司馬遼太郎著書
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          覇王の家

■三河衆は質朴で困苦に耐え利害よりも情義を重んずる

<本文から>
 尾張衆から悪口をいわれるような後進地帯であった。ただ国人が質朴で、困苦に耐え、利害よりも情義を重んずるという点で、利口者の多い尾張衆とくらべてきわだって異質であった。犬のなかでもとくに三河犬が忠実なように、人もあるじに対して忠実であり、城を守らせれば無類につよく、戦場では退くことを知らずに戦う。この当時すでに、
 −三河衆一人に尾張衆三人。
 ということばすらあったほどで、尾張から大軍が侵入してくるときも、三河岡崎衆はつねに少数で奮戦し、この小城をよくもちこたえた。守戦でのつよさではかれらは天下無類というふしぎな小集団であった。ついでながらこの小集団の性格が、のちに徳川家の性格になり、その家が運のめぐりで天下をとり、三百年間日本国を支配したため、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響をのこすはめになったのは、奇妙という他かない。
 家康というのは、幼時、下ぶくれで目が大きく、童としては狂操なところがまったくなかった。婦人がみれば憐れをそそるほどに可愛い少童だったであろう。あわれといえば家康の郎党である岡崎衆が、とくにその女房どもが、
 「世に、若殿ほどあわれなお子がおわそうか」
 と、涙ながら、手仕事のあいまあいまにこの少年の不幸をつねに語りあったことも、「三河岡崎衆」という、この酷薄な乱世のなかではめずらしいほどに強固な主従関係、というよりもはや共同の情緒をもつ集団をつくりあげて行ったことに、大いに役立っている。家康は、数えて三歳のときその生母於大が、突如ふってわいた政治的事情のためにこの岡崎松平家を去らぎるをえなくなり、母子生別した。さらにかれ自身も六歳のとき、人質としてこの三河を離れ、他国に流寓した。少年の運命としては、もっとも劇的である。
 三河岡崎衆を結束させたのは、この少年の悲劇性であろう。三河人は、先進的な商業地帯である尾張の住民たちよりも、はるかに濃く中世的な情念を残している。岡崎城下に氷雨の降る宵など、郎党たちは家々で、
 「若殿はいまごろどうおすごしであろう」
 と、涙まじりに語ったにちがいない。
 まったくばかな話で、家康はこの六歳のとき人質として送られるさきは東隣の強国、酸河今川家であったはずであるのに、途中かれの身柄を盗む者があり、しかもそれを青銭石貫文という安さで、西隣の織田に売りとばしてしまったのである。悲劇もここまでくれば、滑稽というほかない。
 話を順序だてると、家康の岡崎松平家というのは半独立国で、東隣の遠江と駿河の両国をもつ今川家の武力を後楯としてたのみ、それによって西隣からの尾張織田家の脅威をしのいでいた。尾張衆が矢作川をこえて侵入してくるときは、岡崎松平家としては十日も城をもちこたえさえすれば、酸河から応援の大軍がかけつけてきてその急場をすくってくれるという関係であり、この今川家に対する従属のつながりを強くするために六歳の家康が駿府(静岡市)におくられることになったのである。 
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■家康は13歳で長いものに対する巻かれかたの態度が巧み

<本文から>
 さて、家康は岡崎城に入った。
 岡崎城の本丸には、今川家から派遣されている城代で、山田新右衛門という男が住まっている。普通なら、帰国した家康の宿所として本丸を空けるべきであったが、家康のほうからさきに、
 「貴殿が城をまもってくれていればこそ、岡崎も安泰なのです。私はまだ年若であり、古老たちの話もききたいゆえ、二ノ丸をもって宿所とします」
 と、人をしてそう言わしめた。面憎いほどのへりくだりかただが、その効果はあった。この話はすぐ駿府の今川義元の耳に入った。それまで義元は家康の帰郷を多少危ぶんでいたが、これをきいて大いに安心し、
 サテサテ分別アツキ少年カナ
と、感じ入ったというのである。家康の後年の性格なり資質なりは、すでにこの十三四のときに成立していたのであろう。これは後年、豊臣家をほろぼすというその決断をするその瞬間までは、長いものに対するこの種の巻かれかたの態度が巧みで、そのことは巧みという技巧的なにおいはいっさいなく、天性の律義さから発露しているようにも他人にはみられ、しかもひとだけでなく自分でも自然に自分の律義さを信じ、さらにひるがえっていえばかれの律義は決して律義ではなく自分の鋭鋒をかくすための処世的なものであったことをおもえば、これほどふしぎな人物もまず類がない。この堅牢複雑にできあがった二重性格は、その幼少期の逆項と、少年期、敵国の織田家や今川家ですごした人質としての生活環境の苛烈さが自然につくりあげたものであろう。かれがこのような苛烈な生いたちでなく、もし後世、なに国かの草深い里で大庄屋の旦那としてでもうまれていれば、多少の女好きによる出入りはあるにせよ、おだやかで福々しい一生を素直に送った人物であったかもしれない。
▲UP

■徳川集団ほど織豊時代のにおいと無縁で信玄に傾倒した

<本文から>
 信玄というのは諏訪法性の兜をかぶり、叡山からおくられた大僧正の僧階をもち、鎧の上に排の衣をかさねて軍陣に出る。このふしぎな軍装は、当時、すでに遠江に有名であり、かれの敵たちはつねにこの信玄像を想像してはおぞけをふるった。
 家康も、武田圏と隣接しているだけに、その恐怖は死刑を宣告された囚人にひとしい。が、この物学びのいい男のおかしさは、これほど信玄を怖れながら、若いころから信玄をひそかに尊敬していたことであった。かれはつねづね信玄の民政の仕方、軍陣のたてかたから平素の心がまえまで知ろうとし、後年、武田家が勝頼の代でほろびとき、武田の牢人といえば百人であれ千人であれ、ひとまとめで召しかかえ、かれらから信玄の遺法をきき、陣法を研究して徳川家の後期における先鋒部隊である井伊勢のそなえをすっかりそのやりかたにあらためさせた。井伊の士卒は具足までことごとく赤かった。「武田の赤備え」といわれたものが赤一色であったからであり、家康の信玄への傾倒はそこまで徹底している。
 どうやら家康には、信玄の性質と相似たところがあるらしい。たとえば家康は信長をまねなかった。家康は信長の同盟者として信長に運命を託し、終始信長にひきずりまわされ、それほどに深い縁をむすんだわりには家康はついに信長の好みや思考法はまねず、晩年も信長という人物についてそれを賞めあげたような談話を残していない。秀吉に対してもおなじである。家康は秀吉につかえているときは自分の責苛をいささかもみせず、つねにいんぎんであった。しかしその時期、内々の場で家来たちにひそかに洩らす言葉は、秀吉のあの派手なやりかたに染まるな、ということであった。たとえば茶ノ湯がそうであろう。信長・秀吉の好みによってあれほど一世を風靡した茶ノ湯についても、徳川家の諸将だけはそれに染まらず、そういう会合に出ず、家康の好
びみどおり依然として三河風の質朴さをまもりつづけていた。家康とその三河持の集団は豊臣期の大名になっても農夫くさく、美術史で分類される安土桃山時代というものに、驚嘆すべきことにすこしも参加していない。かれらには他の大名を魅了した永徳も利休も南蛮好みもなにもなく、自分たちの野暮と田舎くささをあくまでもまもった。
 徳川集団ほど、織豊時代のにおいと無縁の集団もない。
 そのように、家康は味方の信長からまなばず、敵の信玄に心酔したところがいかにも妙で、三河者にとっては、商人のにおいのする尾張者よりも、おなじ農民のにおいのする甲州者により親近の思いがあったのかもしれない。
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■三方ケ原への決戦で自殺的な行動に出ようとした家康の不思議

<本文から>
 信長は、信玄をおそれ、その故にまわらぬよう、信玄に対し、人間の頭脳で考えられるかぎりの大嘘をつき、つぎつぎにつき続けて信玄を足止めし、その心を撫でつづけてきた。信長にすればいま一歩であった。いま一歩すれば信長は信玄に対抗しうる情勢と兵力をつくり得るのだが、いまはまだ信玄という虎をその洞窟からひき出してはならない。が、家康は信長からみれば勝手な外交をし、結果としては虎を引きだすはめになった。もっとも、家康にいわせれば情勢はそうではない。虎自身がかれ自身の意志で出てきたのであり、当方の媚態外交は限界にきていた。これ以上媚態をつづけてはかえって食われるだけであり、このあたりで媚態を一都して滅亡を覚悟したうえでの決戦の準備をすべきであった。
  信長は、結局は家康が作った新情勢に屈せざるをえず、かれはやむなく上杉・徳川同盟に自分も参加した。が、この浜松城移転と対上杉同盟の一件は、信長の家康観をわずかに変えさせた。
 家康は信長にとって織田圏の東方警備の番犬であるにすぎなかったのが、その番犬自身が多少意志的になり、自分の判断で行動しはじめたのである。ただしこのことは、家康の世評の「律義」の範囲内でのことであることを、家康は再三信長に言いつづけることをわすれなかった。
 「それが、織田家にとって御為になることなのです。もし信玄が押し寄せてくれば、それがしは死力をつくしてふせぎます」
 「ふせぐのもよいが」
 と、信長は、家康が、自分の桶狭間のころのような冒険主義になっていることに、頭をかかえこみたいほどに当惑していた。信長にすれば武田信玄に対する冒険はいっさい不可で、いままで築きあげてきたすべてを瓦解させることになる。
「もし武田勢が浜松に押しよせてくれば軽戦したのち退却し、城を置きすてて岡崎までひきさがるがよろしかろう。浜松で防戦しても無駄の無駄である」
 と、しばしば人をやって家康に説かせた。家康はそのつど、
 「なるほど、そうでもありましょう」
 とか
 「よくよく思案つかまつる」
 とか言い、できるだけ顔をおだやかにして力づよくうなずき、言葉だけは曖昧にしておいた。家康の本心は、その場合は浜松城を一歩も退かず、千に一つの勝目もない戦いを滅亡を賭して戦ってみるつもりであった。この病的なほどに用心ぶかいこの男の性格のどこを押せばこういう常軌のはずれた決意が出てくるのであろう。家康という人間は、どうにも一筋縄では解きあかしにくいことは、すでに触れた。本来、用心ぶかくて守嬰的で功利的なだけの性格なら、ここで武田方に転ぶのが一番であった。げんに、このときの家康の条件と類似の条件下におかれた戦国の諺将は無数にいる。かれらはみな武田へころぶという反応をし、目前の危機を脱しているのであ。たとえ武田へころばなくても、信長が勧めるように岡崎へ逃げ、さらに尾張へ逃げこんで織田士力に合流し、それでもって戦うというのが普通の反応であった。生来の豪胆さを決してもちあわせていない家康が、右のどの行動類型にもはまらず、意外にも自殺的な行動に出ようとし、げんに出たことが、家康のふしぎといっていい。
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■築山殿の考えられぬヒステリー

<本文から>
 築山殿はその母親に金を出し、その甲州うまれの娘を自分の侍女にした。
信康には、築山穀自身が口説いた。
 「この娘はどうか」
 という露骨さである。大名たる者はまず第一に嗣子をつくることが大切である、徳姫どのはなるほど子をうんだが女児であった、あれではどうやら女腹かもしれず、ゆくすえが案じられる、三郎(信康)どのはぜひともこの娘を幸して男児を生ませ候え、とすすめた。
 信康は、多淫であった。べつだんの抵抗もなく母親のすすめをうけ入れ、この娘を愛した。その後、熱中した。女は、母親の住む築山御殿に置いている。信康は、毎夜築山御影で夜をすごした。徳姫には、
 − 母御前にお会いするためだ。
 といっておいたが、せまい城内ではうわさがきこえぬはずがない。すぐ徳姫の耳に入った。
「ひともあろうに姑どのがその女をすすめられた。しかも武田に縁故の女である」
 という内実が、尾張からきた女中たちの手で知りたしかめられた。もっともそれ以上の秘謀まではこの段階では知られていない。ともあれ、岡崎城内は、徳姫を中心という尾張系の女中たちと、築山御殿にいる駿河系の女中たちのあいだに、仇敵以上の険悪な空気がかもされた。奥に奉仕する三河武士たちは、この両派の相剋をみて、手をつかねているほかなかった。
 この空気のなかで、焦ったのは実家の背景のうすい築山穀のほうであった。さらに滅敬との情事が、城内に知れわたっていることも、彼女をあせらせた。焦りが、彼女を行動へ飛躍させた。ともかくも密謀を拙速ながら実現しなければならない。
 彼女は、滅敬をせきたて、これを密使として甲斐に送った。彼女が武田晴頼に示した内容というのは、すでに正気の沙汰ではない。
 「信長と家康は、私の手で殺しましょう」
 というものであった。家康が、彼女の姦通を理由に自分を殺すかもしれない。殺されるよりもさきに殺そうとおもった。
 「信康に対しては、徳川家の封土をそのまま安堵してやって佗しい」
 むろん、信康自身の知らぬことであった。
 さらに築山鞍は、最後に女らしい一項をつけくわえることをわすれなかった。これが、彼女にとってもっとも重要なことであったかもしれない。
 「おねがいがあります。武田被官のうちで、しかるべき者をおえらびくだされて、私をその妻にさせてくださるように」
 というのであった。ヒステリーであろう。しかしそれが昂じてこういう壮大な計略まで幻想し、しかも幻想だけでなく実際にその計画を行動にうつした女性というのは、おそらく史上この築山殿しかいない。
 武田勝頼は当然よろこんだ。おりかえし返事を岡崎へ送った。むろん勝頼は築山殿の申し出をすべて可とし、とくに最後の一項については具体的に示した。
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■信康を自害に追い込んだ酒井忠次と大久保忠世を徳川家の柱石として栄えさせた

<本文から>
 家康はさらに信康を三転させて、遠州二股城にうつさせている。このときの警備責任者は二股城の守将大久保忠世であった。大久保は世故人情に通じた男で、当然、
 (大殿は、若殿をにがそうとされているのではないか)
 と察したはずであったが、この大久保も徳川家のオトナとして信康に対する痛烈な批判者のひとりであった。かれは信康にそのすきをあたえず、すみずみまできびしく警備した。ついに家康は、そのかすかな期待をあきらめざるをえなかったにちがいない。その手もとから切腹の介錯人を二股城に送った。
 天正七年九月十五日、信康は、みごとに腹を切った。十文字に切った。その死に方は、この青年が尋常の者でないことを十分に示した。
 介錯人が、首を打つ。が、当の服部半蔵は悲嘆とおそれのあまり、太刀をふりおろすことができなかった。かわって遠州侍の天方葉という者が打った。
 後年、家康は夜ばなしの席でこの半蔵に、
「鬼の半蔵といわれたそちでも、主の首はうてぬものよの」
 と、涙とともに語ったことがある。
 築山殿は、信康の自害よりも前、遠州浜松にちかい富塚というところで、家康の手もとから派遣された二人の介錯人によって害された。その介錯人(岡本時仲、野中重政)はいずれも三河者からえらばず、遠州での新付の者がえらばれた。両人が駆けもどって家康に復命すると、家康は吐息をつき、
「女のことだから計らいようもあろうに、なさけ強くも果てさせてしもうたか」
 といったため、両人はおそれ、そのうち野中重政は逐電してその故郷の遠州堀口村に隠棲してしまった。
 家康は、晩年になるまで、この事件をおもいだしては愚痴をくりかえしたが、はるかな後年、城内で辛苦の舞をみたことがある。曲は「満仲」で、満仲の郎党が、若君の身がわりに、ということでわが子の美女丸の首を切ってさしだす、そのくだりにさしかかったとき、家康は目に涙を溜め、酒井忠次と大久保忠世のほうをふりかえって、
「あの舞をみよ、よくみよ」
 と、言った。両人は顔をあげることができなかったという。
 これもはるかに後年、酒井忠次が自分の子の家次の待遇について家康に頼みごとをしたとき、家康はふと、
「そちも子の愛しいことがわかったか」
 と、いったことがある。
 家康という男の驚嘆すべきところは、こういう事件があったにもかかわらず、酒井忠次と大久保忠世の身分にいささかの傷も入れず、かれらとその家を徳川家の柱石として栄えさせつづけたことであった。忠次も忠世も、家康のそういうところを知っていたために右のように深刻な皮肉をいわれながらも、反乱も脱走もせずに徳川家の股肱としてはたらきつづけたのであろう。家衆が、その妻子を自害させたことよりもむしろこのことが、家康のふしぎさをあらわすものかもしれない。家康という男は、人のあるじというのは自然人格ではなく一個の機関であるとおもっていたのかもしれない。かれの三十七歳のときの事件である。
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■家康は若年から天下取りを目標から逆算して自分の行動をきめたことは一度もなかった

<本文から>
 −世も、早これまで。
 と、呉服商茶屋四郎次郎がいったが、この実感は家康において巨大であり、かれが営々と構築してきたこの世の作業が、すべてこの一瞬でがらがらと崩れ去ったようにおもった。
 (もはや、道はない)
 と、おもった。家康はすでに少壮の身で老熱した外貌をもっていたし、げんに晩年老檜といわれた。しかし人間の性格のふしぎさは、一筋や二筋の糸で織られているものではないらしい。家康の立場を考えると、かれは織田家の家来ではない。信長は彼のあるじではなく同盟者であった。それも苛烈なほどに彼に要求するところの多かった同盟者であった。かれはその信長の猜疑心のために、妻子まで処刑せねばなら頂かった。それでもなお、この戦国の世の離合集散常ならざる人心のなかにあって、二十年もという長期間、一度も信長を裏切ることなく同盟をまもりつづけた。そのほうが得であるため彼はそれを守ったというのは、信長が結果として中央を制したというそういう結果論からみた見方であろう。家康という男の意思の持続力には、損得の計算を越えたにぶい、しかし堅牢な情念というものがその性格の底にあるにちがいなかった。
 さらにこの人物は、後世からみれば、結果として天下人になった。しかし若年からこの時期まで、この男は天下取りを目標にしてそこから逆算して自分の行動をきめたことは一度もなかったことだけはたしかであった。
 家康は元来が自衛心のつよい性格で、かれは三河の郷国を守ることだけにその能力のかぎりをつくしてきた。三河を防衛するためにはその東隣の遠州を奪って遠州をもって武田からの防衛の最前線にしようとした。かれの願望のせい一杯に膨れたところが遠州征略ぐらいであり、信長から、
 −駿河一国を三河殿に参らせる。
 といわれたとき、なかば本気で(しかし半ばは巧妙な擬態で)それをいったん遠慮したが、この遠慮のほうはかれの存外、正真正銘の本心であり、さらにはこのときに擬態を示したのは、かれの本心とはべつに作動した自衛上の知恵才覚というべきものであったかもしれない。要するにこの男は、織田信長というこの辛辣すぎる同盟の相手に対し、本心から畏服し、頼っていた形跡が濃い。かれは元来が、自己を肥大化して空想することのできないたちで、自分の能力や勢力をつねに正確にしか計算できず、さらに計算をひろげて、自分の存立のために必要な数値を、信長の能力と勢力から借り出していた。それが、いま信長の死でにわかに外れたのである。
 針ほどに小さな魚のむれが、川面を刺すように泳いでいる。その水に、家康は右足を浸け、左足を股座に掻いこみ、
 「死ぬ。−」
 と、わめいていた。
 すでに近畿の諸街道は明智勢の手でおさえられているであろう。国へも帰れず、この上方の地で落人狩りの錆槍にかかるとすれば、ここで右大臣信長のあとを追って自害して果てるほうがましであった。
▲UP

■徳川の傘下に入ることは安堵感があり、これこそ士にとって最大の魅力

<本文から>
 元来、人君とは家来や被官にとって一面虎狼のようなもので、いつその既得権をとりあげられるか、あるいは時と場合によっては命もろとも召しあげられるかわからないという存在であった。げんに家康があらたに手に入れた甲信駿という旧武田圏の在郷々々の地侍たちも、故信玄や故勝頼に対してつねに虎の呼吸をうかがうようにして仕えてきた。ところがこの海道諸国で、
 「三河毀」
 とよばれている家康にかぎり、いまだ一度もその種の酷なことをしなかったという、ふしぎな経歴をもっている。だけでなく、彼は自分にそむいて反乱した家臣たちを大量にひきとってもとの知行のままにし、過去をいっさい問わなかったという、ほとんど信じがたいことを平然とやっている人物であり、そのことはすでに世間に知られていた。
 奇妙といえば奇妙な男だが、しかし家康はそれだけの男であった。かれは積極的な人心収穫術をつかったこともなく、さらにどうにもならぬほどに彼は生来の苔薔家というべきところがあったため、有能の士を厚遇するということは一切しなかった。が、ひとびとにとって徳川の傘下に入ることは、他のどの大名に仕えるよりも安堵感があった。ただこの安堵感こそ、士にとって最大の魅力であるであろう。この安堵感が、五カ国の士たちをして家康のもとに集まらしめ、結束させ、新参の士も徳川家の古いむかしからの譜代衆であるかのような心映えを示させるもとになった。この天正十一年、秀吉の勢いがこう竜が天に昇るようにのぼりつつある時期にあって、東海の小覇王にすぎない家康の頼れるものといえば、三河をはじめ五カ国の士の結束以外になかった。
▲UP

■秀吉に対し家康の独立姿勢は三河の挿疑心から出ていた

<本文から>
 地方政権は、たとえ地の利を得て地形を利用し、中央の大軍をひき入れてこれをなやますことがあっても、ついには勝てない。それが数正の計算であった。古来、無数の事例がそう証明していた。数正の弱気では決してない。
 (殿も、降伏なさるべきだ)
と、織田信雄が秀吉と単独講和してしまったとき、数正もおもった。が、家康はそれをせず、
「あのこと、三介(信推)どのがご勝手に羽柴と和睦なされた。祝着であると申しあげはしたが、しかしかといってこの自分が和睦せねばならぬということはない」
 と、家康はおもい、秀吉には十分のあいさつをして兵を戦場からひきあげ、ふたたび東海の小覇王として独立の姿勢をたもったのである。
 家康がとったこの行動の理由は、いくつもあった。そのなかで、もっとも重要な理由は、恐怖であちた。
「秀吉は、えたいの知れない調略家だ」
 ということであり、
「和睦して秀吉の陣屋へゆけば、かならず謀殺される」
 という疑いから家康の感覚は解放されることがない。家康は史上比類のない打算家であったが、その打算の基底にはつねに恐怖心があった。家康でさえそうである以上、摩下の三河衆にいたっては、「秀吉はかならず殿を殺す」という以外の前途を想像する想像力をもたなかった。そのあたりは山三河人たちの気分でできあがっている三河衆たちの世間狭さということもあったであろう。家康が殺されるという想像がひとすじに成立してしまう以上、三河衆にとってこれほどの恐怖はない。家康ひとりを殺せば、家康がきずいた東海の小帝国はたちどころに消えてしまい、士も卒も路頭に投げだされざるをえない。家康をふくめて三河衆のすべてが、他国から支配されることのつらさを、いやというほどに経験してきた。家康が成人するまでのながい期間、三河は隷属の歴史であり、他国人はすべて悪魔であったと三河衆はおもっている。駿河今川氏に領有されていたときは、三河でとれる米は今川氏が持って行ったし、尾張織田氏に隷属一同盟というかたちで−していたときは、戦場ではつねに危険な部署のみがわりあてられた。それほど働きながら、家康の息子の信康が、信長の命で殺された。信長のその理由は、織田家の息子たちが凡庸者ぞろいで、つぎの代になれば信康にしてやられるかもしれないという不安からであり、真偽はどうであれ、すくなくとも三河衆はいまでもそう信じ、故信長に好意はもっていない。ましてその政権を簑奪した秀吉を信ずるはずがなく、秀吉がどういう甘言を用いるにせよ、かれが尾張衆の代表者である以上、奸佞でないはずがない。
 「ゆめ、羽柴に乗ぜられまするな」
 と、三河の老臣というおとなは、家康に対しすがりつくように懇願した。それがこの時期の三河集団というものであり、家康の独立姿勢というものがかならずしもかれのすぐれた打算の能力からのみ割りだされたものではなく、洞穴のなかに入って出てこないけものの挿疑心から出ていた。
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■家康は譜代に薄く酬いて徳川の世を永らえさせた

<本文から>
 元来、家康は功労のある譜代の者にもわずかしか領地をやらず、無類の苔薔家といわれた。たとえば太閤秀吉がまだ在世のころ、伏見城で大名たちが雑談をし、秀吉なきあとの天下のぬしはたれか、という話額になったとき、当時、諸大名のなかでもっとも聡明といわれた蒲生氏郷が、
「すくなくとも徳川どのではあるまい。あの苔薔さではとてもひとがついて来ず、従って天下のぬしにはなれぬ」
 といったことがあり、それが事実でもあるのでこの言葉は当時、世間にいい囃され、ついには家康の耳にも入った。
 家康の苔薔は評判であった。
 かつて秀吉が、関八州のぬしである小田原北条氏を滅ぼしたあと、その領土二百十余万石をそっくり家康にやることによって、家康をその成立の壷である東海から根こそぎ引きぬいてしまったが、いずれにしても家康はとほうもなく大きな封土をもつことになった。当然ながら功臣たちに大きく分け前をあたえるべきところ、最大の功臣の酒井忠次(すでに隠居し、子の家次が当主)にさえ上州碓氷で三万石であり、代々忠功をはげんできた大久保忠隣がわずか武州羽生で云石、他の諜臣の本多正信が相模甘縄で一万石というぐあいで、他は推して知るべしで、このことは秀吉の側近のあいだで評判になり、秀吉が見かねて、あるとき、徳川殿、せめて井伊(直政)、本多(平八郎忠勝)、榊原(康政)などという天下にひびいた男どもには十万石も食ませ候え、といったために家康はやむなくその三人を十万石にした。もともとの勘定はこの三人も三万石程度でおえておくつもりであった。そのような、家康の出し惜しみのいきさつを秀吉のまわりの諸侯は知っていたから、蒲生氏郷はそういったのである。
 ところが、家康は関ケ原の一勝で天下をとったあと、これに協力した豊臣系諸侯(いわゆる外様大名)には気前よく大領をわけあたえた。この家康の勘定の矛盾は、譜代のひとりである大久保彦左衛門が、終生ロぎたなくののしっていたところだが、しかし彦左衛門程度の頭では家康の苔薔な性格はわかっても、家康の政治的算数はわからなかったのであろう。天下をとるための計算は家康は別個の配慮からやったわけであり、外様大名に大盤ぶるまいをすることによって、一気に天下の鬱気を散じ、政情を安定させたのである。
 しかし家康は、すでに死期の近いことをさとったこの時期、かれのこの政治原理の秘密を、秀忠と側近たちにだけあかしておき、あかすことによってのちのち彼等を誤らしめまいとおもった。
 「わしが三河、遠州、駿河といった譜代の侍どもに薄く酬いたのは、ゆえのあることだ。かれらを大大名にしてしまえば、みずからその富力を悼んで、江戸の将軍を軽んずるようになる。かれらを薄禄にとどめておけば、貧なるがためにたがいに気心をあわせて江戸を仰ぎみるようになるからである。徳川の世がつづくもつづかぬも、譜代の臣の結束いかんにあり、すべてそのためである」
 譜代の臣は薄禄だが、外様大名よりは格は上であるとし、さらに幕閣の政務はすべて譜代の臣にとらせるという名誉をあたえ、外様大名は大封をもつとはいえ天下の政治に対する参政権をあたえないということで差別をした。譜代大名は薄禄とはいえ、この差別をつくることによって大きな優越感をもつのである。
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