司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          幕末

■桜田門外の変は倒幕の推進者を躍動させ招来を早めた

<本文から>
 この桜田門外から幕府の崩壊がはじまるのだが、その史的意義を説くのが本篇の目的ではない。ただ、暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その最も重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。三百年幕軍の最精鋭といわれた彦根藩は、十数人の浪士に斬りこまれて惨敗したことによって、倒幕の推進者を躍動させ、そのエネルギーが維新の招来を早めたといえる。この事件のどの死者にも、歴史は犬死をさせていない。
 残されたお静と松子については、大久保利通日記は、「治左衛門、戦死致し候ところ、母子の悲哀は申すばかり無く候ヘビも、義において断ずるところ尋常にあらず、この上は娘の心底、一生再嫁せざるの決定にて、母子ともその志操、動かすべからず」と、事変直後に書いている。
 ところが、その翌年の文久元年九月、母親は亡夫の故郷の鹿児島に帰り、その十二月、治左衛門の長兄の俊斎を婿にして結婚させてしまっている。
 俊斎の直話を集録した「維新前後実歴史伝」(大正二年六月、啓成社刊)では、俊斎談といったかたちで、
「時に文久元年十二月某日、俊斎故ありて故日下部伊三次の養子となり、海江田武次と称す」
 海江田姓は、日下部の原姓である。
 「娶すに、松子をもつてせり」
 その間の機微は、わからない。要するに俊斎、すなわち海江田武次は風雪のなかで無事生きのこり、維新後は、弾正大忠、元老院議官などに任ぜられ、松子は子爵夫人になり、お静も、しずかな余生を送っている。
なお次兄雄助は、薩摩藩工作のために西走したが、鹿児島についた三月二十三日、藩庁はこの桜田事件の関係者を到着の夜、早々に切腹させている。理由は幕府への遠慮であった。 

■清河の亡き妻へのやさしさ

<本文から>
 そのころ、清河は小石川伝通院裏の山岡の家で起居していたのだが、伝馬町の牢に手をまわしてお蓮の消息をしらべたところ、すでに先月、病死していることをはじめて知った。
(殺されたか)
 も、同然であった。獄中で一年も送れば体の繊弱な者なら十中八九は死ぬ。
 お蓮の獄死を知った夜、清河は山岡の女房に灯油を無心し、台所のすみを借りて夜おそくまで出羽庄内清川村の母親へ長い手紙を書いた。山岡の女房がその横彦を障子のかげからみたとき、ひどく子供っぽい顔だったという。
 清河がこのとき美しいひらがな文字で母にあてた手紙が残っている。
 −さてまたおれんのこと、まことにかなしきあはれのこといたし、ざんねんかぎりなく候。(中略)なにとぞわたくしの本妻とおぼしめし、あさゆふのゑかう(回向)御たむけ、子供とひとしく御恩召くだされたく、繰り言にもねがひあげ申し候。
 清河にはこういうやさしさがある。さらに筆をなめながら戒名も考えたらしく、
 −清村院貞栄香花信女とおくり名いたし候。
 と書き送った。
 が、その夜から数カ月後の文久三年二月八日、滑河は、幕府が江戸で徴募した二百三十四人の浪士団とともに中山道板橋宿を京をさして出発している。

■土佐幕末における藩主山内家への憎悪

<本文から>
 そのくせ武市は別として、彼等がはたして真実の天皇好きかどうかについては、弥太郎には疑問がある。
 かれら土佐郷土には奇怪な感情がある。藩主山内家への憎悪である。この憎悪は、どの土佐郷土の家系にも代々伝えられ、二百余年十数代つづいてきた。
 もはや種族的な憎しみになっているもので、かれらのたれもが、自分たちを山内家の家来だとはおもっておらず、長曾我部侍である、と思っていた。こういう藩はほかにはない。
もともと山内家というのは、他国者である。藩祖山内一豊が関ケ原の功名で遠州掛川六万石の小身から一挙に土佐一国を与えられたもので、藩祖一豊が本土からつれてきた連中の子孫が、すべて藩の顕職につく。
 長曾我部家の遺臣秤は帰農させられて、「郷士」の格をあたえられたが、おなじ藩士でも、上士から「外様」として蔑視されている。
 藩祖入国。のころは、かれらはしばしば叛乱をおこし、討伐されたが、最後には、浦戸湾の浜でわなを設けて大虐殺されたという史実がある。山内家から、国中の郷土(当時、一領具足とよばれた)に布令がまわり、相撲の大試合をするというのであった。力自慢の連中が、二日、三日の行程をかけて浦戸の浜にあつまってきたが、山内家ではその周囲に鉄砲隊を伏せ、一斉に射撃した。水中に逃げる者は、舟の上から槍で突き殺した。このとき殺された者は千人を越えた。
 その後、郷土どもは怖れておとなしくなったが、憎悪だけが残った。いま、専権がゆらぎはじめるとともに、その家系の連中が、
「われらは山内家の家来ではない。天皇の家来である」
 とさわぎはじめるのは当然であった。
 (それだけのことだ)
 弥太郎は、冷たい眼でかれらをみている。
 むりはなかった。岩崎家は、おなじ在郷の出ながら、先祖がめずらしく長曾我部家の遺臣ではなく、家紋は「三蓋菱」で、戦国のころ、長曾我部家にほろぼされた安芸氏の遺臣の家で、家伝に怨恨の伝説がなかった。

■吉田東洋は郷士であったが上士へ取り立てられたから暗殺される

<本文から>
 山内家入国後、長曾我部の遺臣から上士にとりたてられた数少ない家系のひとつで、いわば武市らと同種族なのである。
 (見誤った。・・・)
 東洋は、同種族だからこそ、自分の出身種族の叛意に複雑な腹立ちを覚えるのだろう。
 (あの男の家系が一介の郷土なら、薩長の人材よりもさらにすぐれた志士になっていたろう。吉田家は二百年、暖衣を着すぎた)
 しかもいまは栄達の極にある。藩主も隠居の容堂も、東洋を家臣とはみず、師弟の礼をとり、
 「東洋先生」
 とよんでいる。藩からこれほどまでの優遇をうけている東洋が、郷土どもにかつがれるはずがない。
 (斬るか)
 と、武市が決意したのは、この夜で軋る。
 武市は、田淵町の徒党から刺客八人をえらび、これを三組に分けた。

■逃げの小五郎

<本文から>
 桂とはそういう男だ、「わしの剣は、士大夫の剣だ」と、かつてこの男は幾松にめずらしく自慢したことがある。
 「士大夫の剣とはどういうことどす?」
 「逃げることさ」
 桂が塾頭をつとめた斎藤弥九郎の道場には六方条から成る有名な壁書があった。そのなかで、「兵(武器)は兇器なれば」という項がある。
 −一生用ふることなきは大事といふべし。
 出来れば逃げよ、というのが、殺人否定に徹底した斎藤弥九郎の教えであった。自然、斎藤の愛弟子だった桂は、剣で習得したすべてを逃げることに集中した。これまでも、幕吏の自刃の林を曲芸師のようにすりぬけてきた。池田屋ノ変のときも、この男は特有の直感で、寸前に難を避けた。あの日、集まることになっていた同志のなかでの、唯一の生き残りである。
 「わしは無芸な男だがね。これだけが芸さ」
 芸とすれば十日本一の芸達者だろう。どういう天才的な刺客も、桂の芸にはかなわな
「桂はんは、きっと生きてお居やす」
 と、幾松は、対馬藩の大島友之助に断言した。
 「わかるかね」
 「そんなこと。わからしまへんどしたら、幾松は桂のおなごやおまへんえ」
 幾松は、なん日も京の焼跡をさまよっては桂をさがした。失望しなかった。ある日、京の難民が多数大津にあつまっているといううわさをきき、
 (あるいは)
 と、出かけてみた。
 桂はいなかった。落胆して、京へもどる駕籠をさがすために町外れまできたとき、松並木の根方根方に乞食小屋がずらりとならんでいる。その小屋の一つをふとのぞくと、妙に祥のあたらしい乞食が、菰の上に大あぐらをかいてこちらを見ている。しきりとたばこをくゆらせていた。幾松は息がとまった。桂である。

■死んでも死なぬ井上聞多

<本文から>
 そのとき、葵の定紋入りの提灯をかざした警固役人が一人、見廻りにきた。高杉は気の早い男だから、
 「こいつ。−」
 と、抜き打ち、横ざまに斬っぱらった。が切先が及ばず、さらに踏みこむと、役人はよほど意気地のない男らしく、わっと逃げ出した(英国公使館の通訳官アーネスト・サトウの手記によると、「これらの警護兵は旗本の次男、三男からあつめた隊の看であった。みな両刀を帯び、兵は藤の草で編んだ円い平たい帽子、士官は饅頭型の漆を塗った木の帽子をかぶり、ハオリという外套を着、ハカマというペティコードみたいなズボンをはいていた」)
 と同時に、長州方も逃げ出した。もはや放火は成功した、とみたのだ。伊藤俊輔も百姓じみた短い脚をもつれさせながら、懸命に逃げた。にげるとなれば、俊輔が一番早かった。
が、属平づらの聞多はずぶとい。大胆な男ではないが天性、恐怖心がにぶく出来ていた。聞多はふと気になって五、六歩で踏みとどまった。
 もう一度、放火現場にひき返し、たんねんに調べてみた。案じたとおり、火が消えかけている。
 (いかんな)
 この男には、他の同志とちがい、思想というほどのものはないが、なによりも仕事というものが大好きだった。
 のしっ、と本館の中に忍びこんだ。そこからハメ板の切れっぱしや飽層をかかえてきてわらの上へのせた。その下に新しい火薬を一つ差し入れ、導火線なしで火をつけた。ばっと、勢いよく燃えはじめた。
 聞多は逃げた。ところが、暗いために方角を失い、柵の破れ穴が見つからず、やむなくやみくもに柵をよじのぼって、むこう側へ飛んだ。
 が、なかなか地上に着かず、体を叩きつけられてから気づくと、深い空濠の底に落ちこんでいた。普通ならば墜落死するところだが、聞多は、体中をさすってみたが、小骨一つ折れていなかった。なにか、そういうぐあいに体が出来ている男らしい。
 泥まみれのまま聞多は大いそぎで濠から掻きあがったが、なお逃げなかった。そこで濠ごしに火の燃えを注意ぶかく観察し、やがて火柱がどつと屋根をつきぬけるのをみて、しゃがんだ。
 このあと聞多は、脱糞して、逃走している。

■桂の倒幕の情熱は松陰の刑死体をみたときからはじまり、幕府の瓦解も始まった

<本文から>
 高杉は、企画家である。藩邸で数日、ぎょろぎょろと眼を光らせるばかりで、たれが来てもだまっているときが、この男のもっとも不気味なときだった。
 たとえば、御穀山焼打よりちょっとあとのことだが、雨の夜、
「俊輔、葬式をする。支度せい」
 と、命じた。俊輔は、へっとかしこまり、十人分の葬式衣裳と棺桶、車、などを、藩邸のなかを駈けまわってすばやく整えた。
 「整えましてございます」
 「よし。あすは松陰先生の門人一同でお葬式をする。お前も出ろ」
 と高杉はいった。この異常児は、だしぬけにいうから粗放なようにみえるが、じつはそうではない。ちゃんと藩の重役に、許可をえてある。しかもその許可折衝は容易なものではなかった。安政六年、江戸伝馬町の獄で幕更のために斬られた吉田松陰は、いわば幕府にとって乱臣賊子である。長州藩重役の一部では幕府に遠慮して、反対論があったが、高杉は、井上聞多をして巧妙に口説かせた。
 −聞多は、口説き上手じゃ。
高杉はそんな所を買っていた。かといって、聞多は松陰の門人ではなかった。このさい友人の物故師匠ということで、周旋をしてやったにすぎない。
 俊輔は、卑賎のあがりながら。も、門人のはしくれである。
 翌日、みなで出かけた。
 葬式、といっても、改葬である。松陰の死骸は、刑場の小塚原の土中にある。刑死直後俊輔は、桂小五郎の従者として刑場にゆき、幕更に懇験して棒詰めの死体をもらいそれを刑場付近に埋葬した。
 その死体の惨状をおぼえている。首胴が切り離されているのは当然としても、からだは下帯一つない赤裸であった。衣類は、幕吏が剥ぎとってしまったものだろう。
 俊輔は、師匠の首の髪をすいてまげを結ってやり、桂は、自分の補絆をぬいで師匠の胴に着せ、さらに同行した松陰の友人で藩の典医だった飯田正伯は、自分の帯を解き、黒羽二重の着物をぬいで、松陰に着せた。
 (おのれ幕府め)
 と、かれらは、慄える思いで、暴虐・酷烈な政府を呪った。桂小五郎にとって倒幕の情熱は、この安政六年十月二十八日の早暁の小塚原で、赤裸の刑死体をみたときからはじまったといっていい。さらにいえば、幕府の瓦解はこの朝からはじまったといえるだろう。

■数ヶ月前では烈士であった最後の攘夷志士は斬首罪人となった

<本文から>
 当時、二条城にいた浪士取締方の顕助は大いに驚き、即夜、川上邦之助、松林繊之助、
大村貞助を監禁した。
 「捕縄はせぬ。武士として遇するゆえ、かれらに連繋があったかどうか、ありていに申してもらいたい」
 「あった」
 と、三士とも昂然として答えた。なお攘夷志士としでの誇りをもっていたのであろう。
 新政府の刑法事務局では、英国側がこれらの一味の存在に気づいていないことを奇貨としてひそかに隠岐島へ送った。
 ただ、三杖と、死んだ朱雀に対しては極刑をもって臨んだ。
 かれらの士籍を削り、平民に落し、朱雀の死屍から首を切りはなして、栗田口刑場に梟した。
 同じ梟首台に、三枝の生首もならんだ。
 処刑の場所は栗田口であり、方法は、武士に対する礼ではなく、斬首である。
 梟首は、三日。
 ほんの数カ月前なら、かれらは烈士であり、その行為は天誅としてたたえられ、死後は、叙勲の栄があったであろう。
 かれらは、その「壊夷」のかどで壌夷党の旧同志によって処刑され、ついに永遠の罪名を着た。
 幕末、志士として非命に集れた者は、昭和八年「殉難録稿」として宮内省が編纂収録したものだけで、二千四百八十余人にのぼっている。
 そのうち、おもな者は大正期に贈位され、すべては靖国神社に合祀された。
 ただ二人、三枝と朱雀だけはそのなかにふくまれていない。

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