司馬遼太郎著書
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          ひとびとの跫音 上

■律が看病しなければ子規はなかった

<本文から>
 子規は明治二十八年、日清戦争に記者として従軍し、滞在わずか一カ月で帰国の途につき、船中で喀血し、五月二十三日、神戸の県立病院に入院した。小康をえて八月二十五日、松山に帰り、湊町四丁目の母八重の実家である大原恒徳方に入って体をやすめるのだが、律は兄の異変におどろき、
 「兄が肺病になってしまってどうにもならぬ。看病のために一日おきに実家に帰らせてもらう」
 と、中学教師の夫にいったといわれる。これに対し夫がどう反応したのかわからないが、律は自分の宣言のとおりにした。やがて離婚となるのだが、律にとって結婚というものが適わなかったのか、それとも五尺足らずの平凡な小男が気に入らなかったのか、あるいは他に理由があったのか、よくわからない。要するに離別されたというよりも律のほうから積極的に婚家を去った。律には単純勁烈ともいうべき行動力があった。
 むろんこのことは子規にとっても運命的になる。
 松山での静養後、ほどなく根岸にもどった子規は、律と母親の八重に看病されつつ、物を考え、書き、あるいは来客に対して肉声で自分の思想を伝えるという暮しに入るのである。このことが七年つづく。三十六歳で死んだ子規の生涯にとってこの期間がなければ後世への影響と評価がちがったものになったろうし、それ以上に、影響力としての子規など存在しえたかどうか。そういう子規の活動という場のいっさいを律がととのえ、ささえた。第一、律という看病者がいなければ、子規のいのちが七年ももったかどうかわからない。
 子規の客観主義とそれに伴う写生の精神は文芸論という以上に徹底したもので、細い蝋燭のように燃えつきてゆく自分の生命をも平然と見つづけることができた。そのことはこの時期の子規の散文のすべてにあらわれているし、その苦痛に堪えすぎるためにときに、他の者に対し攻撃的
(たとえば中江兆民の『一年有半』に対する批判のように)にさえなった。律は子規という蝋燭の尻に針を突きとおしている燭台であったし、さらには単なる燭台ではなく、灯のまわりをたえず動きまわりつつ袖をかぎして風をふせぎつづけている病者の命守りでもあった。
 「律さん、可愛相じゃねや」
 という松山の縁族たちのつぶやきは、子規の晩年の作業を読んだり調べたりする後世の者たちにとっても、同様のことである。読み手の時代や風俗がどう変ろうとも、子規の晩年に隠顕する−襖のかげにいることのほうが多いが − 彼女の存在への痛みは感じられつづけるにちがいな。 
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■子規の家計

<本文から>
 子規は明治維新で没落した士族の家計のなかで育った。すでにのべたようにその家がかれの三歳のとき(明治二年)、家財もろともに焼け、さらに六歳(明治五年)のとき父隼太が死に、母八重は寡婦になるという悲運に見舞われている。以後、正岡家は旧藩の藩儒大原観山(八重の実父)に後見されることになるが、その観山も子規の九歳(明治八年)のときに病没する。不幸が相次いでいる。そのあと、正岡家は大原家の家督をついだ伯父恒徳(拓川の長兄)の後見をうけた。
 版籍奉還と廃藩置県は、士族の暮らしをうばう打撃をあたえたが、大政官政府は、全国の士族たちの反政府感情の洪水のなかに孤立しつつ、その乏しい財政をあげてかれらを救済する姿勢をとった。秩禄処分などがそうで、正岡家のような貧乏士族にもうるおうところがあった。松山藩の場合、明治八年、大小姓以上の家には家禄奉還についての一時金として千二百円、それ以下の身分(足軽など)の家には六百円という金が支給された。子規の家は、前者の千二百円のほうである。ここで明治十年ごろの賃銀の一例を、大阪硝子同業組合調査の賃銀表でみると、日給は上等職工で九銭でしかない。千二百円という金の嵩がいかに大きいものであったかがわかる。もっともこれは封建制との縁切り金で、以後、封禄のついた暮らしはできなくなる。
 子規の母八重は、これを実家の当主大原恒徳にあずけた。松山では主として士族奉還金の持ちよりで第五十二銀行というのができ、恒徳はここに役員としてつとめた。子規の家の千二百円は一部この銀行の株になり、他は預金されたはずである。
 ついでながら、松山で銀行と名のつくものができたのは明治十一年である。旧松山藩士族があつまって設立されたもので、各家の士族奉還金が持ちよられて株になったり預金になったりした。第五十二銀行がそれである。
 子規の家は、大原恒徳の手をへて出されてくるこの金を小出しにして食べていた。
 子規の東京での学資は、旧松山藩の奨学制度である常磐会から出ていた。ただし明治二十五年六月、大学国文科二年の学年試験に落第し、中退したことで、この支給は絶えた。
 中退を決意したとき、子規は陸掲南にたのみ、その主宰する日本新聞社に入社させてもらうことにした。入社の確定は、明治二十五年十一月中旬であった。
 「月俸十五円二御坐候」
と、故郷の伯父大原恒徳にあてた手紙のなかで書いている。この給料が当時としてもよほど安いものであったことは、この手紙のなかで、社長の掲南自身が、
−社の都合ではこれだけしか出せない。ただ来年になれば五円か十円昇給させることができる。それまでのあいだ、足らぬ分は自分(掲南)が何とかしょう。
 といっていることでも察せらる。
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