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<本文から> 秀吉の世は容易に崩れまいとも、急に思いはじめたのである。重蔵が考えたのは、秀吉が持っている金であった。
(あのぼう大な金銀があるかぎり、秀吉という男は、うわさのとおり、顔に作り鬚を貼り、おはぐろを付け、真っ赤な袴を穿いて太平楽を唄うていようと、まず当分は人がついてくる・・・)
重蔵は、もともと秀吉麾下の部将達の忠節や結束などを過大にみてはいない。乱波の世を見る目は、親子相承けて、どれほどの湿度も帯びておらず、人の情誼や武士の忠義を計量して物事を考える愚はいささかもしない。しかしいま重蔵の想念の前にたちふさがったものは、明瞭な固さと色彩と形を備えていた。秀吉の背後に積まれた、かつていかなる支配者も持った例しのないおびただしい新鋳の金銀がそれである。
重蔵が考える秀吉は、ふしぎな運の恵まれ万をした。立身の運のみではない。それのみならば、足軽から身を起して信長の野戦軍司令官になるだけがせい一ばいの限度であったろう。秀吉は天正十年六月亡主の仇を山崎で討った。同時に、亡主の子や家康、勝家などを差しおいて、亡王の地位に代ろうとした。事実上の簒奪者であるという点、光秀となんら変らない。しかし、亡王の部将たちは同僚の聞から出たこの簒奪者に対して、きゆう然と従った。いつに、秀吉の力よりも秀吉が握っている金銀の力であったと薫蔵は考えている。
地上の秀吉が山崎で光秀を討ったとき、日本の地下では空前絶後ともいうべき大奇蹟が動いて
いた。秀吉の地上の運に呼応するがごとく、諸国の山野からおびただしい金銀が一時に湧き出たのである。ただちに、秀吉は佐渡、生野をはじめそれら全国の鉱山を一手に押えた。同時にその金を惜しみなく新付の部下たちに撒いた。
もともと信長の下級将校であったころから、部下が手柄をたてるとその場で手頼みに金を与えたこの男のことである。金がどれほど人間の心を魅惑するものであるかを熟知していた。天正十三年と十七年の両度にわたって行なった金賦という露骨な行事は、そのうわさが百姓町人の間に伝わってゆくにつれて、この男がもはやなま身の秀吉ではなく、犯すことのできぬ黄金の化身に変じてゆく錯覚に世のすべてが陥った。
このとき、彼の別墅である衆楽第の南門に積まれた金は、第一回が金子五千枚、銀子三万枚、第二回は金銀二万六千枚、あわせて三十万五千両というばく大なものであった。これを参賀する公卿、諸侯、大夫たちに手頼みで与え、これをもって戦国生き残りの武将の荒肝をひしいだのみではない、石高以上の部下を養わねばならぬかれらを黄金の前に拝脆せしめた。
重蔵は、金が秀吉に天下をとらしめたと考えている。したがって、この金力が崩れるときに成り上りの豊臣政権の土台も崩れさると思った。さもなければ、秀吉以上の金力を持った男が世に現われたとき、金銀で眩惑されたいわゆる豊臣恩顧の武将の大半はその男の側に走るにちがいない。
そういう男は、居るか。
(家康か。−)
重蔵は考えたが、いかに家康が関東二百五十五万石の大領主とはいえ、それほどの財力はもつまい。ただここに重大な可能性がある。……堺衆の結集である。家康の行動に対して堺の富力が裏付けられたとき、天下は家康を信用するにいたろう。重蔵にすれば、そのときこそ豊臣家は亡ぶ。 |
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