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<本文から>
私がいおうとしているのは、円朝・鉄舟における言語の本質論というような大それたものではない。
ちょっとした方法論をいおうとしている。
話し手の正直さこそが、言語における魅力をつくりだすということである。それが唯一条件でないにせよ、正直さの欠けた言語は、ただの音響にすぎない。
幕末以来、日本の外交態度について、欧米人から、この民族は不正直だといわれつづけてきた。私は日本人は不正直だとは決して思わないが、しかし正直であろうとすることについての練度が不足していることはたしかである。ナマな正直はしばしば下品で悪徳でさえある。しかし練度の高い正直は、まったくべつのものである。ユーモアを生み、相手との問を水平にし、安堵をあたえ、言語を魅力的にする。
もしニューヨークでの歌舞伎の開幕前のスピーチで、えらい人が、じつをいうと私は日本人のくせに歌舞伎には関心がうすく、見巧者ではないのです、と正直に言ったとしたら、もっとすばらしかったろう。たとえば、以下のように。
「…私が半生無関心でいつづけたあいだに、歌舞伎は世界に出て行ってしまったのです。ぜひきょうは皆さんのまねをして、私も後ろの席で見ます。芝居がおわったあと、どこがおもしろかったのか、こっそり耳打ちしていただけないでしょうか」
先日、英国のチャールズ皇太子のさまざまなスピーチが、日本じゅうを魅了した。言ってみれば錬度の高い正直さというべきものだった。言語化された人格がひとびとの心をとらえたばかりか、その背後の英国文明の厚味まで感じさせてしまったのである。日本人は喋り下手だといわれているが、それ以上に、正直さに欠けているのではないか。政界のやりとりをみると、ついそう思ってしまう。
(一九八六<昭和六十一>年六月二日) |
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