司馬遼太郎著書
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          八人との対話

■日露戦争まで高級軍人には本当の意味での愛国心はない

<本文から>
 司馬 当時の高級軍人には本当の意味での愛国心はない。これはちょっとまずいんじゃないか、という冷静な人もいたはずですが、それを公式にいうと出世がとまる。うかうかすると、殺される。亡国へころがってゆくときは、仕方がないものですね。
 これは何べんも言ってるので面映ゆいんですけどね。日本の軍隊でいえば、オックスフォードの日本学の先生で、ストーリーさんという古い先生がいらっしゃる。
 ストーリー先生は戦前小樽高商の英語の先生だったらしいんで、そのために日本文が読み書きできるだろうというので、インパールのころのむこう例の情報参謀になったんですね。非正規将校ですけど、おそらく日本兵が残して行った日記頬を読む役だったんだろうと思うんです。ドナルド・キーンさんのもうちょっと上の階級の役だったろうと思うんです。
 そのころの英軍の参謀の連中がみんないってた。日本軍の中で、いちばん頭の悪いのは参謀肩章吊ったやつだ。決まったことをかならずやってくるからやりやすい。だから、待ち受けて、逆のことをやればいいんだ。およそ、彼らは自分の頭で考えない。これは陸大の教育っていうのを『坂の上の雲』という小説を書いたときにずいぶん調べた。日露戦争までの陸大教育っていうのはわかりませんから、その後の陸大教育を調べたら、どうも型を覚えるだけのようですね。包囲して、中央を突破して、どうこうという型がある。その通りにやるんですね。
 そんなに愚劣な戦争をしているのに、何とか大崩壊を食い止めてるのは下士官の賢さだ。現場で形をつけてる。それと兵の順良さである、というのが英軍司令部の評判だったらしい。
 山本 いや、わたしたちなんかトラック使ってまして、部品がぜんぜんこないでしょう。もう何の輸送もできなくなるんですよね。
 そういうとき、つくづく器用だと思うのは兵隊です。たとえばラジエーターの水が漏り出した。すると、糠を入れろっていうわけですね。糠をポッと入れると、水が回ってるうちにある程度は詰まる。それで水漏れが止まる。そういう奇妙な発想と秘術がある。なにしろ日本の車っていうのは蒸気で動くのかって皮肉言われるぐらい、ラジエーターから湯気を出しても、ちゃんと走ってるんです、最後まで。それはみんな兵隊が直すんですよ。ちょこちょこ直しちゃう。ああいう器用さっていうのは、彼らにはないですね。われわれにしかないです。
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■西郷的な指導者

<本文から>
 編集部 西郷的な指導者は、日本史のなかでは他に見当たりませんか。
 司馬 ないようですね。日本人としては、明治のときにはじめて持ったんですね。それ以前に菅原道真にしても、豊臣秀音、源頼朝、平滑盛を考えても、あるいは松平定信を考えてもいっこうに西郷的じゃないでしょう。
 およそ、もっと機能的なんですよ。機能的というのは変な言葉ですけれども、自分を機能化できる人間ですね。
 編集部 それが、いわゆる大久保型人間。
 司馬 大久保ほど優れていないにしても、ですね。大久保利通という人は、やはりそれ以前の政治家とはくらべものにならないほど面白い。おそらく彼なんかは、ボディガードをいっぱいつけていたろうと想像できるけれども、じつはまったく逆なんですね。西郷のほうが用心ぶかくて、幕末のころからずっとボディガードをつけていた。
 維新後ある時期、大久保は家から馬車に乗って、太政官へ通う。その間に中江兆民という書生が待ちかまえていて、馬車にとびのってくるんです。おまえは何者だ、とたずねたら、土佐の者で中江篤介と申します、と答えるんですね。この一例を見ても、大久保がいかに身辺を無防備にしていたかがわかる。
 この話を、ついでに続けますと、大久保が土佐の者なら後藤象二郎がいるじゃないか、というと、中江は、私は大久保さんを見こんで話しにきたんだ。これかちは、フランスの思想っていうのが大事である、フランスはヨーロッパの中心だから、自分をパリにやってくれという。それじゃ行け、と大久保がいったのは、中江兆民を一目みただけでこれはちょっとしたやつだということがわかったんでしょうね。
 のちに中江が帰国してくる。口きき人が大久保ですから、まず大久保に報告に行く。そうすると、大久保は目をつぶって聞いている。ついでながら、中江は大久保が好きで、西郷にたいしては否定的な人でした。しかしこのときばかりは大久保に対し膜が立ったらしい。まるで、居眠りしているように見えた。
 このころの書生っていうのは天下無敵なところがあったんですな。大久保さん、いくらあなたが偉い心ちといって目をつぶっているのはけしからん、と太政官の偉い人にもちょっと言うところがある。すると、大久保は、いや目をあけていたら君の邪魔になるだろう、と。つまり、それは大久保が自分をよく知っているんですね。内務卿だし、おまけにあんな冷厳な人間でしょう。「北海ノ氷山ノ如シ」といわれたひとですから、目をあけてるとおたおたしていえなくなるだろう、と中江に対し斟酌していっているんです。変な話だけど。(笑)
 山本 なるほどねえ。
 司馬 彼はわれわれの日本史が持ちえた数人の政治家のうちの一人ですね。ああいう人間というものがどうやってできたのかとなると、風土性とも関係がなくて、どうもただひとつの天才として存在したと理解するしかない。−大久保には、はっきりとした青写真がありますね。
 山本 あります。ちゃんと自分に適合したモデルがあり、このモデルにどうやって到達すべきかという方法論もある。
 司馬 その青写真とは、つまり歴史というのは長いんだ、と。しかし、われわれの国は非常に遅れていて、たとえばヨーロッパを模倣するにしても、せいぜいドイツぐらいだろう。そういう限界というものを、きちっと知っているんですね。いきなりフランスというはげしい社会には行かない。将来はフランスの方向に進んでもいい。おそらくそう行くだろう。しかしながら、自分が建てられる国というのは、せいぜいドイツぐらいだろうと。それを知ってるということが、何ともいえずすごいっていう感じですね。
 ここから見たら、西郷さんは高士だけれどもね。ぼくらが父親や伯父さんに持つには大久保より西郷さんを持ちたいけれども・・・。できれば、中学校の校長には西郷さんを持ちたいですね。
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■自分は阿呆であるという西郷隆盛

<本文から>
司馬 要するに、「自分は阿呆である」ということをはっきり自分にもいい聞かせ、世間にも認めさせる。そしてそのなかに、ひとつのユーモアが成立して、利口なのほお前たちであるということで成立する政治というのがあるでしょう。おれは阿呆であるといったときに、無限の愛嬬というのが出てくる。
 話は飛びますけれども、家康みたいな賢い人でも、その家来たちから見れば、やっぱり「阿呆」だったんでしょうね。あの男は阿呆でどうしようもないから、おれがいなければだめなんだというところが、三河武士にもあったようだと旧幕臣の山路愛山は書いています。それが、どうも日本型の政治家で、家康のようにそういう部分が少ない人にでも感じられる。これは、どうも日本では大変な要素らしい。
 さっきの「なぜかといいますと」というのは、ここにかかります。(笑)
 山本 ちょうど、ヨーロッパの逆みたいな気がするんですよ。
 というのは、日本では中心というのはあっちゃいけない。空みたいになってなくちゃいけないんですよ。その中心の空みたいなところに、いろんな優秀な人間が集まっている。つまり、全体に枠みたいなのがありまして、枠があるんだから真なん中が抜けてなくちゃいけない。真な中があんまり充実してちゃ、なにもやっていけないから、枠だけ決めておいてなかは融通無碍にする。
 ヨーロッパの組織を見ていますと、逆に中心というものがきちんとなくちゃいけないんですね。それに対する形で決めていかないといけない。こういう感じがするんです。
 司馬 なるほど。
 山本 それがどこから出てきたのか、ちょっとわからないんですがね。
 司馬 わりあい重要なことですね。

 盆地文化論
 山本 その点に関して宗教史的にいうと先方は一神論的世界、日本は汎神論的世界ということになりますか。神という一定概念の枠に入っていれば、八百万いてもいいわけで、みんなそれに包みこまれてしまう。西郷はいわば人格的な枠みたいな人で、中は空ですから、右も左も進歩も保守もみんなそこへ入ってしまって、結構一人格で茫洋としていられるわけでしょう。
 なぜこうなったのか、といえば、日本という国はやっぱり盆地が中心で生きてきたんじゃないか、という気がするんです。盆地文化というのがあるんじゃないか、砂漠とも平原とも違った形の・・・。要するに、まずまわりが決められてしまっているでしょう。
 司馬 なるほど・・・。面白いな、それは。
 山本 それで、このなかでしか生きていけない、という発想があるんですな。みんなこのなかにいなくちゃならないんだ、と思ってしまう。
 いちばん肯い信仰が山岳信仰だとすれば、まわりを神々に取りかこまれ、その中でその山からの水で生活していまして、風土的に見ても汎神論的になるわけですね。みんな枠という意識ができている。粋が固定していますから、なかはあまりかちんとしていたら因るんじゃないですかね、融通無碍にしておかないと。
 司馬 「てげてげにしておく」んですね。
 山本 中心をきちんとして、全部これにのっとってやるというのはたいへんに窮屈だ。粋が決まっていて崩れないんだから、なかはふわふわにしておけ−そんな感じがありますよ、何を見ても。
 司馬 なるほどねえ・・・。
 これは大きな見方からすれば非常に小さな話なんですけれども、太平洋戦争中のアメリカ軍の准将以上というのは、最前線にとび出して行っていろいろ指示していますね。それで弾にあたって死んだりしている。
 山本 戦場ばかりでなく、作業をやっていてもそうでしたよ。戦後に米軍が収容所なんかつくっているのを見ましたが、むこうは中佐あたりが出てきて、ちゃんと杭を掘る穴まで一つ一つ指示していく。
 日本では、あんなことは絶対やらないです。指示もすべて「適時、適当にやれ」ですな。何をきいても「テキトウに」しかいわないのでテキトウ大尉なんて汚名の中隊長もいまして、人望がありました。「コマカイ」といわれたら、すぐ嫌われます。(笑)
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■長州人のリアリズム

<本文から>
 司馬 この話をつづけますと、長州藩というのは会計が複式簿記ふうになってましてね。たとえば、干拓をする。瀬戸内海はわりあい遠浅ですから、それが可能なんです。歴史的なことでいえば、関ケ原で長州藩は三十六万九千右にへった。それまでは中国地方のほとんどを持っていた藩なのに、いまの山口県ひとつに押しこめられたわけです。藩士の数は変わらないものだから何とかして食わせなきゃならない。それで、徐々に干拓事業が行なわれる。
 江戸初期ではまだ農村経済の連続ですから、百姓がどこかから土を持ってきて海ヘジャブンと入れて、砂地の如きものをつくる。これが中期以後になると、商品経済が成立する。そして、資本の集中が行なわれ、資本を持ったものが請負うから、干拓は猛烈に進む。そのために、幕末では米収入だけで百万石といわれていましたね。
 長州藩は物産を大坂の市へ持って行って、そこで換金された現金を特別会計として年度の会計に入れなかった。そして、藩主というのは君臨すれども統治せずというんですから、その金を積み立て、撫育金とした。撫育金そのものは、ほんらい因った藩士とか飢饉があったときに百姓にやったり、あるいは特別の教育を行なわなきゃならないときに使うつもりで、撫育金会計というのをつくっていたんです。この思想は、非常に近代的なものだと思います。
 それで結局、千両箱は貯まる一方なんですよ。そのうちに幕末になる。桂小五郎らが祇園で使ったのは、この撫育金だったわけです。そして、高杉晋作がグラバーからたくさんの兵器を買う・軍艦を買い、そして最後はその兵器で幕長戦争をやる。さらに武力的に四カ国艦隊に敗れたときに、潜在的にあった合理主義がにわかに顕在化しますね。
 山本 そうですね。
 司馬 長州藩のような貨幣経済にめざめた藩の連中が、江戸をみたときにいったい何をしているんだという気持になるのは当然なんです。こういうリアリズムは長州人にはありましたよ。
 たしかに長州人には、権力意識とかそういったイヤらしいものがあることは事実です。山県とか、佐藤栄作さんとか、肯信介さ人で象徴されるような長州人イメージというのはありますけれども、彼らがもつ合理主義を見落としちゃダメですね。
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■教育者としての岡子規と吉田松陰の二人

<本文から>
司馬 きょうの話は、正岡子規と吉田松陰の二人をとりあげて、教育者としての二人を少し考えてみようということがあるわけですが、この二人は、一見、歴史の中では別分野にすんでいて、他人です。しかしつきあわせてゆくと非常に似たところがあって、そのうちの失やな特徴は、一自分が教育している相手を自分の教え子だとは思っていなかったということですね。
 大江 友人だと思っている……。
 司馬 友人、同輩だと思っている。そして、これも大きな共通の特徴ですが、松陰も子規も相手に言うべき大事なことは、手紙で、文章に書いて伝えようとしています。それが文章語、つまり標準語で、それでないと意を達し得ないと考えていたんでしょう。
 松陰の場合ですと、松下村塾というのは入学試験なしで誰でも入れるし、主として初等教育をやる、寺子屋に毛の生えたようなところです。ちゃんとしたお侍は藩の明倫館へ行くわけですから、当時身分の低い足軽の子や八古屋とか骨董屋の子が松下村塾に行くわけです。当然、箸にも棒にもかからない不良少年なんかもいたんです。寅次郎(松陰)という青年は、そういう者に対しても、三日ほど休んでいるとちゃんと手紙を出してやる。「自分は君に才能があると思っているけれども、人はあまりそういっていない。それは君自身ボその才能を磨いていないからだ」と、そういう手紙を書く。これは方言ではちょっと言いにくいでしょうね。日本語はなんといっても文章語の方が先行していろんなことを表現できるようになりましたから。子規もそうですね。
 大江 そうです。子規は両方を用いている点がおもしろいと思います。たとえば日清戦争に従軍することになって、そこで世界がどのように動いているか知りたいと思う。それがどのような力を自分の文学に与えるかわからないけれども、ともかくも進んで行く。そのとき、自分の友人であり弟子でもある虚子を呼び出して、自分は行ってくると言うわけですが、そういう場合は、彼はむしろ意識してのように方言で喋るわけですね。おなじ内容から出て来た人間ということもあって、意識して松山弁で話します。と同時に、同じ内容のことを手紙に書いて、それを持って帰って碧梧桐と一緒に読んでくれと手渡しますね。その手紙は漢文の読み↑し文のスタイルの立派な文章で、つまりは学問の言葉で書いてありますQどうもこれは子規の二重戦略のような気がします。感情的に親しみやすい方言だけではどこか心もとない。もう一度文章語で念を押そうという気持が働いているのではないでしょうか。
 司馬 つまり、方言のロ語では明晰にならないというわけですね。
 大江 そうじゃないでしょうか。自分自身の例を考えてみると、田舎の方言で育った人間が、たとえば東京の標準語あるいはフランス語や英語といったいろんな言葉のあいだを動きまわっているという気持をいまも持っています。子規にしても、そういう方言が、人間としてのありようの根本にあって生活しているわけでしょう。漢文を学び、漢文を書き、読み下し文を習い、それを書く方法を習いというふうにして、自分のふだんの言葉とは違ったものを学んでいく。方言的な話し方を賂固として持っていながら、新しい書き言葉を学ぶについては徹底していて、その徹底ぶりがまさに彼の学問の在り方だと思うんですが…。これは子規だけでなく、吉田松陰もそうですね。
 そして、やがていい教育者になる人は、こういうふうに子どものときから勉強するんだろうな。ということを、僕は子親にも松陰にも感じるんです。その一つとして、体系として学問を学ばないということがあるんじゃないか。これはもちろん反論がありうるかと思いますけれども。子規にしても松陰にしても、他人の体系を学ぶのではなく、できるだけ短い期間に、全体を見通せる自分の学問を作らなきゃならないと思っている。それを作るためには、本格的に他人の体系を勉強していくと何十年とかかるわけですから、それはできない。なるたけ短い期間に、世界の見通し、あるいは現実の見通しといってもいいんですが、学問の見通しそのものを自分で作ろうとした。そのための方法として、本を読むにしても、具体的に自分の肥やしにするという意図があって、どんどん本を筆写していった。
 子規は二十歳前後に、さかんに他人の本を書き写していますね。松陰も、たとえば彼が二十一歳で書いた『西遊口記』を見ますと、本を書き写す字いうことが何度も出てきます。この書き写すということは、他人の学問を他人の体系として拒離をおいて尊敬するんじゃなくて、自分の体系の中に取り込もうとしたための方針だったと思うんです。そしてそれを若い人にすぐさま教えていく。学問の大きい体系、あるいは大きい体系の一部分を、八十歳になって自分のものにするというのではなく、二十代の前半のうちに自分として納得できる自分の体系のようなものを作って、それを人に教えていくという態度を、松陰も子規も持っていたように思うんです。
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■鎌倉の人の土地に対する一所懸命の姿勢

<本文から>
司馬 鎌倉の人の土地に対する一所懸命の姿勢がなかったら、日本人というのは成立してませんよ。ともかく庶民が土地の所有権を公家国家に対して政治的に主張しぬいたというのは、中国にも朝鮮にもありませんね。つまりあのまま公家政治が続いてたら、われわれは、十九世紀に入って植民地になっていたかもしれない。
 永井 よくも悪くも、日本人の精神に大きな影響を与えてますね。御恩と奉公という言葉がいまだに生きてる感じがある。余談ですが、御恩がなくても奉公を専一にすべきだという形の武士道が出てくるのは、徳川になってからです。徳川家には手柄をたてても分けてやる余分の土地がない、お前に働いただけやるぞと大見得きれなくなっている。それ以来、恩賞なんか考えずに奉公するのが武士道だとすり替えられてしまいますが、鎌倉の武士の論理というのは絶対そうじゃない。
 司馬 もらおうという以前に、働いたからこれはおれの土地だ、おれが開墾したからおれの土地だ、そうでない世の中はおかしいという、実に明快なものが鎌倉にはある。
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