司馬遼太郎著書
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          花妖譚

■睡蓮 謡曲「項羽」より

<本文から>
 項羽は彼女を軽々と抱き上げ、李彊の方をむいて「永らく苦労をかけた」と微かに会釈をし、矢磯のとぶ中を、まるで花園を散歩する人のように悠々と歩き出した。数歩ゆけば小高い丘がある。項羽は虞夫人を抱いたままその丘を半周し、やがて凹みをみつけると、そっと、虞夫人を草の会に寝かせた。
 ……項羽が虞夫人を抱いて丘を半周したとき、草刈男もまた、それに惹かれるごとくよろよろ立ちあがって、あとをつけた。
 眼を見開き、顎をだらりと垂れ、見開いたこの男の眼は、もはや、眼の前で展開されている奇怪な情景に、何の反応も示していなかった。一体、どういうことであろうか。項羽−この名は聞いたことがある。梨花荘の百姓でさえ知っていた。漢の高祖劉邦と天下を争って死んだ英雄の名である。その寵姫虞夫人はたしか歿年十八、楚国第一の美人といわれた。その程度の常識が、この男の喪われた思考力の中であわあわと脈絡もなく明滅した。
 虞夫人は、項羽の頚に巻きつけた腕に力を込めて、ふるえる朱唇で相手の唇を求め、項羽は虞夫人の細腰を抱き締めて、激しく抱擁した。
 「唯の男と女で死ぬさ」
 唇を離した項羽はそう笑った。
 虞夫人の撞から、きらきらと涙がふきこぼれて、美しい頼を伝った。すうっと、頬を伝ってゆく涙が、つと頬の半ばで止まった。項羽の右手に秘めた短剣が、虞夫人の乳房の下を貫き通したのである。
 項羽は虞夫人をそっと草の上に横たえ、胸と裾の乱れを直してやると、身分は夫人の枕辺に胡坐し、長剣を取上げて頚筋に刃を当て無造作にぐいと引いた。
 血は、二人の折重なった屍の聞からとめどもなく流れ、死体を真紅に浸し、やがて丘の革を染めはじめ、折柄始まった落日の赤光に融けて、草蔭に佇む草刈男の視野は、みるみる天地、真紅の一色と化した。
 やがて男が眼を開いたときは、眼の前になにものもなかった。月もいつしか落ちて、一面の闇と、葦を渡る風音と、そして漬々たる鳥江の水声のみが、天地に在った。
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