司馬遼太郎著書
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          箱根の坂・上

■将軍・守護の時代が去り、賤しまれている国人・地侍がの時代になる

<本文から>
  伊勢新九郎長氏は、のちに北条早雲として知られる人物になる。早雲とは頭を剃ってからの名で、正しくは早雲庵宗瑞と称した。
「北条」
 という姓も、晩年に称したらしい。
 らしいというのは、称した形跡が、資料の面ではうかがいにくいことによる。
 ともあれ、筆者は、早雲依然の伊勢九郎郎時代に関心がつよく、さらには新九郎の思想形成に大きく影響した−というよりも早雲を生みあけたというべき−室町期の世情とと応仁・文明の乱につよく心をひかれた。
 伊勢新九郎が、将軍の養子である足利義視の申次衆になったとき
 −このひとが将軍になれば、世が変るのではないか。
 と期待した。が、ほどなく義視の人物に失望した。それ以上に、義視一個がいかに理想をつよく持っていようとも、歴史はそれだけでは動かないとみた。
(中略)
 たとえ義視が将軍になっても、民のために何をすることもできず、有力な守護たちに弄せられて、およそ政治らしい政治は些事もできなかったろう。
(将軍・守護の時代はいずれ去るに相違ない。そののちは、いまでこそ賤しまれている国人・地侍が力を得、かれらが国々を治める。でなければ、民は兵火と飢餓で死に絶えるにちがいない)
 というのが、のちの早雲の政治思想につながる伊勢新九郎の痛いばかりの感想にちがいない。

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