司馬遼太郎著書
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          二十世紀末の闇と光

■織田信長から近世

<本文から>
司馬 だから織田信長から近世を始められると言うわけでしょう。これはなかなかの見識だと思いますね。
山崎 織田信長は「天下布武」という旗をかかげて京都に進出し、そして全国政権を作る基盤を京都に作りますね。完全に日本の隅々まで押さえたかどうかは疑問ですが、すくなくとも足利幕府のやれなかったことをやった。それ以後、豊臣秀吉が京都を継承し、徳川家康は江戸を開きましたが、一貫して言えることは都市に政権ができたということです。政治と経済が結びついて一つの都市が日本の中心になっていく。そのへんが私は近世の始まりじゃないかと思うんです。すると、信長をもって始めるというのは大変わかりやすい。
司馬 たしかにそうですね。信長という人は楽市楽座という商工業の自由というスローガンをかかげて版図をひろげましたね。それに、諸国の地停に打撃を加える。この政策は、秀吉にも引きつがれます。地侍は名子という農奴同様の被隷属者をひきいている存在です。ともかく信長は都市を考えた。彼は当座やむなく京都に腰をおろしていましたが、やがては大坂へ引越すつもりでした。だから大坂の石山本願寺に立ち退きを命じて戦争になった。スペインでいうと京都はマドリッドで、内陸にあるわけです。内陸じゃよくない。信長に接触した西洋人のほとんどはポルトガル人でした。ポルトガルの本国のリスボンも首都でありかつ貿易港ですし、その東洋での策源地のゴア(インド)もマカオ(中国)も海港です。それで大都市もしくは行政の都市は沿岸に設けるべきだというのが大坂進出の理由だったと思いますね。
 首都が港を兼ねるというのは豊臣秀吉が継承するんですが、秀吉ははっきりと意識的でした。家康は東海地方で根っこのはえた大名だったのに、夜店の植木屋の植木みたいに関東に移した。他の大きな大名も、たとえば浅野氏が広島を開きます。ことごとく沿岸に設けたというのは、信長のヒントによって秀吉が継承し、家康の時代に花が開いたということですね。
 近世≠フ日本の大都市がほとんど沿岸に発達したことが、江戸という商業時代の一つの特徴を形づくつたと思います。これがマドリッド型の内陸都市だったとしたら、江戸時代はまったく違う展開をしていただろうと思いますね。 
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■西郷は高い意味におけるジャーナリスト

<本文から>
司馬 たしかに西郷というのは何世紀に一人も出ない、しかも人間のどういう分類にもあてはまらない、どこか格が上という感じの人物でございますね。むしろかれから出てくるのは、格調というか響きの高さといったものですね。魅力があって、幕末にあれだけの志士を集めて一つの大勢力になっておった。幕末の西郷というのは京都におって、故郷の大久保一蔵に手紙を出す。まあ、ピッチャーとキャッチャーの関係ですか。あの手紙なんかを読みますと、描写力といい、表現力といい、分析力といい、もう超一流のジャーナリストの感がありますですね。わたしなんか、西郷が今日の社会で職業として適する職業があるとしたら、西郷のたくさんある可能性のなかで、ひじょうに高い意味におけるジャーナリストだろうと思うくらいです。これはまあ、ご異論があると思いますけれど…。ところが明治になってしまうと、印象としてはでくの坊になる。その間に、われわれふつう疑問題に思うのは、討幕までの西郷には、はっきり討幕という目標があったけれど、そのあとの政体とか政治についてのビジョンが、かれには近代的な意味でなかったのじゃないか。西郷のなかではちゃんと調和のとれた姿で存在していて、一種の儒教的を王道楽土、尭舜の世界といいますか、そういうものを夢みていたんでしょうが、現実の政治をどうする、こうするということはなかったのじゃないか。そこでいよいよ新政府が実現してみると、何もかも、とにかく全部気に入らない。どこが気に入らないのか、人にもわからない。
「それならば、あなたはどういう政治を望むんですか」といわれたら、はっきり西郷には出てこないのではないか。
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■十津川という所

<本文から>
司馬 昔の南北朝のときも、北軍がやってこなかったくらいですから、そこまで逃げればもう大丈夫です。十津川というのは面白い所で、面積が昭和初年の旧東京都ぐらいの大きさのある村なんです。峨々たる山がありまして、橋は全部吊り橋で、ネコのひたいほどの平地もない所です。幕府の体制では百姓としか見ていないが、一村全部が郷士と称している。神武天皇のときからだという。ご東征のとき、十津川から神武天皇が大和盆地に入る案内役をやったというんです。まあそれは伝説ですから別ですが、壬申の乱にも出てくるんです。京都に乱が起こるたびに兵隊が足らないと「十津川から呼べ」ということで、南北朝にも出てきておる。それから天誅組にも千人ばかり十津川兵が出て来ている。世の中には不思議な所もあるものですね。どこの領地かというと天領で、免租地になっている。それも有難いからというのではなくて、米がないから租税なしです。だから直轄領だけれど、五条代官所の支配になるんですが、自分たちとしては天皇の直参だと思っている。一村全部が士族だったのですが、これは明治推新で十津川の奴らには何もやらなかったから士族にしてやれというので、全部士族になった。それまでは別に侍じゃないんです。田中光顕はだから十津川なら匿ってくれるというわけで逃げた。十津川の前田という家に逃げ込んだ。ここの前田家というのがちょっと知合いだったんでございましょうが、そこに京の風雲がおさまるまでいた。その後、話はずっと下りまして、彼が宮内省の高官になったとき、爵位というのが決まりましたね。十津川の前田にもやろうとした。それは本当の情実で、自分をあの時期匿ってくれたから男爵ぐらいやろうと、役人を調べにやったら村中に知れわたって、村中が怒りまして、前田さんを川原へ呼び出して袋叩きの目にあわした。十津川という所はえらい民主的な所で、言葉の階級がないんでございます。大きな家の者も小さな家の者も敬語を使わずに、平等な言葉を使う。だから一村平等ということをしょっちゅういっている。前田さんを攻撃して、一村平等でやっておる、勤皇活動も壬申の乱以来一村平等でやっている。そして何の恩賞ももらわなかった。もらわないのが伝統である。ところが全部がもらうならともかく(笑)、お前だけがなんでもらわなくてはならない。そうしたら、前田さんが、いや断わるといって勘忍してもらった。結局男爵は沙汰やみになりましたが、田中光顕という人はしぶといところがあって、その後前田さんが陸軍に入り、少将になって日露戦争で戦死した。少将で戦死というんで男爵にした。これならもう文句はないだろう。(笑)
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■龍馬は十九世紀の世界の動きの根本原理を把握

<本文から>
 もっとも亀山社中を思いつくのは、その商品経済意識からじゃなくて、やっぱり勝海舟に啓発された結果だと思います。海舟というのは結局アメリカでしょう。成臨丸でアメリカへ行き、その大統領制度や政治制度はすばらしい、貴族はいないし、誰でも大統領になれる、ということを知って帰って来た。
芳賀 これは大発見でしたからね。
司馬 幕末最大の発見じゃないでしょうか。勝がこのことを広めてまわり、当時としては一番の思想家だった横井小柄がそれに感動するわけでしょう。小楠という人は漢文屋さんですから、多くは耳学問で世界を知るわけですが、勝の話を聞いて「それは尭舜の世のようだ」と言って感動する。そして勝の話は同時に若い坂本龍馬を感動させる。後年、討幕の決断をすべきだと、龍馬が長崎で木戸孝允にハッパをかけるときに、「将軍は下女の給料の心配をしたことがあるか」と言うんですが、それはアメリカ大統領のイメージと徳川将軍とが重なっているんですね。
 ですから、幕末の開明思想というのは、アメリカがもとで、勝が卸問屋、龍馬が小売屋といった形で広がっていく。龍馬はよく営利の意味で「射利」という言葉を使いますが、これこそが正義である、「射利」こそ世の中を変えていくものだというんですね。従来の侍意識で言えば、それは卑しいものだとされていたのが、そうじゃない、射利が意識を変え、体制を変え、国を変えたりするものだ、だから俺は射利をやる……そのことが結局亀
山社中に結びつくわけでしょうか。
芳賀 要するに龍馬は十九世紀の世界の動きの根本原理を把握したということですね。
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■龍馬は国内での政争は日本のマイナスであるということを痛感

<本文から>
芳賀 でも決断が早いし、目先きがきくから、アメリカあたりだと、かなりいい会社の社長ぐらいにはなったという感じがします。
司馬 アメリカに行ったかもしれないなあ。多少の哲学性と思想性もありますから、アメリカに行けば通用します。
芳賀 アメリカに行けば三十年ぐらい生き延びて、ロスチャイルドとかロックフェラーとかまではいかなくても、カリフォルニアあたりでかなりいいところまでいったかもしれない。それに「リョウマ」なんて、アメリカ人でも発音しやすい名前です。(笑)
 そのあたりが中岡慎太郎と違うところで、先ほどのお話にもありましたが、「対外商業が第一で、政治のほうがおくれている。おくれを早く片づけろ」と龍馬が言ったときに、日本国内でいつまでも政争を重ねているのは日本全体にとってマイナスである、ということを痛感していたんでしょうね。
司馬 それははっきりと感じていて、マイナスだけしかない、財産をすりつぶすだけだ、と。
芳賀 もともと乏しいのをわざわざ国内の争いですりつぶすよりは、そんな争いは早く片づけて日本の国としてまとまって西洋を相手に商売しなきやいけないんだ。
司馬 商売をすることによって社会が西洋化する。身分社会もなくなる。株式会社というのは、民主主義そのものですからね。そういう革命方式なんですね。
芳賀 経済からのなしくずし方式ですね。
司馬 ところが西郷の場合は、西南戦争の前によく人に言ったそうですけれども、「戊辰戦争は一年で片づいた。為れは十年はやるべきだった。焦土になって国土が灰だけになったときに精神は延るんだ」と。
芳賀 毛沢東ですね。吉田松陰もそうですが、一度「陸沈」に、つまり焼土にしなければとっても持ち直すまいという…。
司馬 結局、焼土にしてしまえという革命家と、そうじゃなくて、ガサガサとやればけが人なしでうまくいくじゃないかという革命家とあるわけで……。
芳賀 後者はボンサンス(よき感覚)のほうですね。
司馬 ボンサンスです。けれどもボンサンスは歴史上旗色が悪いでしょう。
芳賀 ただ輝かしい成功はないけれども、結局歴史は長期的にはボンサンスで動くんじゃないですか。
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