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<本文から>
「わしは無宿鉄蔵」
というだけで、何もいわない。藩への憎しみだけが、以蔵の男をささえた。武市以下の同志も、わずかながら以蔵を見直して安堵するところがあった。
が、その毎夜々々の泣きわめきかたがあまりに鮒甲斐ないため、武市はついに天祥丸を用いる決意をした。獄外の同志に通信し、以蔵のために弁当を差し入れさせた。なかに、むろん多量の天祥丸を粉末にして入れてある。
以蔵は、飢えていた。
それを夢中で食った。ところが、この男の肉体がよはど尋常でないのか、あくる日もけろりとしている。
(ああ、命なるかな)
と、武巾は嘆息した。もはや、すべての同志は、以蔵に支配されていた。以蔵の胃、腸、心臓さえも、全同志を支配した。
武市は、もう一度天祥丸を、そのままの形で差し入れさせた。以蔵いや無宿鉄蔵は、武市の手紙を見た。そして、毒薬を見た。
破った。
毒薬を、踏みにじった。以蔵は、武市の牢屋らしい方角を見た。他は真っ暗が、そこだけは上士の礼遇として一穂の燈火があわくともっている。
以蔵は、どう思ったか。それはわからない。
ただ武市に明確にわかったことは、以蔵は翌日、搾木にかけられようとしたとき、まるで予定していたかのように、
「申しあげます」
と叫んだことである。以蔵は、すべてを自白した。
この男にすれば、あるいはその師匠に脳後に叫びたかったのではないか。
「この以蔵めを、最後まであなたの御都合だけで利用し、支配なさりたいおつもりですか」
以蔵は、ついに首領以下、勤王党の幹部を最後に立札したことになる。
かれらはつぎつぎに断罪され、首領武市半半太は、切腹。
慶応元年閏五月十一日、商会所広庭で行なわれた武市の切腹は、三文字に腹を割いて検視の役人でさえ目をみはるほどのみごとさであった。
が、その凶を作った以蔵は、知らない。なぜならばこの触宿鉄蔵だけは極刑の梟首になり、師匠の切腹のころは首だけの以蔵が、棚切河原の獄門台の上で風に吹かれていたからである。 |
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