司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          人斬り以蔵

■以蔵の悲惨な最期

<本文から>
 「わしは無宿鉄蔵」
 というだけで、何もいわない。藩への憎しみだけが、以蔵の男をささえた。武市以下の同志も、わずかながら以蔵を見直して安堵するところがあった。
 が、その毎夜々々の泣きわめきかたがあまりに鮒甲斐ないため、武市はついに天祥丸を用いる決意をした。獄外の同志に通信し、以蔵のために弁当を差し入れさせた。なかに、むろん多量の天祥丸を粉末にして入れてある。
 以蔵は、飢えていた。
 それを夢中で食った。ところが、この男の肉体がよはど尋常でないのか、あくる日もけろりとしている。
(ああ、命なるかな)
 と、武巾は嘆息した。もはや、すべての同志は、以蔵に支配されていた。以蔵の胃、腸、心臓さえも、全同志を支配した。
 武市は、もう一度天祥丸を、そのままの形で差し入れさせた。以蔵いや無宿鉄蔵は、武市の手紙を見た。そして、毒薬を見た。
 破った。
 毒薬を、踏みにじった。以蔵は、武市の牢屋らしい方角を見た。他は真っ暗が、そこだけは上士の礼遇として一穂の燈火があわくともっている。
 以蔵は、どう思ったか。それはわからない。
 ただ武市に明確にわかったことは、以蔵は翌日、搾木にかけられようとしたとき、まるで予定していたかのように、
「申しあげます」
 と叫んだことである。以蔵は、すべてを自白した。
 この男にすれば、あるいはその師匠に脳後に叫びたかったのではないか。
「この以蔵めを、最後まであなたの御都合だけで利用し、支配なさりたいおつもりですか」
 以蔵は、ついに首領以下、勤王党の幹部を最後に立札したことになる。
 かれらはつぎつぎに断罪され、首領武市半半太は、切腹。
 慶応元年閏五月十一日、商会所広庭で行なわれた武市の切腹は、三文字に腹を割いて検視の役人でさえ目をみはるほどのみごとさであった。
 が、その凶を作った以蔵は、知らない。なぜならばこの触宿鉄蔵だけは極刑の梟首になり、師匠の切腹のころは首だけの以蔵が、棚切河原の獄門台の上で風に吹かれていたからである。

■大村益次郎は彰義隊を攻撃を化学実験のように指揮した

<本文から>
「上野の彰義隊を攻撃します」
 と、益次郎は提灯の灯あかりのなかでいった。
 そのあと、絵の達者な益次郎が、自分で描いた諸隊ごとの攻撃部著図をくばり、やがてふところから時計をとりだした。
 十分を経た。
 「出発」
 と、小さくいった。諸隊長の影がうなずき、やがて物憂そうに散ってゆく。歴史はこの瞬間、霧雨のなかの小さな号令で一転換したのだが、当の号令のぬしは、いささかの芝居気もなく、もう西ノ丸にむかって戻りはじめていた。益次郎は十分に計算をつくした。号令はその結果にすぎない。
 実験室の化学者に似ていた。いやこの男は化学者そのものであった。すでに方程式をつくり、薬剤、器材を準備した。あとは実験生に、実験せよ、と命ずれば足る。
 益次郎は、西ノ丸の総督府の柱一本を占領して、その鉢びらきの頭をもたせかけ、実験の結果を待っていた。
 すでに夜が明けはなれている。
 諸隊は、雨の中をその部著にむかってすすんでいた。
 彰義隊のほうでは、いつもの習慣どおり、広小路の畳の壁塁から夜明けとともに銃儀を山内にひきあげさせた。そのあとへ、官軍が難なく入ってきた。実験は成功している。
 多少の齟齬もあった。
 本郷にむかった長州藩兵のうち、有地品之允を隊長とする第一大隊四番中隊は、この攻撃日の数日前に横浜の外商から買った最新式の後装銃(スナイドル銃)で装備されており、益次郎はこの隊の活躍に期待していたが、有地隊がいざ進撃ということになって、銃の操法がわからなくなった。もともと一回の試射をおこなっただけで、隊長以下、習熟していなかったのである。
 買いつけたのは、参謀の長州藩士木梨清一郎である。木梨は、本郷の加賀藩邸を指揮所にしていた。
 「加賀藩邸へ行って習って来い」
 と、有地は数人を走らせ、隊を休止させていた。このため一部で多少の混乱があった。
 薩摩藩は、大村に含むところがあってか、主力を湯島におき、部著どおりの黒門口には、最初、足軽隊と遊撃隊半隊を出しただけであった。しかしこの方面の小銃戦が活発になるにしたがい、ようやく繰りだしてきた。
 手違いがあっても、ほぼ実験はすすんでいる。
 益次郎は、その間、「江城日誌」という題号の陣中新聞の発行の手配りをしていた。
 この男が江戸着任以来、手をつけているもので、日刊、千部である。城中に彫刻師八人を置き、手刷りで刷らせた。この男の趣味ではない。軍命令の下達のためにこういうものが必要だということをおもったのであろう。
 かれは、「彰義隊、古で討滅」という予定稿を刷らせていた。かれの計算では一日で片づく、そう信じている。その意味の新聞を数千部刷っておき、拳闘終結と同時に、全軍、全市にくばるつもりであった。
 上野周辺の戦闘区域には、溝や池に水があふれ、道路は蹴配と化し、足を没する場所もすくなくなく、戦闘は難渋をきわめた。
 しかも彰義隊は、予想以上に頑強で、はじめは官軍を三橋で防戦し、退いて黒門で銃砲戦し、官軍は一歩も進めない状態が数時間つづいた。
 彰義隊は、旧幕府仏式兵がもっていた四ポンド山砲七門を所有し、二門を黒門、二門を山王台、他の三門を背面の要地に置き、この火力が官軍をさんざんに苦しめた。
 官軍砲兵陣地は、本郷台の加賀藩邸と富山藩邸にあり、不忍池を越えて上野の山を砲撃していた。
 ここに、肥前鍋島藩が事変前に英国から手に入れたアームストロング砲二門がある。
 砲弾は円弾ではなく尖頭弾を用い、その破壊力、殺傷カは世界無比であったろう。当時この火砲は、英軍のほか、地球上で所有していたのは肥前鍋島藩だけであった。
 英国陸海軍省も、最初、この砲の操作に多少危険がともなうところから制式砲に採用しなかったが、薩英戦争に試験的に用いて成功したためようやく認識をふかめた、という程度で、まだ制式砲として採用にふみきっていない。薩英戦争のとき、旗艦の砲術長R・E・トラセーが、本国に報告している。「現在用いられている各種弾丸の中、この砲のものは、最大の破壊力をそなえているといっていい。ことに着発信管を挿入した榴弾の効力は、どう讃美しても讃美しすぎたということはない」
 上野攻撃の前日、益次郎は肥前藩のこの二門の砲隊長をわざわざよび、
「この砲は官軍の長城である。もし敵兵がせまってきたら退却して奪われるな」
 といった。さらに、砲弾の数もすくない。それに戦闘の初期にむやみに撃って敵にその所在を知られてはこまる、だから撃つな、午後、戦闘激烈の切所にいたってはじめて撃て、と命じておいた。

■大村益次郎は人事の機微がわからず敵をつくった

<本文から>
 楢崎剛三は長州藩の上士の出で、世子に愛され、その剣技をもって世子親衛となり、幕府の長州征伐のときは芸州口で奮戦した。
 素姓からいっても、
「なんの、百姓医者が」
 と、益次郎を下風に見ていた。
 楢崎は、唾を飛ばして苦戦の模様を訴えたが、益次郎は火吹達磨をいよいよ無表情にしてきいている。
 楢崎は、ついに、
「前線では、朝九時から午後四時まで小銃を撃ちつづけている現状だ」
 とまで極端な表現をつかった。これが、益次郎の性分には、気に入らなかった。
「君、嘘を云ってはいかぬ」
 と、冷やかにきめつけた。
「なにが嘘だ」
 と、楢崎が立ちあがった。益次郎はいよいよ冷静になり、
 「嘘だから嘘といっている。小銃というものは三、四時間も連発すると手が触れられぬほど焼けてくる。水にでも漬けねばそれ以上連発することはできない。それを君は九時から四時まで続け撃ちをしたというが、それはうそだ。うそでないというなら、いまここで君が四、五時間連発してみるといい。それに、聞けば兵一人あたりまだ弾丸が二百発ずつあるというではないか。そんな隊に弾丸の支給はむろん、増援もできぬ」
 といった。
 云い方がある。益次郎はすきのなさすぎる理屈で撃退した。当然、楢崎、河田もひきさがらざるをえなかったが、議論に負けた怨恨だけは残った。この怨恨はこのふたりだけでなく、全軍にひろがりつつあった。とくに薩摩人、それに、益次郎の門人以外の長州藩諸隊長に深く根ざした。
 函館ノ役のときもそうである。
 攻撃軍の参謀黒田了介は攻撃に苦慮し、薩人某を軍艦で江戸の益次郎のもとに急派して、増援をもとめてきた。
 「あれで十分です」
 と無愛想にいった。
 「貴下が函館に帰陣される前に、陥ちるはずです」
 その言葉どおりになった。が、予言が的中しすぎて、相手に面目をうしなわせた。益次郎にはそういう人事の機微というものがわからない。
 奥州戦争がおわってから、こういう話がある。戦線から帰ってきた首席参謀西郷隆盛と大村益次郎とが、ひさびさぶりで江戸の政庁で同席した。
 官軍の両首脳の対面だから、なにか快談があるだろうと、庁員はみな期待した。
 が、西郷は羽織をひねくったままだまりこくっていた。益次郎も、あたりを見まわしてだまっていた。
 やがて退庁の時刻になった。両人はやっと視線を合わせて気恥ずかしそうに一笑しただけで、そそくさと退出してしまった。
 すでに戦さという行動はおわった。たがいに喋るべき共通の話題はもうなかったのであろう。
 しかし、そばの者はあきれて、
 おおだてもの
 「大立者のだんまりは異常なものである」
 と、しばらくこのうわさでもちきりになった。
 ところが、こうした噂も、一部の薩摩人にとっては、益次郎への不評になった。老西郷に対して無礼であろうというのである。

■茶人・織部正のずさんな陰謀

<本文から>
 翌年の冬、徳川家は、大坂の豊臣家と手切れになり、ひとたびは大軍を動かした。しかし、域外で小競りあいがあったのみで、すぐ講和になり、両軍ともしばらく手を休めている。古田織部正には、格別の陣触れはなく、織部正自身は、京の所司代板倉伊軍のもとにあってその活動をたすけ、善十らは、囲もとにあって城を守っていた。
 翌元和元年五月、大坂落城。
 その直前に、古田織部正は、京都にあって身柄を拘禁されている。
 善十には、どういうわけであるか、よくわからなかったが、かれ自身の取調べがすすむにつれ、織部正が、大坂方に内通していたらしいことが、だんだんわかってきた。
 「陰謀」の実相は、わずか一万石の大名にしては豪壮すぎるほどのもので、夏ノ陣のとき、家康、秀忠が、京を出て大坂にくだるのを待ち、二条城を襲って占拠し、町々に火を放ち、天子を奉じて叡山に走り、大坂と呼応して東軍を挟撃する、というものであった。
 (まことか)
 と、善十は、疑った。茶人にしては恐るべき計画であり、また茶人なればこそ、計画があまりにも疎漏すぎた。
 狂気に、ちかい。
 徳川家への反乱は、肥後の加藤、芸州の福島といった故太閤恩顧の大大名でさえ企ておよばなかったことであった。
 それをなぜ、とるにも足らぬ小大名が、しかも単独でやる気になったのか。
 織部正は女婿の鈴木左馬助をも語らって一味にひき入れている。その左馬助の家来某がさることで京の市中で人を殺め、所司代で糾問されたことから、意外な右の事実があかるみに出た。
 鈴木左馬助、断首。
 その子惣内をはじめ一族二十余人、右におなじ。
 善十は、まるで知らされていなかった。
 (惜しい)
 とおもった。もし織部正が挙兵の計画をあかしてくれたならば、善十は、調略武略では多少の覚えがある。敗亡するにしても、かようなぶざまはなかったろうとおもった。
 (やはり茶人じゃ。思慮はこまごまと晦渋じゃが、大どころで抜けておる)
 しかし織部正は、茶人らしい思慮で、あざやかな手は打っていた。事前に、逃げている。
 古田織部正として、幕将鳥居土佐守成次に召しあずけられ、元和元年六月十一日、堂々と切腹したのは、ありようは善十であった。善十は、顔が、似ている。
 織部正の陰謀は、すでに善十を竹内峠からよんだときから、周到にすすめられていたのであろう。
 織部正は、自分の人生を自分の手で割りくだいた。
 が、みごとに補綴した。
 のち薩摩に流寓し、その墓といわれる石が西南ノ役前まであったという。

■幕末にニ百年からの口伝の大砲が役に立たなかった

<本文から>
 (これはおどろいたな)
 新次郎の察するところ、どの大砲方の家も、ニ百年のあいだ、代々秘伝や口伝で調製法を伝えているうちに、すこしずつ伝え誤りが出来てきて、ついに役にも立たぬ火薬を調製して合戦に出てきたのである。
 ヒビの入った砲をかかえてきた家は、もっと滑稽だった。使いものにならぬ大砲を、藩の重役にも見せず、その砲によって家禄を得、子々孫々食ってきたのである。かれらが、ブリキトースを「権現砲」と神格化してたれにもそれを見せたがらなかったのは、当然といえた。
 (おどろいたことだ)
 それが、封建制というものだった。この制度は人間や身分を数百年間、制度のカンヅメに入れてきただけでなく、大砲までをカンヅメにしてきたのである。この二百年間、新式の大砲を製造するわけでもなく、操法を改善するわけでなく、ただ大坂夏ノ陣で使った方法を「口伝」として保存してきた。ただ保存するだけで、六軒の大砲方の家が、家禄を食って子孫をふやしてきたのである。
 (やむをえぬ。わが家のを射つか)
 新次郎は松の木の上から、撃ち方用意、と号令した。かれは自分の火薬の調製法に、自信をもっていた。口伝ではなく、緒方塾の新知識だったからだ。
 「−射て」
 轟然と砲ロは火をふき、鉄丸は天空高くけし飛んだ。ところが、玉は敵の先鋒のはるか上を飛びぬけて丘の中腹に突きあたり、ごろごろと坂をころがりだした。
 (しまった。飛びすぎた)
 新次郎は木からおり、火薬袋のヒモを解いて、ひとにぎりの火薬をつかみだして地上へ撒き捨てた。
 「薬が強すぎた。−つぎは、盒弾」
 やがて射撃用意ができた。新次郎はまた松の木の上にのぼった。眼下の街道を見おろして、(おう)と息をのんだ。
 敵がくずれ立っていた。第一弾は当たらなかったが、砲声が敵の胆を奪ったらしく、逃げようとする先鋒と進もうとする中軍とが、ちょうど一本松のあたりで衝突して大混乱を呈していた。
 「いまだ、射て。よいか、砲身が裂けとぶまで射つのだ」
 ふたたび笠塚家のブリキトースが南大和の天地に噛えた。つづいて、火薬のススを拭うまもなく、二発、三発と射ち、ついには焼き玉まで射ち出した。焼き玉とは、鉄丸を真っ赤に焼いたものだ。これが街道のわきの野小屋のワラ屋根にごろりと落ち、白煙をあげはじめたころ、敵はどつと崩れたち、大将以下が、算をみだして逃げはじめた。
 戦闘は半刻ののち、高取側の圧倒的な勝利でおわった。戦勝の主因は、笠塚家のたった一門のブリキトースによるものだった。
 しかしふしぎなことに潰走した敵も損害が意外にすくなく、城方が目撃したところでは、十津川農兵らしい男がひとり死んだにすぎず、それも、崩れたった味方の足にふまれて死んだものらしかった。
 四分五裂した天誅組の敗兵は、その後日没まで南大和のあらゆる村道でみられたというから、よほど手ひどい潰走だったらしい。
 (平山玄覚房は、無事、逃げたろうか)
 新次郎は、玄覚房の「天朝様の旗本」の夢がブリキトースのためにもろくも崩れてしまったのが、気の毒なようでもあり、おかしくもあった。
 その日の午後、藩主植村駿河守から新次郎に対し感状が出るという話があり、浦川六兵衛などが_わがことのようによろこんでくれたが、ついに出なかった。

■塙団右衛門は必敗の大坂で名を売ろうとする

<本文から>
 大坂城がいかに金城湯池とはいえ、集まる者はどうせ食いつめ牢人ばかりなのだ。天下の諸侯をこぞる関東の大軍の前にはひとたまりもないことはあきらかだし、げんに、千疋屋理助自身をはじめとして、京の眼のある商人は、すでに関東加担の意を、所司代板倉伊賀守にまで通じてあるほどだった。
 理助は、大坂の必敗を説いて、極力関東加担をすすめた。しかし団右衛門は、
「おれも武士じゃ」
 といった。
「町人に軍略を説かれるまでもなく、この勝敗はわかっている。おれは死ぬよ。死ぬがな。しかし考えてもみよ。いまさら駿河の中将にすがって仕官をしても、せいぜい、前知千石は出ぬぞ。大坂へゆけば、城内に名ある者は少ないゆえ、団右衛門といえども、一手の大将にはさせてくれる。武士として、天下の兵を相手にひと戦さするほどの冥加は、またとあるまい」
「−言い触らし団右衛門様」
 理助は苦笑しつつ、
「と異名されたほどのあなた様ではござりませぬか。商人のわれわれよりも吹聴のお上手なあなた様が、せっかく瀬戸ぎわに、なぜ元も子もなくしなさるのじゃ」
「そこが」
 団右衛門はすこし首をかしげ、
「おれの妙なところかな」
 といった。
「わかりませぬな」
「わからぬでよい。さむらいとは、自分の命をモトデに名を売る稼業じゃ。名さえ売れれば、命のモトデがたとえ無うなっても、存分にそろばんが合う」
 「わかりませぬな」
 「わかるまい。そこだけが、侍とあきんどの稼業のちがう要じゃでな。塙団右衛門のそろばんでは、大坂に加担するほうが大儲けになる」
「が、わたくしは、関東に加担して荷駄人足を請けおい、大もうけするつもりでござりまするぞ」
 「でかした。団右衛門があきんどでも、理助のようにする。しかし団右衛門は、後世の者に売りつけるつもりじゃ。一生皆一夢、鉄牛五十年」
 「お経でござりまするか」
 「おれの詩じゃよ。いま廊で考えた」
 大坂冬ノ陣は、慶長十九年十一月十九日、東軍蜂須賀勢の木津川尻攻撃で戦端がひらかれ、翌月の十二月二十一日には、早くも和議が成立した。
 このため、めだつほどの合戦はなかったが、ただ二つの例外は後藤又兵衛、木村重成の今福・鴫野への押し出しと、塙団右衛門の船場における夜襲であることは、東西両軍の将士のひとしくみとめるところだった。

■名が忘れられた聞多の一命を助けた所郁太郎

<本文から>
 「君は、苦痛のあまり兄上に介錯を乞うた。しかし母上はそれをさせ給わず、君の一命をあくまで助けようとなされている。君は、生きよ」
 と言い、すぐ、「わしは生かしめるであろう」と、医師としての威厳をもっていった。
 「生きるためには苦痛がある。君は忍ばねばならぬ。忍ぶか」
 井上は、点頭した。
 このとき、長野昌英、日野宗春は、郁太郎の気勢に呑まれ、自然のいきおいでその手術助手の位置についた。
 「脈をしらべていてくれ」
 郁太郎は、長野に命じた。さらに日野宗春に焼酎をもって傷口をあらわせ、ついでたまたま駈けつけた近所の吉富藤兵衛という男に患者が動かぬよう大腿部をおさえさせた。
 郁太郎は汗どめの鉢巻を締め、傷口の縫合にとりかかった。一時間たった。が、傷口の三分の一も縫いきれない。
 「脈は、大丈夫か」
 何度か、きいた。郁太郎自身、患者は十中八九、途中で死ぬであろうと思った。
 意識が朦朧としているとはいえ、畳針による容赦のない縫合はさすがに激痛をともなうらしく、患者は何度かうめいた。その痛覚だけが、患者を死に陥し入らしめぬ唯一の効果を果たしているかのようであった。
 途中、郁太郎のほうが疲労で手首が動かなくなった。その手を、聞多の母が揉んだ。さらに縫い、ついに五十幾針を縫いおわり、全身に包帯をほどこしおわったときには、手術開始後、四時間を経ていた。
 井上聞多は、このために奇蹟的に一命をとりとめている。手術後三カ月目には傷のほとんどが癒着し、室内での歩行もできるようになった。井上家では彼を、妹の婚家の厚狭郡本郷村の来島亀之助方に移し、そこで保養させた。
 郁太郎は、三田尻の遊撃軍屯営にもどり、隊務についたが、しかしほどもなく年が明け、二月二十日をすぎたころ高熱におかされた。二十八日、にわかに死んでいる。肺炎とも言い、腸チフスともいわれた。
 息をひきとった場所は、吉敷村の綿屋助右衛門方の離れであった。近所のお菊という女が看病した。
 その死の直前、お菊の手をにぎり、彼女の指をもって畳の上に、
 「二十八年」
 という文字を書いた。
 お菊には、意味がわからなかった。が、死後、それが郁太郎の年齢であることがわかった。自分の齢を言い、なにを言おうとしていたのであろう。辞世はない。看病のお菊に、文之助という子供があった。病中、郁太郎はこの幼童に、例の山上憶良の歌を教えていた。おのこやも空しかるべきよろず世に語りつぐべき名は立てずして。−これが、いわば辞世のつもりであったのかもしれない一。
 その死後、所郁太郎の名は忘れられた。元来が美濃人であり、藩外人の筆団に入っていたために、維新後の長州人たちも、思いだすことがなかった。
 ただ、井上聞多だけは覚えている。

■三万石の乞食との自負をもった又兵衛が大坂方へ

<本文から>
 (ここまで堕ちたか)
 征韓の陣、関ケ原ノ役で高名をあげ、一時は一万六千石を食んだ武将が、粗菰をひきかぶり、河原に流れついた公卿の木履を枕にして、寝息もひそやかにねむっていた。商人は、かがみこんで基次の耳もとに口をつけ、
「わしじゃ。わかるか。播州湯入郷の後藤又兵衛じゃ」
 又兵衛はほそ眼をあけ、例の嬰児のような徹笑をにやりとつくると、
 「わかる。合力にきてくれたか」
「おう、なんでもする。金でも米でも存分に合力するぞ。金がほしいか。それとも、わが家に来るか.わしは、いまは大垣屋から屋号をわけてもろうて、大坂にいる。金のことならぼ不自由はさせぬぞ」
 その夜は、堺の大垣屋の菩提寺である寺町蛸薬師の弘通院を借りて又兵衛を請じ、商人は酒をのみ、下戸の又兵衛は郁aたべ、夜の白むまで物語をした。
 「いかがであろうか」と商人はいった。「わしは伊予松山の加藤家に縁故がある。高望みせず二、三千石ならいつなんどきでも話がつくゆえ、考えてはみぬか」
 「せっかくじゃが、わしは二千石、三千石なら、乞食をしていたほうがよい」と又兵衛はいった、「万石か、しからずんば無禄じゃ。武士とは本来そうしたものよ」
 石高が武士の器量をはかる桝だとすれば、万石から踏みはずした又兵衛が、無禄の乞食をえらばざるをえないのは当然な算法である。
 「妙な算法じゃな」商人はいった。
 「が、見るところ、世の武家はみなそういう算法を用いてはいまい。商人も武士も、値のきめかたはかわらぬはずじゃ」
 「いかにも。しかし、わしは日本ひろしといえども、武士はこの後藤又兵衛ただ一人じゃと思うている。たった一人の武士なら、たった一つの算法で生きてゆくしか仕方あるまい」
 「それでは世に通用せぬ」
 「それゆえ乞食をばしておるよ」
 堕ちたとはいえ三万石の値のついた乞食だという自負があるからであろう。笑顔に、卑屈さがなかった。
 後藤又兵衛基次という武士の値が高騰したのは、それから二年を待たなければならなかった。慶長十九年、関東と大坂の豊臣右大臣家とが手切れとなり、秀頼の老臣大治長は、諸国の牢人をあつめる一方、不遇の軍事技術者をさがしはじめたのである。
 招かれて入城した者には、関ケ原の敗将でかつては土佐二十二万石の国持大名でありながら京で寺子屋の師匠にまでおちていた長曽我部宮内少輔盛親があり、信州上田城主真田昌幸の子幸村があり、そのほか、豊前小倉の城主毛利勝信の子勝永、宇喜多秀家の重臣で四万石を食んだ閲歴のある明石全登などで、騎馬一万二、三千、徒士六、七万、雑兵五、六万、ほとんど全国の牢人をこぞったといっていい。
 又兵衛が大坂城からの使いを受けたのは、大和郡山のあばら屋に住み、土地の田舎武士に軍略の講義をしてわずかに生きていたときである。使者が帰ってから、数日起きず、寝床のなかにいたという。入城するにも、甲胃も馬も、家を出てゆく装束もなかったのだ。
 弟子たちが不審におもい、ある日、又兵衛を枕頭に見舞うと、
「十年待ちくらした恋女にめぐりおうた。はずかしながら恋痛いじゃ」
「ほう」
 あなた様ほどのお方にもそういうことがござるのか、と一同眼をまるくして、
「われらおカになりとう存ずる。して、相手のお亀別は?」
 「名か、おらんじゃ」
 と破れ布団をかぶって叫んだ。乱とは、世の乱れのことである。ようやく意味がわかって一同顔を見あわせた。いったん引きとってから首をあつめて合議し、小銭を出しあって大坂へ出立する路用だけは持たせてやった。
 大坂へつくと、すぐ城内には入らず、京橋筋に店をかまえる柿又兵衛をたずねた。柿は、奥から走り出て又兵衛の顔をみるなり、
 「ああ」
 といった。
 「なにも言うな、わが胸にある」
 とりあえず家に泊め、数日して、又兵衛の甲宵刀槍と馬を整え、さらに十数人の徒士、若党、中間、小者をさがしあつめて供揃えさせ、堂々たる容儀で大野修理大夫治長の屋敷へ乗りこまさせた。
 ほどなく又兵衛基次は秀頼幕下の五将にえらばれて大名格となり、慶長十九年十一月、城外天満に秀頼が馬揃え(観兵式)をしたとき、基次は命じられてその采配をとった。

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