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<本文から>
このあたりが官兵衛の妙なところだったかもしれない。かれは諸方の大名や蒙傑たちに利害を説く縦横の策士であるという点では、功利主義者だった。ところが自分一個のぎりぎりの進退の瀬戸際に立つと、意外にも世間の法とはちがった道義論を持ち出したのである。
この一点で、官兵衛がこの時代における、抜きん出た知識人だったといえるかもしれない。
人間の行動の善悪正邪を決める儒教というものが武家社会に定着して江戸的な武士的な道徳になるのは、江戸中期になってからである。
戦国期においては、そうではない。
戦場において自己の名誉を命がけで表現したいという道徳に似た共通のなにかを士卒たちは持っているものの、世を動かしているものは功利主義であり、善悪正邪論というものはなく、何が利益で何が損かということしかない。
官兵衛も、たしかにその徒ではあったが、一面黒田家の家学のようなものが、かれ自身の行動を律していたということは、時代の状況と思い合わせれば、奇妙な存在というほかない。
「私には、主家を裏切ることはできない」
と、官兵衛はいった。
このことばは、家臣たちを驚かした。黒田家は、大名とまではゆかなくても小名のうちの力ある存在ではないか。大名や小名は利のあるところへ離合集散するのが当然なのである。
官兵衛のこの倫理観は、かれの家臣に対する支配者としての倫理観と、背中合わせになっていて黒田家武士団は決して、その主に背くな、ということを官兵衛はこれ以前も以後も口に出していったことがないが、かれはそれを自分の行動で示そうとした。このため、生死を賭けてみようと思った。
むろん、彼がいまからやろうとする行動は倫理的動機だけではない。説得すればかならず成功するという自己への過信が動機の主たるものであったであろう。 |
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