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<本文から>
担保が要らないかわりに、借りている期間中、この屋敷に仕事に来い。それも月に二日でいい、と重隆はいうのである。
重隆のもくろみでは、そのようにして人数を寄せておく。かれらに対しては、
「被官になれ」
と、いってある。被官とはこの時代によく使われた言葉で、大百姓につかえている小作人もそうよばれ、武家の家来のことも被官という。この場合、黒田氏は牢人ながら武家と称していたから、
「家臣になれ」
という意味であった。
士百姓が、家臣になるのである。家臣になる者には低利で米や銭を貸すというふしぎな装置を重隆は考えたのである。
男の子を持っている者は、とくに優遇した。男の子一人をもっている者には五石貸す、という。二人なら十石である。
重隆は、そういう少年を戦士にすべく養成しようとしていた。
戦国期にはさまぎまの者が世に出てきたが、この重隆のようなやり方をした者はない。
数年経つと、被官の人数は二百人になった。一万石足らずの大名の動員能力とみていい。
のちに黒田家の家臣団で、播州以来の譜代の者のなかには、この種の被官のあがりの者が多い。要するに、播州の土民であり、土民であるという点では、重隆に家屋敷と田地を提供して自分は「家老」になった竹森新右衛門も、そうである。
「あるじ様」
として奉られている重隆も、浮浪のあがりで、筋目ばかりは佐々木源氏の庶流を称しているにすぎない。
「できれば、天下を望もう」
と、重隆は新右衛門にききやいたが、しかし、わずか二百人では、近郷でさえ斬りとれない。
重隆は、この自前で作った数百人の「被官」をひきいて、このあたりの大名の家来になろうと考えた。
「まず、大いなるものに拠らならない」
と思うのである。たかが、播州の小大名の家来になるために、営々と自分でつくった勢力を手みやげとして持ちこんでゆくのである。こういう思案も、めずらしいかもしれない。家来である自分を相手に買わせるのである。 |
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