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<本文から>
秀吉は考えこんだ。
(織田家は、このきい、毛利氏をその傘下の大名として組み入れてしまったほうがいい)
秀吉の思想からいえば、そうなる。
が、かれの、主人の織田信長はちがうであろう。
秀吉のこのときの(このときばかりでなく、偶然の契機からかれ自身が自分の天下構想を実現しうる立場になるのだが)その天下構想では、全国にある既存の大名に対しては、かれらが頭をさげてくるかぎりにおいてはこれを家来にし、その既存の封地をみとめ、その上に政権を成立きせた。このためのちの豊臣政権の直轄領は二百万石程度であり、そのあとの徳川幕府の直轄領が四百万石といわれ、または六百万石、あるいは計算の仕方によって譜代大名の所領を入れ、八百万石ともいわれるのにうらべ、段ちがいにすくない。もっとも秀吉は徳川幕府とはちがい、財政上の思想がちがっていた。秀吉はその収入を米穀だけに依存せず、直轄貿易をさかんにすることで直轄領のすくなさを大いにおぎなってはいた。しかし直轄領のすくなかった豊臣家の欠陥は、旗本の兵力がすくないということであった。このことが、わずか二代で滅亡したことの原因の一つになっているといっていい。
織田信長が、自分の天下構想をどのように考えていたか、本当のところはよくわからない。
わずかな材料から不安定な想像をふくらませるとすれば、信長はもし天下をとった場合、天下の半分以上を直轄領にし、そこに郡県制度にちか小ものを布き、他の半分については功臣や一族を大名として封じ、その部分では室町以来の封建制を継承しょうと考えていたのではなかろうか。
証拠はないが、思考の材料はある。
信長を年表的にみればその活動は永禄三年(一五六〇)桶狭間に今川義元を討って以来、はげしく発起するが、以後十三年間その士に対し厳密な意味での封建制を布いていない観がある。将士に百石とか二宮石とかの知行はあたえたであろうが、知行地の村落地領にはさせず、公領土は信長自身の代官が行政し、租税も信長自身の直轄機関が一括徴収し、諸士には歳米で報酬をあたえたようであり、誤差を押していうとすれば、給料制であったようである。秀吉もそのようにして成長し、かれの部下はほとんどが秀吉の家来ではなく、信長から借りた軍勢であった。
秀吉たち主だつ者が大名に封ぜられたのは天正元年(一五七三)で、つまり信長はこのときから封建制を併用しているのである。これを天下規模に拡大すれば、郡県・封建制の二本建の体制が想像できるのではないか。 |
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