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<本文から>
「時勢がかわった」
とは、継之助はおもわない。継之助はすぐれた政治思想家であったが、たった一点において革命家ではなかった。
なぜといえば、時勢に対して天下随一といっていいほど鋭敏な男が、「京都朝廷を中心として統一国家をつくる」という政治概念を、ただ一度も持ったことがなかったのである。この騒動は、
「薩長の陰謀である」
とした。事実、時勢がここまで来るには薩長が「陰謀」のかぎりを尽したかもしれないが、その陰謀は、家康が豊臣家をほろぼしたような戦国時代的な陰謀ではない。島津家、毛利家が将軍になる、というものではなく、新しい統一国家を作ろうとするものであった。
それが継之助にはわからない。わからないのもむりはなかった。幕末の第二政界(第一政界を江戸とすれば、京都を中心とした)の二大勢力の一つだった薩摩藩の指導者西郷吉之助でさえ、幕末ぎりぎりの薩長密約の寸前までは「長州は毛利将軍をねらっているのではないか」という疑いをすてきれなかった。北越人の継之助がそれをはげしく断定するのは当然といっていいことであろう。
それに、長岡薄というのは、徳川譜代の名門であるだけでなく、家租牧野康成は徳川十七将の一人で、その子である藩租忠成は、徳川氏発祥の地である三河牛久保の生まれであった。自然、藩士の家系は遠く三河に発する者が多く、三河武士団をもって任じていた。
継之助の頭には、そういう環境的制約がある。もしこの男が、薩摩、長州、土佐にうまれていれば、あるいは西郷、桂、坂本以上の回天の立役者になったかもしれない。
継之助は、東征大総督が京を発したときいたときから、「その背に翼がついた」といわれている。異常な行動人になった。
「横浜の開港場を薩長の手でおさえられては、天下の事は終る」
といって、官軍東下以前に昼夜兼行で横浜へ急行し、洋式兵器の買いつけをおこなった。 |
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