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<本文から>
尾張衆から悪口をいわれるような後進地帯であった。ただ国人が質朴で、困苦に耐え、利害よりも情義を重んずるという点で、利口者の多い尾張衆とくらべてきわだって異質であった。犬のなかでもとくに三河犬が忠実なように、人もあるじに対して忠実であり、城を守らせれば無類につよく、戦場では退くことを知らずに戦う。この当時すでに、
−三河衆一人に尾張衆三人。
ということばすらあったほどで、尾張から大軍が侵入してくるときも、三河岡崎衆はつねに少数で奮戦し、この小城をよくもちこたえた。守戦でのつよさではかれらは天下無類というふしぎな小集団であった。ついでながらこの小集団の性格が、のちに徳川家の性格になり、その家が運のめぐりで天下をとり、三百年間日本国を支配したため、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響をのこすはめになったのは、奇妙という他かない。
家康というのは、幼時、下ぶくれで目が大きく、童としては狂操なところがまったくなかった。婦人がみれば憐れをそそるほどに可愛い少童だったであろう。あわれといえば家康の郎党である岡崎衆が、とくにその女房どもが、
「世に、若殿ほどあわれなお子がおわそうか」
と、涙ながら、手仕事のあいまあいまにこの少年の不幸をつねに語りあったことも、「三河岡崎衆」という、この酷薄な乱世のなかではめずらしいほどに強固な主従関係、というよりもはや共同の情緒をもつ集団をつくりあげて行ったことに、大いに役立っている。家康は、数えて三歳のときその生母於大が、突如ふってわいた政治的事情のためにこの岡崎松平家を去らぎるをえなくなり、母子生別した。さらにかれ自身も六歳のとき、人質としてこの三河を離れ、他国に流寓した。少年の運命としては、もっとも劇的である。
三河岡崎衆を結束させたのは、この少年の悲劇性であろう。三河人は、先進的な商業地帯である尾張の住民たちよりも、はるかに濃く中世的な情念を残している。岡崎城下に氷雨の降る宵など、郎党たちは家々で、
「若殿はいまごろどうおすごしであろう」
と、涙まじりに語ったにちがいない。
まったくばかな話で、家康はこの六歳のとき人質として送られるさきは東隣の強国、酸河今川家であったはずであるのに、途中かれの身柄を盗む者があり、しかもそれを青銭石貫文という安さで、西隣の織田に売りとばしてしまったのである。悲劇もここまでくれば、滑稽というほかない。
話を順序だてると、家康の岡崎松平家というのは半独立国で、東隣の遠江と駿河の両国をもつ今川家の武力を後楯としてたのみ、それによって西隣からの尾張織田家の脅威をしのいでいた。尾張衆が矢作川をこえて侵入してくるときは、岡崎松平家としては十日も城をもちこたえさえすれば、酸河から応援の大軍がかけつけてきてその急場をすくってくれるという関係であり、この今川家に対する従属のつながりを強くするために六歳の家康が駿府(静岡市)におくられることになったのである。 |
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