司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          播磨灘物語4

■信長は封建制を継承しようとした

<本文から>
 秀吉は考えこんだ。
 (織田家は、このきい、毛利氏をその傘下の大名として組み入れてしまったほうがいい)
 秀吉の思想からいえば、そうなる。
 が、かれの、主人の織田信長はちがうであろう。
 秀吉のこのときの(このときばかりでなく、偶然の契機からかれ自身が自分の天下構想を実現しうる立場になるのだが)その天下構想では、全国にある既存の大名に対しては、かれらが頭をさげてくるかぎりにおいてはこれを家来にし、その既存の封地をみとめ、その上に政権を成立きせた。このためのちの豊臣政権の直轄領は二百万石程度であり、そのあとの徳川幕府の直轄領が四百万石といわれ、または六百万石、あるいは計算の仕方によって譜代大名の所領を入れ、八百万石ともいわれるのにうらべ、段ちがいにすくない。もっとも秀吉は徳川幕府とはちがい、財政上の思想がちがっていた。秀吉はその収入を米穀だけに依存せず、直轄貿易をさかんにすることで直轄領のすくなさを大いにおぎなってはいた。しかし直轄領のすくなかった豊臣家の欠陥は、旗本の兵力がすくないということであった。このことが、わずか二代で滅亡したことの原因の一つになっているといっていい。
 織田信長が、自分の天下構想をどのように考えていたか、本当のところはよくわからない。
 わずかな材料から不安定な想像をふくらませるとすれば、信長はもし天下をとった場合、天下の半分以上を直轄領にし、そこに郡県制度にちか小ものを布き、他の半分については功臣や一族を大名として封じ、その部分では室町以来の封建制を継承しょうと考えていたのではなかろうか。
 証拠はないが、思考の材料はある。
 信長を年表的にみればその活動は永禄三年(一五六〇)桶狭間に今川義元を討って以来、はげしく発起するが、以後十三年間その士に対し厳密な意味での封建制を布いていない観がある。将士に百石とか二宮石とかの知行はあたえたであろうが、知行地の村落地領にはさせず、公領土は信長自身の代官が行政し、租税も信長自身の直轄機関が一括徴収し、諸士には歳米で報酬をあたえたようであり、誤差を押していうとすれば、給料制であったようである。秀吉もそのようにして成長し、かれの部下はほとんどが秀吉の家来ではなく、信長から借りた軍勢であった。
 秀吉たち主だつ者が大名に封ぜられたのは天正元年(一五七三)で、つまり信長はこのときから封建制を併用しているのである。これを天下規模に拡大すれば、郡県・封建制の二本建の体制が想像できるのではないか。

■官兵衛は信長の死という危機を羽柴の天下取りに方向づける

<本文から>
秀吉は信長ただ一人の手でできあがった。信長が息を吹きかけて、いわば化性が幻影をつくるようにこんにちの秀吉をつくりあげたのだが、その信長が死ねば秀吉も存在そのものが消えざるをえないような虚脱の思いをこの男はもったのであろう。
すくなくとも、官兵衛はそう見た。
 (この男は、このままでは自滅する)
 と、おもった。
 なにしろ大軍を正面にひかえているだけでも尋常の事態ではないのに、羽柴軍といっても、その多くは信長から借りた織田家の直参部隊であった。きらには信長という保証によって味方にころがりこんだ岡山の字書多勢である。信長が死んだとなれば味方が蜂起して秀吉は孤立せぬともかぎらない。
 この羽柴軍のすべての矛盾と弱味を、敗亡の危機から救いだすものは、軍中の諸将に暗黙裏の希望をわきあがらせることであった。
 ―あるいは、この機に乗ずれば天下がとれるのではないか。
 ということであった。
 羽柴秀吉を押し立ててかれに天下をとらせれば自分たちも一団一城の大名になれるのではないかという、自分の人生に対する諸将の投機的気分をあおれば、それによって全軍崩壊の危機を一気に消滅できもというのが官兵衛の思案だった。この期になればそれ以外にない、と官兵衛はおもった。
 が、それには、士卒の希望の源泉である羽柴秀吉そのひとがその気になってくれねばどうにも ならないのである。一座の諸将は、沈黙している。たれの表情も暗く濁り、両眼にカがなく、ほのぐらい灯火のもとで、ぼろぎれのようにうずくまっている。

■信長の後継となってから秀吉は官兵衛の必要がなくなる

<本文から>
 この天正十二年は、秀吉が織田氏の版図を相続することが完了し、まだ関東、四国、九州がその版図に属しないとはいえ、日本の中央政権であることが確立した年である。
 この年、官兵衛は播州十二郡のうち、宍栗郡一つをもらった。宍粟郡というのはほとんどが山中で、主な渓流が五つか六つあり、そのわずかな流域が耕されているにすぎない。主たる郷村は、主城のある山崎のほかに、安志、伊和、染河内、広瀬、石保、高家、狛野、土方、千種などがあるが、ゆたかな播州平野とはちがい、稗や穀などを主食している村が多い。官兵衛はなお旧主家の小寺氏ほどにもその領地は大きくなく、むろん大名とまではいえない。
 官兵衛は、この当時草奔から堀起した者たちの共通の気持として、当然ながら天下に志があった。しかしながら、播州宍粟郡一郡という勢力では、それを望むべくもない。官兵衛の器オをもっともよく知る秀吉は、あるいは官兵衛に勢力を付加することを、ひそかにおそれていたのかもしれない。
 (天運が去ったのだ)
 と官兵衛もおもっていたであろう。
 天運というのは何百年に一度来るものであり、秀吉はその運に乗った。運に乗るための条件を秀吉は豊富に持っていた。
 官兵衛は自分の天下構想を秀吉という素材によってたとえ一分でも描きえたことに満足すべきだと思っていたようであり、それ以上の欲望、たとえば領土欲をもつことをみずから禁じていたようでもあった。かれほど欲を面に見せなかった男もめずらしいといってよかった。
 こののち秀吉は四国を平定し、九州に入ってこれを勘定し、ついで関東の小田原城を攻めて征服した。官兵衛はつねにこれに従ったが、もはや重大なことで秀吉の片腕になるということはなかった。秀吉にとって官兵衛をとくに必要とする段階はおわったのである。

■秀吉が官兵衛を恐れたというエピソード

<本文から>
 官兵衛が、豊臣政権を樹立きせるための最大の功労者であるということは、豊臣家の諸大名がよく知っていた。しかしその大功にふさわしくない少禄しかもらっていないということで、ひとびとは奇異を感じた。それやこれやで、世間は官兵衛についてとやかく言うことが多かった。官兵衛はそういうことがわずらわしくて隠居を申し出た、とも世間はいった。
 いまひとつ、以下は伝説化されたほどに有名な話になったが、世間はそれこそ理由だとして信じたむきのはなしがある。
 あるとき、秀吉は殿中の側近たちをあつめて夜ばなしをした。
 「わしが死んだら、天下をとる者はたれか」
 と、秀吉は一同に質問し、どうせ戯ればなしである、遠慮をせずにいえ、といった。
 話は、大諸侯の力量についての品評のようになったが、出てくる名は、徳川家康、前田利家、毛利輝元といったような大身代のもちぬしばかりであった。それらの名前をきいても秀吉はうなずかず、やがて、
 「−くゎんが」
 取るわい、といった。官兵衛のことである。
 一座の者が意外に思い、黒田どのの身上がわずか十二万石そこそこでございます、それでは天下などとても…と口々にいった。十二万石そこそこでは自分自身の兵力が二千五百人ほどであり、二千五百の兵力で何をすることもできない。
 「それはちがう」
 秀吉は、官兵衛という男の器才がいかに玄妙なものかを語り、自分はかれの意見でどれほどたすけられたかわからない、といった。
 この話を官兵衛があとできき、秀吉が自分を警戒していると察して、魚が物影を見て身をひるがえすようにして隠居願いを出した、という説も当時おこなわれた。

■関ケ原時期での如水の幻の九州制圧

<本文から>
 黒田如水の生涯は、関ケ原の前夜、二カ月ほどのあいだに凝縮きれるのではないか。
 かれは上方における石田三成のうごきをみて、大乱のおこるのを予測した。豊臣政権はふたつに分裂し、天下は混乱して戦乱は一年以上つづくのではないかとみた。
 如水は肚の奥底では、一方の家康を軽蔑している。いま一方の三成の器量などにいたっては、評価もしていなかった。この両者が上方で格闘しているあいだに、如水は第三勢力を九州で急造し、九州を斬りしたがえ、その兵をもって京に攻めのぼって大ばくちを打とうと考えていた。青雲の志を、人生の最後の機会で遂げようとしたといっていい。ただし、この時期、当主の長政は家康に従って関東に従軍している。
 これにつき、後日、如水は長政に語った。
 「お前には気の毒だが、あのときわしはお前を捨て殺しにして勝負へせり出すつもりであったわい」
 と、おどけているのでもない、ふしぎな笑顔とともに、つぶやいたことがある。如水の本音であったであろう。
 如水は風雲がようやく荒れ気味になっているときに、大坂から豊前中津の城下までのあいだに、通信組織をつくった。早舟を大坂と備後の鞆と周防の上関につないでおき、急使をリレー式に運ばせた。
(中略)
たちまちあつまってきた者は、農民もおれば主家をうしなった牢人もおり、隠居していてあそんでいる老人もおれば、職人から炭焼きに至るまで雑多であった。
 如水は天守閣から数多の銭箱をおろさせ、それを大書院の座敷いっぱいにぶちまけさせた。大小の金銀がきらめいて、まばゆいばかりである。
 如水はその座敷にすわり、家来に命じ、応募してきた者に配分させた。馬乗り身分の者には銀三百匁、歩行の者には銀百匁、足軽には銀十匁ずつをあたえた。応募者は順よくならんでいる。なかには二、三度ならんで、余計にとる者もいたが、如水は笑って黙認した。そのいちいちに、声をかけた。みな如水の風貌に接してふるい立っただけでなく、金銀のおびただしさに驚き、これなら日本国も買えるだろう、といって、大いに士気があがった。
 ときに、大友義統という者が、出現する。
 豊後の古い守護大名の裔で、高名な宗麟の子である。義統は秀吉に所領を没収されて毛利氏にあずけられていたのが、石田方がこれを利用し、兵卒や武具、軍資金をあたて海路豊後大畠に入らせた。たちまちに勢いを得て速見郡立石に旗をひるがえした。
 如水はこれを味方にして兵力にしようとおもい、しばしば勧降したが義統がきかなかったため、ついに軍を発した。新徴募を主力にしてその数九千である。これを八団にわけた。
 途中、諸城をくだしつつ進み、九月十三日、豊後石垣に達し、この野で大会戦を演じ、大いに勝った。義統は頭をまるめて軍門にくだった。
 この戦勝のあと、如水の軍は、地から湧き出たように人数がふえ、一万三千になった。九州最大の軍団といってよく、豊別、豊後の小城は多くは降参するか、この大軍のために踏みくだかれた。軍を発してからわずか十日あまりのことで、信じられぬほどの成功といっていい。
 「あとは、九州で四つか」
 と、如水は勘定した。小倉の毛利吉成、久留米の小早川秀包、柳川の立花氏、それに薩摩の島津氏である。
 如水は東西に駈け、南北に走るうちに、かれの予想をくつがえす事態がおこった。
 「・・・九月十五日、美濃関ケ原において」
 という報であった。東西三十万近い軍勢が決戦して石田方は敗北した、という。如水が、瀬戸内海の浦々に設けておいた早船による逓伝通信が、このしらせをもたらしたのである。
 如水はこのとき、豊後富来城という垣見氏の城をかこんでいるときであった。陣中でこの報をきいたとき、不快とも何とも、名状しがたい表情をし、しばらくだまっていた。
(了ったか)
 という想いであったであろう。如水は中央における東西の激突が、美濃関ケ原においてわずか一日で終了するとは思ってもいなかった。了った、という口惜しきは、如水という存在の何事かも同時に了ったことと重なっている。
 如水は、その天才的な才幹を秀吉という他人の運命を画布にして描いてきた。一種の芸術的欲求をそれで充足しえたということで如水は官兵衛の昔から十分吹っきれてはいたが、しかしそれを、かれの晩年に、自分自身を賭けることで使ってみようとした。だが、無駄働きに了った。
うことはなかった。秀吉にとって官兵衛をとくに必要とする段階はおわったのである。

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