司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          風塵抄

■正直さこそが言語における魅力をつくりだす、日本は正直でない

<本文から>
  私がいおうとしているのは、円朝・鉄舟における言語の本質論というような大それたものではない。
ちょっとした方法論をいおうとしている。
 話し手の正直さこそが、言語における魅力をつくりだすということである。それが唯一条件でないにせよ、正直さの欠けた言語は、ただの音響にすぎない。
 幕末以来、日本の外交態度について、欧米人から、この民族は不正直だといわれつづけてきた。私は日本人は不正直だとは決して思わないが、しかし正直であろうとすることについての練度が不足していることはたしかである。ナマな正直はしばしば下品で悪徳でさえある。しかし練度の高い正直は、まったくべつのものである。ユーモアを生み、相手との問を水平にし、安堵をあたえ、言語を魅力的にする。
 もしニューヨークでの歌舞伎の開幕前のスピーチで、えらい人が、じつをいうと私は日本人のくせに歌舞伎には関心がうすく、見巧者ではないのです、と正直に言ったとしたら、もっとすばらしかったろう。たとえば、以下のように。
 「…私が半生無関心でいつづけたあいだに、歌舞伎は世界に出て行ってしまったのです。ぜひきょうは皆さんのまねをして、私も後ろの席で見ます。芝居がおわったあと、どこがおもしろかったのか、こっそり耳打ちしていただけないでしょうか」
 先日、英国のチャールズ皇太子のさまざまなスピーチが、日本じゅうを魅了した。言ってみれば錬度の高い正直さというべきものだった。言語化された人格がひとびとの心をとらえたばかりか、その背後の英国文明の厚味まで感じさせてしまったのである。日本人は喋り下手だといわれているが、それ以上に、正直さに欠けているのではないか。政界のやりとりをみると、ついそう思ってしまう。
(一九八六<昭和六十一>年六月二日) 

■高田嘉兵衛はその精神のなかにコドモを持ちつづけていた

<本文から>
 人は終生、その精神のなかにコドモを持ちつづけている。ただし、よほど大切に育てないと、年配になって消えてしまう。
 嘉兵衛は、卓越した操船技術をもっていた。それだけでなく、気象や潮流にも習熟し、そのおかげでかれの商船隊も事故をおこすことがなかった。この部分は、かれにおけるオトナの部分の機能である。経験を積むことと、また経験から烏をみちびきだすのは、コドモの部分の機能ではない。
 が、激潮がうずまく水道(クナシリ島とエトロフ島のあいだ)を霊できる特別の航法かれが着想したのは、そのゆたかなコドモの部分だった。想像力と創造力は、オトナの部分のはたらきではない。嘉兵衛の偉大さは、十二歳で世間に出ながら、コドモをみずみずしく保ちつづけたことである。
 数学がいい例らしい。天才的な数学者は、たれでも二十代で俸大な創造をし、以後、とまってしまうといわれている。数学にかぎらず、学問においてなみはずれた仮説を立てる能力も、その人のコドモの部分である。
 小学生を見ればいい。かれらは空や雲を見るだけで、宇宙や神の国を感じてしまう。どういう小学生でも、その瞬間、きらめくような宇宙科学者になり、詩人になるのである。こう考えると、人間というのは成長によってうしなう部分も大きい。中学生になると、もうコドモの量は急速に目減りしはじめる。
 極端な場合、中学生ですでに干物のようになっている人もいる。なにぶんオトナといってもオトナの条件である経験がないから、変に世の中をシニカルに見たりする。あるいはオトナとしての具体的なもの(性愛や金銭)にはやばやと身をよせる。
 正義もまた小学生の特権である。かれらが好む読みものやゲームを見ればわかる。そこにはカづよい正義が表現れている。

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