司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          箱根の坂・下

■早雲は自立した戦国大名になった

<本文から>
  ばろばろに朽ちたる世とは、農代に対して超然としてきた守護。地地制のことであった。農民自身か火力をもち、その階層から国人、地侍を出す世になっているのに、大森氏も三浦凡も、気づくことなくその上に立ち、虚位を実質ある支配権だと思ってている。早雲の場合、いきなり農代の支配者になる。かつて小グループごとに農民をちまちまと支配していた旧地頭や、国人・地侍を家臣化し、行政と軍事の専門家とする。いわば一国をもって一体のかたらにしようというもので、それ以外に、領地維持ができなくなっている零細地頭を立ちゆかせることもできず、また現実にこの世の中心になりつつある国人・地侍をひき立てててゆくこともできない。
早雲のような者を、のちのことばで、
「戦国大名」
という。かつての守護ではない。
大名は、自立している。室町体制からいえば、いわば恣意的に広域行政をとりしきる者である。それによって領内の警察権を一本にし、また侵略しようとする外部勢力に対しては士と農を一つにしてこれに当たる。
 こういう存在は、室町体制からみれば、世を崩す者であり、下克上のきわみともいえるし、総じていえば大悪党であった。ついでながら悪党とは、室町初期 − 南北朝時代 − の一種の法制用語で、法制による正規の武土でない類似武装者のことをいう。室町初期のこの言葉の意味からいえば、国人・地頭さらには足軽、それらはいっさい悪党であった。
 早雲は、その悪党集団の大親玉ともいえな〈はない。

■教養人の早雲が善政を敷いた

<本文から>
早雲の小田原体制では、それまでの無為徒食の地頭的存在をゆるさぬもので、自営農民出身の武士も、行政職も、町民も耕作者も、みなこまごまと働いていたし、その働きが、領内の規模のなかで有機的に関連しあっていた。早雲自身、教師のようであった。
 士農に対し日常の規範を訓育しつづけていた。このことは、それまでの地頭体制下の農民にほとんど日常の規範らしいものがなかったことを私どもに想像させる。早雲的な領国体制は、十九世紀に江戸幕府体制が崩壊するまでつづくが、江戸期に善政をしいたといわれる大名でも、小田原における北条氏にはおよばないという評価がある。
「箱根の坂」は、そういう気分をまじえつつ書いた。
 ただ、早実の前半生がわからない。
 かれが、室町幕府の官僚であった伊勢家の傍流に属していたらしいことは、ほほまちがいない。(中略)
「箱根の坂」における早雲の前身については、実際の早雲のさまぎまな小さむ破片をあつめ、おそらくこうであったろうという気分が高まるまで待ち、造形した。この作業ほど、ひめやかな悦びはない。
 政治的には応仁ノ乱が早雲を生んだといえなくはない。同時に、かれは室町期という日本文化のもっと華やいだ時代の産物でもあった。伊勢家はその頂点にあり、早雲はその室町的教養を持って東国にくだった。かれが土地のひとびとの敬意をかちえた大き要素はそこにあったにちがいなく、その意味において早雲は世阿弥や足利義政、あるいは宗祇、骨皮道賢たちと同様、室町人としての一つの典型だったともいえる。

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