友人としてあつかってくれたことが、世間の周作に対する目をかえさせた。
 さらに、
 「千葉の剣は仏理ではなく、儒理である」
 と、世間に吹聴もしてくれた。非合理なものではなく儒教のように合理的なものであり儒教のごとく理を崇び、理をきわめる体系の剣であるという意味であった。
 遠く九州や奥州の果てからもお玉ケ池の東条一堂の学名を慕って入塾してくる者が多いが、そういう場合は、
 「剣は隣家でまなびなさい」
 と、一堂は露骨にいってくれた。一堂の学説は救国思想が鮮烈であるとされている。とくにこのころになると日本の近海に欧米の巨船が出没し、海防論が唱えられはじめている時代だったから一堂はつねに危機思想をもち、「武の道がなくてはわが学問は完成しない」とまでいっていた。周作との「連繋」は、いわば一堂の思想的行動でもあったのである。
 お玉ケ池に千葉道場玄武館が出現して数年たつと、周作の名は満天下に知られた。
 「他道場で三年かかる業は、千葉で仕込まれれば一年で功が成る.五年の術は三年にして達する」
 という評判が高く、このため履物はつねに玄関から庭にまであふれ、撃剣の音は数町ざきまできこえわたって空前の盛況をきわめた。
 戦国末期以来、ひさしく停滞していた剣法は、周作の剣理によってあたらしく再組織され、万人が上達しうる道が発見された。このことは世間が待ちのぞんでいたことでもあったのだろう。
▲UP

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