司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          播磨灘物語1

■重隆は返済担保の代わりに月二日間の被官を条件にした

<本文から>
 担保が要らないかわりに、借りている期間中、この屋敷に仕事に来い。それも月に二日でいい、と重隆はいうのである。
 重隆のもくろみでは、そのようにして人数を寄せておく。かれらに対しては、
 「被官になれ」
 と、いってある。被官とはこの時代によく使われた言葉で、大百姓につかえている小作人もそうよばれ、武家の家来のことも被官という。この場合、黒田氏は牢人ながら武家と称していたから、
 「家臣になれ」
 という意味であった。
 士百姓が、家臣になるのである。家臣になる者には低利で米や銭を貸すというふしぎな装置を重隆は考えたのである。
 男の子を持っている者は、とくに優遇した。男の子一人をもっている者には五石貸す、という。二人なら十石である。
 重隆は、そういう少年を戦士にすべく養成しようとしていた。
 戦国期にはさまぎまの者が世に出てきたが、この重隆のようなやり方をした者はない。
 数年経つと、被官の人数は二百人になった。一万石足らずの大名の動員能力とみていい。
 のちに黒田家の家臣団で、播州以来の譜代の者のなかには、この種の被官のあがりの者が多い。要するに、播州の土民であり、土民であるという点では、重隆に家屋敷と田地を提供して自分は「家老」になった竹森新右衛門も、そうである。
 「あるじ様」
 として奉られている重隆も、浮浪のあがりで、筋目ばかりは佐々木源氏の庶流を称しているにすぎない。
 「できれば、天下を望もう」
 と、重隆は新右衛門にききやいたが、しかし、わずか二百人では、近郷でさえ斬りとれない。
 重隆は、この自前で作った数百人の「被官」をひきいて、このあたりの大名の家来になろうと考えた。
「まず、大いなるものに拠らならない」
と思うのである。たかが、播州の小大名の家来になるために、営々と自分でつくった勢力を手みやげとして持ちこんでゆくのである。こういう思案も、めずらしいかもしれない。家来である自分を相手に買わせるのである。 

■官兵衛は家中に嫉妬されていた

<本文から>
官兵衛は、じつのところ、小寺家の家中でかならずしも好かれてはいない。官兵衛の家が新参のくせに優遇されているという嫉妬があった。父の兵庫助が現職のころはそのあたりの気配りを入念にしてひとびとの反感を買わぬようにつとめていたが、官兵衛はいわばうまれながらの資格で筆頭家老の家を継いだため、そういう配慮はなかった。それに、官兵衛は若気ということもあるが、話の通ぜぬ者を好まない。
 −官兵衡は、いつもあごをあげて歩いている。
 と、古い家中の者はいう。
 官兵衛にすれば、かれらといかに入念に話したところで金仏と話しているようなもので時間のむだだと思っている。官兵簡は、自分は主家の将来のために日を八方にくばり、物事を真剣に考えているつもりでいた。金仏どもは自分についてくればよいのだ、とおもい、殿中政治など無用のものだと考えていた。

■官兵衛は利欲の念が薄く機会主義者

<本文から>
官兵衛は、その後、自分の姫路と主人の御着城を往来する日常にもどった。
 べつに大言壮語もせず、人を押しのけて物事をするわけでもなく、また服装なども奇抜なものを好まなかったから、あまりめだたなかった。
 御着の殿中で人の集まりがあるときなど、
 「たしか、姫路の官兵衛がいたはずだが」
 と、人が伸びあがってあたりを探さねばわからないようなことがしばしばだった。そういうとき、よく居眠りをしていた。柱にもたれて居眠りをしているときもあり、別室へ人を避けて、ふすまのかげなどで横になっていたりした。
 −たいした男ではない。
 と、ひとびとは思った。
 たしかに官兵衛は、機会主義者である面が、すこしあった。何事か、自分の好みに通う野望を目標として日常営々とそれへの条件を作ってゆく男ではなかった。元来、利欲の念が薄かったことも関係があるだろうが、要するに自分に適わぬ状態の中にいるとき、ひどく退屈なのである。官兵衛がもっともやりきれないのは、殿中で田舎の土煮たちがあつまって雑談をするときだった。
 官兵衛にもし下剋上の野望があるとすれば、そういうとき、土豪たちの膝と膝の間に割って入って、かれらの心を携っておくことが必要だったはずだが、興味がなかった。要するにこの時期の官兵衛の印象は、聡明な、田舎ぶりながらも貴公子といった感じで、土蒙劣紳の心を携ってゆくという、戦国の中でのしあがってゆくために必要な資質に欠けていたとしかいえない。こういう面は、官兵衛の生涯のものであったかとも思える。
 ただ、この時期の官兵衛の存在をわずかにめだたせていたのは、かれが桔梗色の小袖を好んでいたことであった。
 姫路の城館の空地や、登りロなどにかれは桔梗を植えていた。秋の桔梗の季節になると、ときにしゃがみこんで飽かずその花をながめた。花は、空の深い青を移しとったような色でひらいている。
 姫路の村に漢詩と絵の上手な憎がいた。あるとき官兵衛はその僧に、
「桔梗の詩を作っていただけないでしょうか」
 と、頼んでいた。
 僧は、詩のかわりに桔梗の絵を措いて官兵衛のもとにとどけた。
 官兵衛は失望した。絵などではとても桔梗の花の色や形があらわせず、官兵衛の心の中にある桔梗の印象がかえって濁るのである。このためきらに詩を頼み、
「桔梗の花は、空が地上に降りて野に咲いたものだ、という意味のことをうたってもらえまいか」
 と、注文した。
 それほど桔梗の色がすきであった。
 そのせいか、かれは桔梗色の小袖を着るのである。官兵衛が姫路と御着とを往復するとき、いつのまにか沿道で逢ぶ子供たちが覚えてしまって、
 「また青色小袖の侍がきた」
 などといった。官兵衛がめだつという時は、小袖の色程度のものでしかなかったかもしれない。

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