司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          馬上少年過ぐ

■継之助は朝廷中心の統一国家をつくる概念をただ一度も持ったことがなかった

<本文から>
  「時勢がかわった」
 とは、継之助はおもわない。継之助はすぐれた政治思想家であったが、たった一点において革命家ではなかった。
 なぜといえば、時勢に対して天下随一といっていいほど鋭敏な男が、「京都朝廷を中心として統一国家をつくる」という政治概念を、ただ一度も持ったことがなかったのである。この騒動は、
 「薩長の陰謀である」
 とした。事実、時勢がここまで来るには薩長が「陰謀」のかぎりを尽したかもしれないが、その陰謀は、家康が豊臣家をほろぼしたような戦国時代的な陰謀ではない。島津家、毛利家が将軍になる、というものではなく、新しい統一国家を作ろうとするものであった。
 それが継之助にはわからない。わからないのもむりはなかった。幕末の第二政界(第一政界を江戸とすれば、京都を中心とした)の二大勢力の一つだった薩摩藩の指導者西郷吉之助でさえ、幕末ぎりぎりの薩長密約の寸前までは「長州は毛利将軍をねらっているのではないか」という疑いをすてきれなかった。北越人の継之助がそれをはげしく断定するのは当然といっていいことであろう。
 それに、長岡薄というのは、徳川譜代の名門であるだけでなく、家租牧野康成は徳川十七将の一人で、その子である藩租忠成は、徳川氏発祥の地である三河牛久保の生まれであった。自然、藩士の家系は遠く三河に発する者が多く、三河武士団をもって任じていた。
 継之助の頭には、そういう環境的制約がある。もしこの男が、薩摩、長州、土佐にうまれていれば、あるいは西郷、桂、坂本以上の回天の立役者になったかもしれない。
 継之助は、東征大総督が京を発したときいたときから、「その背に翼がついた」といわれている。異常な行動人になった。
 「横浜の開港場を薩長の手でおさえられては、天下の事は終る」
 といって、官軍東下以前に昼夜兼行で横浜へ急行し、洋式兵器の買いつけをおこなった。 
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■継之助は武装中立を表明 時勢を転換させようとしなかった

<本文から>
 官軍の北陸道鎮撫総督が越後高田に入ったのは、慶応四年三月七日である。継之助が筆頭家老になった閏四月には、越後一帯に会津藩兵、旧幕軍衝鉢隊、桑名薄兵などが入りこんで、すでに各地で戦闘がまじえられていた。
 越後は、天領のほか十一藩に分割されている。
 最大を高田藩十五万石の榊原家とし、ついで十万石の新発田溝口家、三番目が長岡藩、つぎが五万九千石の村上内藤家、以下は三万石から一万石の小藩にすぎない。高田はいちはやく官軍に随順し、以下の小藩もこれにならったから、旗幟不鮮明なのは北越のなかで唯一の洋式武装藩である長岡一藩になった。
 継之助は、あくまで北陸道鎮撫総督を薩長の偽官軍と見、その見解を徹底させるため四月十七日朝八時、藩士の総登城をもとめ、藩主臨席のもとに訓示した。
 継之助の解釈では薩長を「天子を挟んで幕府を陥れた姦臣」とし、「わが藩は小藩といえども孤城に拠って国中に独立し、存亡を天にまかせ、徳川三百年の恩に酬い、かつ義藩の嚆矢なるつもりである」というものであった。かといって、会津藩が奥羽連盟に加盟して共に戦おうと追ってきても応ぜず、あくまでも、
武装中立を
表明し、動かない。
 このあたりが継之助の限界というべきものであった。この明晰な頭脳は、時勢の解釈には適していたが、あくまでもそれにとどまっている。薩長の首脳は、時勢を転換させようとし、会津藩はあくまでも徳川中心の政体にもどそうとしている。どちらもいわば国家論的な発想から出たものだが、継之助の場合は、自分がその武装に熱中してきた長岡一薄だけが念頭にあり、この藩を亡んだ徳川幕府をとむらう最後の義藩に仕立てることだけが、いわばかれの世界観であった。長岡藩は、軍制、民治とも継之助の独創によってうまれかわった藩で、いわば藩そのものがかれの作品であった。
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■北国第一砲兵団によって継之助は平衡を失った

<本文から>
 「わが藩は北国第一の砲兵団をもっている」
 というのが、すべての自信の根源になっており、そこからさまざまの希望が生れた。かつての久敬舎の無隠がきけば、おそらく信じられないほどに、継之助の頭脳は平衡をうしなっていた。むろん、継之助自身は自分に変化がおこったとは思わない。継之助が久敬舎で知った奈翁がその強大な砲兵団をもったときに世界制覇を考えたように、継之助の腹中には二十七門の新式砲がずっしり入っており、すべてその腹中の巨砲群が、藩の前途を考えた。恫喝的な嘆願書を出したのもこの砲であり、予想どおり官軍を敗走させたのも、この砲の群れである。
 ところが、一方、長州藩士三好軍太郎指揮のもとに海道方面を担当している官軍部隊は、予定どおりの進撃をつづけ、十五日出雲崎に入った。山県はこの部隊を長岡攻撃に使おうとおもい、急行して三好と打ちあわせた。
 これが思いがけない奇功を生んだ。十九日払暁、長岡方にとっては不幸な濃霧が信濃川流域に満ちた。気がついたときは、濃霧の中から官軍二千が不意にあらわれ、ついで第二軍が渡河した。不意を打たれてこの方面の長岡方の部隊が潰走し、城中に逃げこんだ。官軍はそのあとを追い、三方から城下に突入し、大手口にせまった。
 継之助は、山本帯刀の隊をひきいて戦場へかけつけ、みずから速射砲を操作してその六つの小砲口からさかんに砲弾を敵にむかって浴びせかけたが、一弾左肩をくだいた。
 やむなくいったん城中に入ったが、味方の主力が城外陣地にあるためにカ及ばず、敗兵をまとめて城を出、栃尾へ退却した。たちまち官軍の放火で城下の町々は一団の火になって燃えあがり、火はやがて城楼に移り、またたくまに城郭のすべてを包んだ。
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■小藩足利藩の幕末 絵師・草雲の働き

<本文から>
 そのうち、上方の鳥羽伏見で、薩長土三藩の兵と幕軍とが衝突し、幕軍はやぶれ、将軍は江戸へ逃げもどったという。
 「草雲、たのむ」
 と、藩主は、手をつくようにして頼んだ。このときから足利藩の兵馬の権は、一介の絵師田崎草雲がにぎったといっていい。
 草雲、五十二歳であった。
 かれの「妙策」は、おそらく足利なればこそできたのであろう。なぜならば、この地は小藩の所領ながら、天下の機業地であるために富裕な商家が多い。
 草雲は、「誠心隊創設趣旨」というものを書き、藩主の名をもって領内に布告した。
 新設の「誠心隊」に応募すれば、その出身の如何を問わず、士分に取りたてるというのである。士分というのは、むろん足軽ではない。お目見得以上の侍のことだ。
 「ただし」
 というのがつく。新式元込銃、大小、その他の軍装は自弁せよ、上いうのであった。
 廉いものではない。銃が二十五両、弾薬が三両、その他大小や華美な陣羽織などまで買うと、二首両にはなる。
 草雲は、かれの絵の顧客である富商の家々をたずね、その子弟を「侍」としてお取立て願うようにせよ、と説いてまわった。
 みな、大よろこびで応募し、その数は二百人を越えた。
 草雲は人をやって横浜からどんどん銃器を買入れ、それをみなに買わせた。
 隊長は、草雲である。
 隊士の軍装は、服こそ筒袖、だんぶくろだが、全員上士だから絢爛たる陣羽織をはおり金銀ごしらえの大小を差し、頭には、裏朱栗色に金紋を打ったそりびさしの陣笠をいただき、あごを絹の自緒で締めている。
 「みろ、まるで旗本だな」
 と、草雲は、その調練の第一日に馬上から手をうってよろこんだ。
 そのうち、幕府瓦解とともにあちこちで土匪がおこったが、草雲は馬上、これを率いて各所に鎮圧した。
 草雲は大得意であった。
 (お菊に見せてやりたい)
 とおもった。
 (お菊、考えてみればおれは絵師でも武芸者でもなかった。これだよ)
 関八州の野で、これだけの銃器をそなえた軍隊はほかにない。草雲は馬で馳駆し、銃隊を指揮し、一斉射撃を号令したりしつつ、自分があたかも戦国武将であるような思いがした。
 顔まで、かわった。
 険がとれ、おだやかになった。本来の草雲が、草雲のなかにやっと誕生したせいかもしれなかった。
 その後ほどなく、将軍恭順中の江戸にいる旧幕府歩兵千八百が新政府に従うことをいさぎよしとせず、歩兵差配役頭取古屋作左衛門に率いられて江戸を脱走し、関東を武力制圧しようとした。
 なにしろ、仏式装備の大軍で、その北上に関東諸藩はふるえあがり、忍藩などは城門をひらいてこれを迎えた。
 古屋軍は、さらに武州羽生に兵を進め、足利藩を攻撃しようとした。
 その金穀を奪って軍資金を得るつもりだったらしい。
 そこで古屋作左衛門は足利の町に斥候をはなち敵情をさぐらせると、報告はことごとくおどろくべき事実をつたえた。
 町をかためているのは、裏朱栗色陣笠の士分の者ばかりで、その数は二百人以上はいる。士分二百といえば五、六万石の藩の軍容とみていい。当然足軽もいるはずだから、想像するところ、五百以上の人数を擁しているのではないか、というのであった。
 「足利戸田家は、たかだか一万石だが」
 と古屋は信ぜず、みずから斥候に出かけ、その目でたしかめてさらに驚いた。上士全員が洋式銃隊員であり、その銃は元込、推ノ実型の弾の出るミニェー銃であった。
 古屋は、作戦を変更し、後続部隊の来るのを待つために、足利の東南一里余の梁田の宿に陣を布き、足利藩には使いをやって陣屋明渡しを命じた。
 藩では、降伏論も多かった。相手は千八百の大軍で、戦さにはならない。
 が、草雲は反対し、古屋軍に対しては巧弁の者を使者として送り、
「おおせのごとく致しますが、なにぶん藩論定まらず、藩内は不穏の状態にあります。それを統一したうえで城をひらきたい」
 と申しのべさせ、日時をかせいだ。
 すでに、土州藩士板垣退助が率いる官軍東山道鎮撫軍が、甲州勝沼で近藤勇の軍を破って東進し、高崎に達しょうとしていることを草雲は知っている。
 戊辰の年、三月三日のことだ。五日、はたして官軍の先鋒の一小隊は、館林に入った。
 草雲、それへ連結をとるためにただ一騎足利を出、古屋軍の本拠地の染田に入り、たくみにたばかりつつ、宿場を走りぬけ、館林へむかおうとした。このとき古屋軍がそれと知り、銃隊百人で草雲の背後から射撃し、一発は鞍に、一発は刀の鞘にあたったが、無事、館林への街道を駈けぬいて官軍と連絡をとった。
 三月八日朝、土州、薩州、長州、大垣、彦根の諸藩混成の官軍部隊が染田で古屋軍と会戦し、潰走せしめている。
 「草雲、そちのおかげだ」
 と、藩主が手をとって礼を言った。
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■万海の生まれかわりが伊達政宗であると演出

<本文から>
 その万海のうまれかわりが、政宗であるという。このいかにもこの当時の奥羽の山国らしい説話は政宗のこどものころから流布され、家中や領民の表ではつよく信じられていた。政宗が城外へ出ると、老婆などがまろび出てきて神仏のように拝する者があった。これにも、はなしがついている。輝宗夫人於義が懐妊したころのことである。慣例によって安産の加持祈祷を行者にたのんだ。行者は湯殿山に「巣をもつ」ちょうかいという獲眼のおとこで、弟子をひきつれて米沢城にあらわれ、夫人の産褥で加持をし、つづいて夫人がつかった残り湯を銀器におさめ、法螺貝を吹いて北方の山へ去った。かれらは月山にのぼり、湯殿山にくだり、残り湯を加持し、権現に祈祷したところ、権現が感応したか、ある夜、夫人がねむる棟にひとりの修験者の霊がくだり、夢のなかに入り、北ノ御方、北ノ御方、とよび、ねがわくは北ノ御方の御胎内に入りたい、という。蓬髪が銀線のようにかがやく赤ら顔のおとこで、手に梵天をもち、目はひとつしかない。梵天は切り紙でつくられたまりのようなものに柄がついている。男根の象であった。修験者はいう、拙僧は万海である。
 万海はともすれば夫人の据のほうにまわろうとした。夫人この奇におどろきつつも自分は輝宗の妻である、輝宗のゆるしを得ねば貴僧をわが胎内にむかえることができないと言うと、万海は無言でうなずき掻き消えた。翌朝、於義はこの夢のことを輝宗に告げると、「コレ、瑞夢ナリ、ナンゾ不許哉」といった。翌夜、ふたたび修験者があらわれ、昨夜とおなじことをきいた。於義はこれをゆるすと、修験者はよろこび、手にもった梵天を頭上にささげ、於義の胎内に入れ、「胎育シ給エ」といって消えた。月がみちてうまれたのが、童名梵天丸、通称藤次郎、いみなは政宗という伊達家の長子だというのである。
 この出生伝説を、乳母の喜多ほど細心に語った者はいないであろう。ひとにも語り、政宗にも語ってきかせた。
 「万海は、一つ目だったのか」
 「一つ目が、神の証拠でございますよ。二つ目は常人、一つ目は異人でございます」
 奥州の民俗には、あるいはそういう神秘感覚があったであろう。不具者は尋常でないためにその印象は神秘であり、不可知なものに通じている。
 乳母の喜多は、それをいうことによって改宗をはげまそうとした。政宗は喜多のいうことならたいてい信じたが、しかしこの伝説は自分にとって重大すぎた。母上にきいてたしかめてみたい、といったとき、政宗はこのときほど喜多がこわい顔をしたのを見たことがなかった。
 「それはなりませぬ」
 いかに神と人との媾合であったとはいえ、男女の機微をその母にむかって訊ねるほど子として不孝なことはない、と喜多はいった。政宗は喜多の血相におそれをなしてついにこのことを口にすることがなかったが、晩年、わずかに察することがあった。あるいはこの出生伝説は喜多が創作したものではなかったかということである。喜多は噺が上手であった。幼童の政宗がせがむと、
 「山の大きな瓜が」と、両手をひろげ、「里へおりてきて、その日は暑いのなんの。笠が欲しやほしやと泣きながら歩きまいての」
 などと、すぐさまに噺がつくれるらしく、ときにはその噺がつぎつぎに発展し、何日もつづき、おさない政宗を昂奮きせた。政宗の出生伝説も、そういう喜多の才能の所産だったのではないかと老いた政宗にはおもいかえきれるのである。晩年、改宗は、
「おだてられると、ときに人間は人変りするものだ。喜多というおだてぬしがいなければ、わしは世にいなかったかもしれない」
 とよくいったが、改宗は少年期がおわるころにたしかに梵天丸のころのかれではなくなっていた。喜多におだてられ、自分というこの男に神秘を感じ、それを信仰し、常ならざる使命感をもつにいたったのかもしれない。
 政宗は、どの程度信じていたか。もっともこの男はその晩年、「一世の行人万海上人」のうまれかわりであるという個人神話を、かれ自身、一度だけ演出したことがある。その死がきわめてさしせまっている年のことである。
「経峰にのほりたい」
 といった。経峰というのは、万潅が海にあるころ黒沼のほとりで写経をしたその経巻を死の前にうずめた峰で、後人がこれを経峰となづけた。かれのいうところではその経峰へのぼってほととぎすの初音をききたいという。新緑のころである。
 このほととぎすの初音をきくという風雅は改宗にとって欠かさぬ年中行事のひとつであり江戸にいるときも国にいるときもこれをやめず、政宗がこれを廃した年は不吉な事が多いと家中ではいわれるようになっていた。されば恒例のことかと側近もおもい、気にとめなかった。
 老臣奥山大学以下が、供をした。すでに老衰している政宗は、山駕籠を用いた。山駕龍は新緑のなかをくぐって崖をゆき、谷を降り、さらには尾根をつたってのぼったが、日が早かったのか、ついにあの裂くようにはげしい啼きごえを聞かなかった。政宗は駕寵から降り、経峰のいただきに立った。
 −しばらくたたせられたが、急に心細きご様子をなされて。
 と、この瞬間の改宗を、いう。霊感が政宗の面上にきざなみだっているということをそのような表現でいっている。
「大学、ここがよい」
 と、政宗は杖で地面せたたいた。自分が死ねば遺骸をここにうずめよ、ながく伊達家の鎮護たらん、というのである。奥山大学は意外な政宗の言葉にとっさは返事ができず、
「五官八十年のちには」
 と、答えた。そういう、数字を用いたのは不吉を祓うためであった。
 政宗の死後、このときのことばによってその遺骸をうずめるべく経峰のその場所を掘ったところ、十尺ばかりの地下から大きな石ぶたが出てきた。とりのけると、なかは土地のことばでいう空洞であり、その底に糸の切れためのう製の数珠、朽ちた袈裟、衣、それに錫杖が横たわっていた。土地の者にきくと、万海上人の警あるという。
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