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<本文から> この桜田門外から幕府の崩壊がはじまるのだが、その史的意義を説くのが本篇の目的ではない。ただ、暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その最も重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。三百年幕軍の最精鋭といわれた彦根藩は、十数人の浪士に斬りこまれて惨敗したことによって、倒幕の推進者を躍動させ、そのエネルギーが維新の招来を早めたといえる。この事件のどの死者にも、歴史は犬死をさせていない。
残されたお静と松子については、大久保利通日記は、「治左衛門、戦死致し候ところ、母子の悲哀は申すばかり無く候ヘビも、義において断ずるところ尋常にあらず、この上は娘の心底、一生再嫁せざるの決定にて、母子ともその志操、動かすべからず」と、事変直後に書いている。
ところが、その翌年の文久元年九月、母親は亡夫の故郷の鹿児島に帰り、その十二月、治左衛門の長兄の俊斎を婿にして結婚させてしまっている。
俊斎の直話を集録した「維新前後実歴史伝」(大正二年六月、啓成社刊)では、俊斎談といったかたちで、
「時に文久元年十二月某日、俊斎故ありて故日下部伊三次の養子となり、海江田武次と称す」
海江田姓は、日下部の原姓である。
「娶すに、松子をもつてせり」
その間の機微は、わからない。要するに俊斎、すなわち海江田武次は風雪のなかで無事生きのこり、維新後は、弾正大忠、元老院議官などに任ぜられ、松子は子爵夫人になり、お静も、しずかな余生を送っている。
なお次兄雄助は、薩摩藩工作のために西走したが、鹿児島についた三月二十三日、藩庁はこの桜田事件の関係者を到着の夜、早々に切腹させている。理由は幕府への遠慮であった。 |
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