司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          播磨灘物語3

■官兵衛は縦横の策士であり道義論者でもあった

<本文から>
  このあたりが官兵衛の妙なところだったかもしれない。かれは諸方の大名や蒙傑たちに利害を説く縦横の策士であるという点では、功利主義者だった。ところが自分一個のぎりぎりの進退の瀬戸際に立つと、意外にも世間の法とはちがった道義論を持ち出したのである。
 この一点で、官兵衛がこの時代における、抜きん出た知識人だったといえるかもしれない。
 人間の行動の善悪正邪を決める儒教というものが武家社会に定着して江戸的な武士的な道徳になるのは、江戸中期になってからである。
 戦国期においては、そうではない。
 戦場において自己の名誉を命がけで表現したいという道徳に似た共通のなにかを士卒たちは持っているものの、世を動かしているものは功利主義であり、善悪正邪論というものはなく、何が利益で何が損かということしかない。
 官兵衛も、たしかにその徒ではあったが、一面黒田家の家学のようなものが、かれ自身の行動を律していたということは、時代の状況と思い合わせれば、奇妙な存在というほかない。
「私には、主家を裏切ることはできない」
 と、官兵衛はいった。
 このことばは、家臣たちを驚かした。黒田家は、大名とまではゆかなくても小名のうちの力ある存在ではないか。大名や小名は利のあるところへ離合集散するのが当然なのである。
 官兵衛のこの倫理観は、かれの家臣に対する支配者としての倫理観と、背中合わせになっていて黒田家武士団は決して、その主に背くな、ということを官兵衛はこれ以前も以後も口に出していったことがないが、かれはそれを自分の行動で示そうとした。このため、生死を賭けてみようと思った。
 むろん、彼がいまからやろうとする行動は倫理的動機だけではない。説得すればかならず成功するという自己への過信が動機の主たるものであったであろう。

■ミイラのような官兵衛を牢から救出

<本文から>
 これよりさき、官兵衛の家来の栗山善助は、伊丹に潜伏して機会をうかがっていた。
 城下の町が寄手に占領されたとき、善助は寄手の主だつ者のあいだを駈けまわって、
 −自分の主人の小寺官兵衛という者が、城内の牢に囚われている。
 と、便宜をはからってもらえるように頼んでみたが、小寺官兵衛などという名前を知っている者は十人に一人であった。
「七兵衛尉(織田信澄)どのの手につかれよ」
 と、はからってくれる者がいて、信長の甥の部隊にまじり、この部隊が城内に入るとともに、先を走って城内のあちこちを通りすぎた。やがて西北のすみの池と竹やぶのあるあたりにたどりついた。牢番は逃げ失せてしまっている。
 栗山は錠をこわしつつ、
 「殿」
 と、薄暗い牢内へ声をかけた。
 やがて、戸がひらいた。栗山は、大力の男を一人傭っていた。この男とともに牢内に片身を入れ、官兵衛の体をそとへ引き出そうとした。小箱からこわれ物をとりだすようにむずかしい作業だった。
 官兵衛は、髪は抜け落ち、四肢は、ミイラのように硬くなっていて、体の自由がまったくきかなかった。栗山はともかくも官兵衛を抱きあげ、大力の男の背に縛りつけた。
 そのあといったん大手門のそとに出した。
 門外に、織田信澄の本営がある。
 信澄は信長の弟信行の子とはいえ、信行が若いころ信長を除こうとしたという疑いもあったので、信澄はかならずしも織田家で重んぜられている人物でもない。信長の命令で津田姓を継ぎ、またおなじく信長の命令で明智光秀の娘をめとり、この時期、近江大溝の領主になっている。
 後年、光秀の乱のとき、信澄は大坂にいた。が、信長の三男信孝から光秀との通謀をうたがわれ、殺された。
 官兵衛は、この信澄とは面識がない。しかし栗山善助としては、官兵衛が長く伊丹の城にとらわれていていま脱出した、という事実を、誰かに公認しておいてもらわねばならない。
 それには、信澄がちょうどよかった。
 栗山は、官兵衛を広板にのせた。

■信長は官兵衛が裏切ったとし嫡男を殺そうとしたが竹中半兵衛が助けていた

<本文から>
 そういう繊田信澄が、
「小寺官兵衛という者が、お目通りを得たいと申しております」
 という注進をうけた。
 当然、信澄の左右が、その注進者に応対した。幸い、信澄のまわりに官兵衛についてくわしく知っている者がいて、
「播州の姫路なる村に、小城をひとつ持っている男でございます」
 と、あらましのことを話した。
 去年、官兵衛が荒木村重を説得しにゆくといって伊丹の城に入ったまま消息を絶ったこと、村重に同調したといわれていることなどを信澄に言い、それがために人質である嫡子が信長の命で殺されたということまで付け加えた。
「家来の栗山善助なる者が申しまするに」
 と、注進者がいった。
官兵衛は村重に同調したどころか、一年有余というもの、牢にほうりこまれて半死半生になっている、というのである。
 やがて、広根にのせられて、官兵衛が運ばれてきた。
 (これが、人か)
 と、織田信澄が言葉をうしなったほどに、凄惨な姿だった。髪は脱け落ち、肉はそげ落ち、皮膚が干からびている。しかも四肢がこわばったままあおむけに臥かきれている姿は、夏の陽ざかりの道に干からびてころがっている昆虫の死骸のようで信澄の左右の者も、思わず目をそむけた。
 節義という言葉は、江戸期の武士の倫理用語になったが、この時代の武士には、あまり使われることがない。しかし、それに該当する倫理的感情はあった。たれもが、官兵衛のすきまじいばかりの節義に感動せざるをえない。
 それにつけても、信澄やその左右のたれの脳裏にも浮かんだのは、官兵衛がこれほどまで苦節をつらぬいたのに、去年、信長が、とっさの先入主で官兵衛が裏切ったと見、その嫡子を殺きせてしまったということだった。
 「口がきけるか」
 と、信澄はいった。
 官兵衛は、うなずいた。
 信澄は官兵衛のそばに寄り、早く体をもとどおりにせよ、上様へは私のほうから申しあげておく、播州の筑前守(秀吉)のほうにも私のほうから使いを出しておこう、といった。
 「このあたりなら、有馬が近い。有馬の湯で湯治をすればどうか」
 栗山善助もそのように考えていて、そのことを官兵衛にも話してある。ともかくも硬わばった手足の筋をほぐしてからでなければ、どうにもならない。
 このあと、官兵衛は有馬にむかった。
 栗山が城下で人をやとい、広板にのせたままこの主人を運んだのである。
 信長は、京にいた。
 官兵衛についての報が伊丹から注進されたとき、信長はとっさに「そうか」と砲え、そのあと臍を噛むような表情になり、
 −まずい。
 と、いった。『黒田家譜』では、「官兵衛に対面すべき面目なし」といったという。
 また、『黒田家譜』では、このときかねて竹中半兵衛が官兵衛の子の松寿をかくまって殺さなかったということをきき、「御感悦、浅からざりしとや」と書かれている。すでにこの秘密は、信長の左右の者の知るところになっていたのだろうか。
 竹中半兵衛は、官兵衛がまだ獄中にいた暑いきかりの六月十三日に播州の陣中で死んでいるのである。

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