司馬遼太郎著書
メニューへ
ここに付箋ここに付箋・・・
          ひとびとの跫音 下

■タカジは大正期の青春の典型

<本文から>
 タカジは、ある意味では、大正期の空気を青春のときに吸ったひとたちの典型のようなところがあった。かれは摩耶子と連れだって歩くときは、かならず腕を組んだ。かれのこの種の大正的モダニズムは、同時代人にとっても異和感があったろうし、げんに昭和九年、例の「赤旗」の記事の「長身隆鼻」といういや味をこめた物言いによってでも、かれがほぼどのような印象で見られがちであったかがわかる。
 むろん、昭和三十年においては、若いひとたちの間でさえ腕を組んで歩くという情景はまれであった。
 タカジの場合、それを嗜好としてやっているのではなく、思想としてやっていた。その思想も、日本で概念化されてきた共産主義者の思想というよりも、タカジ自身が、ひとりでねじり飴をこねるようにして作りあげた思想であった。かれには、コミュニズムでもって革命をおこした場合、ブルジョワ民主主義のもっともすぐれた遺産である個人の自由と解放を継承しなければ、革命された社会は単なる統制主義になるだけだという考え方があった。
 しかし日本にはブルジョワ民主主義の伝統がかぼそく、なおひとびとは中世以来の因襲の呪縛のなかにあり、個の自由も解放もなく、このままで社会主義に移行すれば統制による惨禍が甚しいものになる、というのがタカジの考えであり、摩耶子に対する場合、彼女の自由を尊重しつつ、しかもタカジ個人が摩耶子を愛していることを、屋の内外を問わず、自由に、しかも白日のもとで、その愛情の型を公衆の一人として示さねばならないというものであった。
 ところが、四歳のなぽりには、タカジのそういう理論がわからなかった。
 かれは突如あらわれた長身のおじさんが自分の父親であることがよくわからず、さらには、タカジ自身、帰宅すると、
 「君が、なぽりか。おれは、タカジだ」
 と、その流儀によってそのように自己紹介したために、なぽりにすれば父親という実感がいよいよ湧かなかった。その上、自分の母親と腕を組み、母親もまたその男と腕を組んでいるのはなんとも不満であった。いつもは外出のときは母親が手をつないでくれた。かれはその権利をタカジという人物から奪還すべくしつこく二人のあいだに割りこもうとし、そのつど頭上のタカジから大笑いの声が落ちてきた。
▲UP

■タカジと日本共産党

<本文から>
 前記一九六六年の批判論文は、この二十年近い以前のタカジの文章について、当然ながら手きびしい。「党の文化活動を天理教や『おどる宗教』の水準にまでひきさげるこの議論は、もっとも極端な大衆べっ視の議論であり、マルクス・レーニン主義の文化革命論とは縁もゆかりもないものである」という。
 この批判は、党という以前に、世間という感覚からしても、当然な論旨であった。世間においては、概念という型が必要なのである。たとえばこの批判論文にあるように、マルクス・レーニン主義の文化革命論は高く、概念として、天理教や「おどる宗教」は低劣なものであるかもしれない。
 ただ不幸なことに、タカジの思想的体質は、天理教や「おどる宗教」を低いとはどうにも思えないところにあった。かれは、人間のなにごとかについてそれらの宗教によってとらえられているなにごとかよりもさらに根元的な−言い方によっては未開・原始な−ところまで掘りぬいてしまうところがあり、地下ふかく掘りぬいてタカジ自身が感じた地熱のあつさを他人にむかって表現するのに、きわめて中途半端(根元の度合としては)な探さの天理教や「おどる宗教」を例として援用してしまっただけのことであった。世間的概念の型としては、例が卑俗すぎるであろう。
 しかし、かれの場合、卑俗にならざるをえない。
 タカジは、ぬきさしならないほどにマルクス・レーニン主義の徒であった。
 ただし、かれ自身が正直にいっていたように、マルクスの論文はむずかしかった。それよりもレーニンの論文のほうがかれにはわかりやすかった。その理由は、かれによれば「レーニンが、マルクス主義をロシアの現実にあてはめて発展させていたからだ」という。またレーニンの論文以上に毛沢東の論文が「わかりやすく親しみがもてるのは中国の現実にあてはめていたからだ」という。タカジが、天理教と「おどる宗教」をもちだしたのは、そのような地面掘りの作業のかれなりの作業感覚によるものであったが、しかしそれが日本文化の深部の泥であるのかどうかということになると、ひとによって反応はちがうかと思われる。
 「リズムは、人間を解放させるのだ」
 と、タカジが私にいったことがある。たしかに人間の現象のなかでそういう場面をしばしば見るが、私自身の個人的体験ではそういうぐあいにならず、リズムのなかに自分を置く舞踊的な才能がないばかりか、たとえそのまねごとをしても、自分の内部がだんだん白っぽくなるばかりで、奴隷的境涯から解放されてゆくような感じにはならないのである。
 しかし私は、そういうことを考えつづけているタカジという人間が好きであった。
 「Tさんがいっていたよ」
 と、あるとき、タカジはいった。Tさんは農業経済の学者で、中年からプロテスタントに入信し、聖書主義の立場をとって、社会運動者としても激しい活動をしていた。
 「聖書にキリストの言葉として書いてあるそうだ、真理は人間を自由にする、と」
 私は、こういう言葉が聖書にあるのかどうか、調べてもいないし、調べる気もない。もし書かれているとしても、キリストが言った「真理」とか 「自由」とかといったことばが、こんにちのそのことばと同じ語義または定義なのかどうかについて考える必要があるであろう。そういうあたり、タカジは極楽にいるひとのように安気で粗笨で陽気なところがあった。
 むろん、私はタカジのそういう極楽のようなところも好きであった。かれがわざわざ「キリストの言葉」について詮索しないのは、それは自分が掘整作業という思想的労働をつづけているときの、ちょっとした掛け声であればいいだけだ、とかれが思っていることを知っていたのである。考えるのはキリストでも毛沢東でもなく、かれ自身であった。考えぬけば必ず真理という岩盤があると信じていた。
 ただ繰りかえし思うことは、そういうタカジを、日本共産党という団体が、戦後二十一年も置いてくれたということである。
 ひとつには、獄中でながい歳月、節をまげなかったことについての、党内外の畏敬ということも、タカジに多少の「自由」を認めさせることにはなっていたにちがいない。
 いまひとつは−以下のような理由づけは、この根元的な自由の糞求者にとって好まないところであるにせよ−戦後八年間にわたって党につよい影響力をもった徳田球一の女婿であったということもあるかとおもわれる。一九六六・一二・二六「赤旗」論文においても、そのことがふれられている。「西沢は、こうしたかれの文化活動にたいする批判的意見にたいし、書記長であった徳田同志の生存中は同書記長との特殊な個人的関係を利用して、組織的行政的手段でこれをおさえようとした」とある。
▲UP

メニューへ


トップページへ