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<本文から>
タカジは、ある意味では、大正期の空気を青春のときに吸ったひとたちの典型のようなところがあった。かれは摩耶子と連れだって歩くときは、かならず腕を組んだ。かれのこの種の大正的モダニズムは、同時代人にとっても異和感があったろうし、げんに昭和九年、例の「赤旗」の記事の「長身隆鼻」といういや味をこめた物言いによってでも、かれがほぼどのような印象で見られがちであったかがわかる。
むろん、昭和三十年においては、若いひとたちの間でさえ腕を組んで歩くという情景はまれであった。
タカジの場合、それを嗜好としてやっているのではなく、思想としてやっていた。その思想も、日本で概念化されてきた共産主義者の思想というよりも、タカジ自身が、ひとりでねじり飴をこねるようにして作りあげた思想であった。かれには、コミュニズムでもって革命をおこした場合、ブルジョワ民主主義のもっともすぐれた遺産である個人の自由と解放を継承しなければ、革命された社会は単なる統制主義になるだけだという考え方があった。
しかし日本にはブルジョワ民主主義の伝統がかぼそく、なおひとびとは中世以来の因襲の呪縛のなかにあり、個の自由も解放もなく、このままで社会主義に移行すれば統制による惨禍が甚しいものになる、というのがタカジの考えであり、摩耶子に対する場合、彼女の自由を尊重しつつ、しかもタカジ個人が摩耶子を愛していることを、屋の内外を問わず、自由に、しかも白日のもとで、その愛情の型を公衆の一人として示さねばならないというものであった。
ところが、四歳のなぽりには、タカジのそういう理論がわからなかった。
かれは突如あらわれた長身のおじさんが自分の父親であることがよくわからず、さらには、タカジ自身、帰宅すると、
「君が、なぽりか。おれは、タカジだ」
と、その流儀によってそのように自己紹介したために、なぽりにすれば父親という実感がいよいよ湧かなかった。その上、自分の母親と腕を組み、母親もまたその男と腕を組んでいるのはなんとも不満であった。いつもは外出のときは母親が手をつないでくれた。かれはその権利をタカジという人物から奪還すべくしつこく二人のあいだに割りこもうとし、そのつど頭上のタカジから大笑いの声が落ちてきた。 |
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