司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          播磨灘物語2

■秀吉は気むずかしい信長に仕えるのに功名の独占を憚った

<本文から>
 秀吉は信長という気むずかしい大将に仕えるのに、さまざま心を砕いていた。かれはつねに功名を独占することを、憚った。功名を独占すれば、我独り偉くなったという印象を信長にあたえ、信長の心に自然疑或を生じきせることになるであろう。他の者の名前をあげてその実力や功をたたえておけば、いかにも謙虚にみえ、信長から増上慢と見られずに済む。秀吉は、出来すぎるという印象を主君にあたえることをそれほど怖れていた。なおかつ、出来ないという印象を与えることも、信長にはまずいのである。
 秀吉は生来の陽気さと、信長からできえ秀吉は無欲とみられてしまっているその気の大ききとでもって、こういう信長に対する心の憚り方の仕組みは見ぬかれることがなかったが、実際の秀吉は、謙虚な男ではない。
 かれはのちに天下をとったとき、鎌倉を過ぎた。そのとき源頼朝の像を見、頼朝に語りかけたことは、尊公も自分もおなじく天下をとった、しかしながら尊公は武門の名家にうまれたという利点があった、自分にはそれがない、自分は草沢の中より身を興した、どちらが偉大であるかを考えよ、ということであった。かれの本性には、神仏にもおのれの能と功を誇りたいという、一概に無邪気とは言いきれないものがあった。それを押し包んで、信長にはこのように言うのである。

■官兵衛は城と秀吉に差し上げた

<本文から>
 姫山という小さな丘に、官兵衛の城館がある。山の地形変化を利用してわずかに人工を加えただけの田舎城で、建造物も小さかったが、しかし二ノ丸の堀は深く、一ノ九の塁は高く、いかにも攻めるのに困難という実用的な城廓だった。
 「いい城だ」
 秀吉は、自然石の石段をのぼりながら、塁を仰いだ。石垣は用いられておらず、山の崖を利用しただけの星である。
 ほめられても、官兵衛はうれしくない。せいぜい五百人ほどの家来をもつ身代だから、城はこの程度でしかないのである。
 官兵衛はききに立って登りつつ、ふと立ちどまった。
 「この城を、差しあげましょう」
 と、いったのである。
 秀吉も立ちどまった。表情に、驚きが包みおおせずに覆れている。
「官兵衛、いま何といった」
 秀吉は驚きの表情をかくすために、足もとのつわぶきの茎を折り、汁を嗅ぐしぐさをした。
 官兵衛のいったことは、かれが思慮をかさねた末のことで、要するに、秀吉にこの城を呉れてやろうという。
 秀吉が、信長の代官として播州平定に乗り出すにあたって、その策源地としての城がなく、軍勢を収容する場所もない。官兵衛は思いきって自分の城を呉れてしまえと覚悟した。
 異常なことといわねばならない。武将にとって城は自分の組織の肉体化したものというべきであり、敵が攻めてくればそれを死守するというのに、それをひとに遣るという。城を出た軍勢というのは、拠るべき場所を失うだけに、防御カにおいては放浪の集団にひとしい。
 官兵衛が繰りかえしいうと、秀吉はやっとその意味を理解した。それでもなお、この城廓のうちの本丸か、二ノ丸かを仕えという意味なのかと思い、どれを貸してくれるのだ、と問うと、
 「貸すのではござらぬ」
 差しあげるのだ、といった。織田家の播州平定で中国人りの橋頭堡とせよ、ということである。
 「どのあたりを」
 秀吉は見あげながら、きらにきくと、官兵衛はこの城ぜんぶをでござる、といった。
 (大変な男に出違ってしまった)
 秀吉はおもわざるをえない。
 信長は秀吉を大気者とよんでいるが、その秀吉が内心舌をふるって、こんな大気者が世にいたのか、とあらためて官兵衛の顔、手足を眺めまわすような目つきをした。
 「よいのか」
 「汚うござるが。ただいま本丸の掃除をきせております。しばらく二ノ丸で御休息あれ」
 官兵衛はすでに織田家に賭けてしまっている。賭けてしまった以上は城も提供し、それによって秀吉の働きを十分にきせたいし、それに、秀吉の信頼を十が十、かちとっておかねば今後仕事がしにくいと考えている。城を呉れてやる効用は、官兵衛の数学では城持ちでいるよりもはるかに答えか大きいのである。

■官兵衛は日本の戦国期にいわゆる唯一人の遊説家、縦横家であった

<本文から>
 官兵衛が播州において果たしている役割は、古代中国の戦国期にあらわれる外交弁舌家(縦熱家)の蘇秦や張儀のはたらきに似ているかもしれない。
 張儀は戦国の諸国を遊説して、あるとき命をおとしかねないはめに遭った。その妻が、もう遊説をやめてほしいというと、張儀は舌をみせ、
 「この舌のあるかぎり大丈夫だ」
 といった、という。官兵衛はおそらくこの故事を知っていたであろう。かれは、この当時のこの階層の武士としては、学問があった。少年の日、蘇秦、張儀といった縦横家の事歴を『史記』か『戦国策』で読み、かれらの、孤独ながらも昂然たる姿に血を湧かしたであろう。
 当時、秦という、やや未開性をもった強大な国家がそのカを増大しつつあり、六つの古い都市国家郡(楚、燕、斉、韓、貌、趙)の存亡の策があやぶまれていた。
蘇秦も張儀も鬼谷先生という人物の弟子である。鬼谷先生のもとで縦横の術をまなび、ともに諸王を歴訪して遊説の人になった。
蘇秦は、六つの都市国家の王に合縦の策を説き、六国が同盟して秦にあたることをすすめ、その策が入れられ、六国(大臣)になった。この同盟のために秦の軍隊は十五年間、函谷関以東に出ることができなかったという。
 張儀は、秦につかえた。秦に仕えたとはいえ、蘇秦と同様、・秦の害禍が六国におよぶことをふせぐためであった。やがて蘇秦の合縦策の矛盾が大きくなりはじめたころ、いちはやくあたらしいカの均衡法として、六国はいっそ秦と同盟せよ、という連衡策をたて、六囲を遊説してまわってそれを樹立させた。
 蘇秦も張儀も、もともと門地なく領地なく、ただあるのはその雄弁と論理と外交術のみである。
 官兵衛には多少の門地があり、わずかな領地があって、その点、蘇秦・張儀のような天下を遊説する弘客ではない。そのことは、もし蘇秦・張儀たろうとする場合、利点でなく、むしろ足がらみになっている。小寺氏のような小規模の、それも時勢に対して保守的な大名の家老である場合は、そのことが官兵衛の飛翔のために足枷になっている。
 しかしながら、この時期の官兵衛がやっていることは、蘇秦・張儀に類似したことであった。日本の戦国期にいわゆる遊説家、縦横家があらわれなかったが、辛うじて官兵衛がその唯一の人物であり、この時期の官兵衛はそれを気取る気持が多少あり、その多少の思いと昂揚が、播州各地や備前あたりまで足をのばしているかれの活動のさきえになっていたかもしれない。
 ただしこの場合、官兵衛が説いてまわったのは、張儀の連衡策であった。秦が、織田氏にあたる。六つの都市圏家に相当する播州諸侯群は織田氏と同盟せよ、というのである。
 もっとも、蘇秦・張儀よりも官兵衛の場合、こまったことは、強大なる存在は東方の織田氏だけでないということだった。西方に毛利氏がいた。
 播州最大の勢力である東播の三木城主別所氏は、この加古川評定のはじまるころには、毛利氏への加担をひそかにきめていたらしい。

■本願寺は信長への憎悪を煽り播州を反織田に。官兵衛は窮地に陥る

<本文から>
 官兵衛の家系は流浪の家だったが、しかし彼自身は播州生れであり、山河と人への愛情も強かった。
 かといって、いま播州の山川草木を織田勢力から守ろうとして目下一国をあげて燃えあがらせている土くさい情念には、ついていけない。
 「私にはわからぬ。播州が織田氏の勢力下に入るのはいやだといって西方の毛利氏をひき入れるというのは、どういうことなのか」
 と、かねがね言っていた。
 しかしながら播州の人口の一割以上が一向宗(本願寺)の宗徒になっていることが大きいであろう。大坂の本願寺が、織田勢と長期にわたって血みどろな戦いをつづけているため、当然、播州の蒙族を反織田へ踏み切らせる扇動と工作をした。それがこんにちの結果になった。
 ところで、あと九割の非一向宗徒はどうなのか。かれらを動かしているのは郷土を守ろうという情熱であろう。しかしながら織田につくことがなぜ反郷土的で、毛利につくことがなぜ愛郷的なのか。
 「戦っている当人どももわかるまい」
 官兵衛は、おもっている。
 なぜかという最も重要な論理の核心をアイマイにすることが扇動というものであった。逆に、論理の核心がアイマイであればこそ、ひとびとの戦意は燃え立つ。そういう集団心理の機微を、本願寺は多年一向一揆を経験してきただけに、心得ているようであった。
 さらにいえば、論理の核心のアイマイさは、感情で代用きれ、充填され、その部分から燃えあがって人々を行動に駆りたてていた。
 つまりは、信長への憎悪である。本願寺は、これを煽っていた。
  一信長などに協力しても、あとでどういう仕打ちをうけるかわからない。
 蒙族も百姓も、感情を一つにしてそう思い、抗戦に踏みきった。踏みきった以上、いよいよこの憎悪を互いに掻き立てた。掻きたてねば、つまり信長への憎悪が衰えるようなことかあれば、戦意は消える。消えれば自滅であり滅びぬりために、自他ともに信長への憎悪を相互に掻きたててゆかねばならないのである。
 (要するに、原因は信長の不徳といっていい)
 と官兵衛はできれば声をあげて秀吉に言ってみたかったが、むろん、信長の忠良な代官である秀吉に言えはしなかつた。

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