司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          風神の門

■甲賀と伊賀の違い

<本文から>
  (いや、手のうちを見られては、甲賀の名折れになる。一人でいこう)
 昼の様子では、害悪はなさそうにもおもわれる。が、いったんそうは思ったが、
 (甲賀者なら、信義をまもる。伊賀者は信じられぬ。やはり、人数を伏せておこう)
 何度も考えをあらためたのち、
 「おい」
 と、手をたたいた。
 二、三人の配下が、顔を出した。
 「今夜、深泥池に舟を出し、わし一人で伊賀の才裁とあう。おのれらは、気づかれぬよう、葦のあいだで息を殺しておれ。異変があれはすぐ才蔵を仕止めよ。半弓が要る」
 刻限を見はからって、たそがれの町へ出た。
 (伊賀には、えてして、ああいう心映えの男が多い)
 才蔵のことである。道を北にとりながら、
 (唯我独尊なのだ)
 佐助の考えは、ほほ正しい。
 甲賀衆と伊賀衆のちがいは、甲賀衆は集団として組織的にうごき、伊賀衆は個人が中心で働くという点にある。
 気質にも、両者にちがいがいちじるしい。
 甲賀忍者は、武将に仕えて実直であり、忠義の心がふかい。しかし伊賀者は、武将に備われても仕えはせず、技術を売る関係だけにとどめ、ときによっては、きのうは武田に備われ、きょうは上杉にやとわれるということも、平気でする。
あくまでも、伊賀者にあっては自分が中心なのだ。
(しかし甲賀はそうではない)
 仕えた主人に殉ずるところがある。佐助が才蔵を信用できないのは、そういう無邪気さがまるでない点だった。
 陽がくれた。
 佐助は、池のほとりの百姓舟のつなを解いて、池の中央へ漕いだ。
 「佐助か」
 間の中に声がした。
 「才蔵じゃな」
 「わが舟にうつるがよい」
 身をうつすと、大男の才蔵は小男の佐助のために席をゆずりながら、
「佐助、今夜にかぎっては、わが申すことを信じてもらわねばならぬ」
「それは難題じゃな。伊賀者の申すことを信じておれば、いつのまにか、首が台から離れるわい」
 「ちがいない」
 才蔵は、おかしそうに吹きだした。

■強敵・獅子王との決戦

<本文から>
「あれは」
 小平次は声をひそめて、遠い影を指さし、
「獅子王院でござる。あの者は、いつもあの塀をこえ、もう、塀を越えてそとへ出るのが癖じゃ。そうと見た以上、才蔵どのは、そとの路上にまわって、お待ち伏せなされ」
 「別の道があるか」
 「こちらへおじゃれ」
 小平次が案内して書院の裏側へ出、その野を指さした。
「この塀を学芸は、持仏堂がござる。その堂の裏塀を越えれば、川がある」
 「川が」
「いかにも。その川は、駿府城のお堀に通じている。獅子王院は、この屋敷から域内にもどるときは、いつもこの川から舟でゆく。河原の葦のあいだに、獅子王院の小舟があるはずでござる。さ、早う行かれよ」
 「世話になった]
 才蔵は、小平次の肩に手をのせた。
 「堅固でな」
 手をはなしたときは、才蔵の影は、塀を飛び準えてしまっていた。小平次の肩を足場にあっというまに跳ねあがったのである。
 ……やがて、川へ出た。
 小平次が教えてくれたとおり、葦のかけに小舟がつながれていた。
 待つほどもなく、葦の葉のむれを渡る風の様子が変わり、
 (来たな)
 影は、一草を分けてやってくる。
 才蔵は、呼吸をとめた。気配をころし、闇の中に心神を融かし切ろうとした。
 影は気づかない。
 きらに近かづいた。
 (来たか)
 才蔵の刀が、抜き打ちに葦の下茎のむれを一挙になぎ切った。
 その葦の中に獅子王院の両足があった。骨を断つ音がきこえ、
 「ぎゃっ」
 と影は横転した、がとみえたが一瞬、トンと逆立ちになった。才蔵がハッと刀をとりなおしたときは、両手を脚にすばやく逃げかけていた。
 みごとな芸だった。
 両足が、くるぶしから斬られている。血のにおいがただよった。しかしこの男の両手は、足よりも早やかったのだ。
 才蔵は、河原を追った。
 影は逃げてゆく。まるで奇妙な生きものにみえた。海のひとでが、足をたてて走るに似ていた。
 ひとでは舟にたどりつくと、体を舟の上に投げかけ、舟もろともに川の流れにむかって押し入った。
 (しまった)
 才蔵は刀をくわえ、川に飛び入ろうとしたとき、
 「才蔵、逃がしてくれ」
 流れの上から、撫子王院の声がきこえた。
 「負けた。どうやら、血が流れすぎている。おれは死ぬだろう。ぶざまなむくろを人に見せとうない」
 やがて、舟は闇に消えた。
才蔵は、追うことをやめた。獅子王院は、おそらく海に出るつもりだろう。むくろをそこに沈めるつもりに相違ない、とみたのである。

■働いた豊臣家が滅び、才蔵の述懐

<本文から>
「左様さ」
 と才蔵は、答えた。日が沈んだせいか、谷を流れる高野川の瀬音がひときわ高くきこえてきた。
「そなたと逢いそめたこの里でしばらく静善しながら、この先きどこへ行くかを考えてみたい」
 才蔵は、渓流に面した茶屋に宿をとった。この里には上古から奇妙な林浴の見習があった。温泉のない山城では、王朝このかた、京の公卿や門跡などで湯治のためにこの里に滞留する者が多い。俗にかまぶろという。
 林浴のあと、才蔵は濁りの多い八瀬の地酒をのみながら、
 「はや二年半になるな」
 「なにがでございましょう」
 「そなたとこの里ではじめて逢うた日からかぞえれば…」
 めずらしく才蔵は眼もとに酒気をのほらせていた。
「あのとき、そなたはわたしにとって謎のような女性であった。ただ、そなたの肌には万人に稀れな芳香があり、それがこの世のものでない奇瑞のように思われた。わしはそれをめあてにそなたの正体をさぐろうとしているうち、いつのまにか、大坂の騒動に巻きこまれてしもうた。わしはわしなりに生死をかけてその騒ぎのなかに身を入れてみたが、そのすべてが落城とともにおわり、そなただけがわしの手中に残った」
 「まあ」
 隠岐殿は小さく笑い、
「好きませぬ。ご迷惑であったようにきこえまするな」
「すねるものではない。これは話じゃ。考えてもみよ。わしにすれば豊臣家はなんの縁もなかった。その家のためにこの二年半、わしという男は、なにに想かれたか、命をかけて働いた。しかしいま、この八瀬ノ里であらためてそなたを見ると、なんのことはない。そなた一人を獲るだけのためであったらしい」
「・・・」
「しかし豊臣家がつぶれてはじめて遂げえたとは、これは高価な恋じゃ。おたがい、おろそかにはできまいぞ」
 才蔵は、隠岐殿の手を引きよせると、ごろりと横になった。しばらく眼をつぶっていたが、
 「はて」
 とつぶやいた。ひどく明るい表情で思案している。このさき、どう世を送るかということらしかった。
 そのとき、谷を渡る風のむきがかわったのか、瀬音が手枕のそはを走り渡るほどにちかぢかときこえた。
 「あきうどにでもなるか」
 才蔵はむしろ、このさきの自分の運命を楽しんでいる表情であった。

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