司馬遼太郎著書
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          長安から北京へ

■万暦帝の地下宮殿の異常さ

<本文から>
 しかしながら、若い万暦帝のおかしさは、本来、単に伝統にしたがう程度でしかない葬送の形式を、あらためて根元(死後に現世同然の生活をするという)にもどり、自分でそれを確かめるがように皇帝の事業として死後の宮殿の造営をやったことである。十六世紀人であるかれも、伝承されてきた死後世界について当然、疑わしく思う半面があったにちがいない。そういう半面があればこそ、逆にいこじになって死後の生活のための宮殿を自分の手で作って自分の目でたしかめておきたいと思ったのかもしれない。
 それが、いまは人民のためのいわば遊園地になっているのである。
 私どもは、地下におりた。階段が、二百段とか三百段とかときいたが、おぼえていない。
 降りきってしまって最初に床を踏んだとき、素人の私の目にもそれがとびきり上質の白っぽい大理石であることがわかった。壁も天井も大理石であり、宮殿の一室から一室へゆく道路は、大埋石の石材をアーチ型に組みあげられたなかを通ってゆく。そのアーチ型の穹洞の大きさは、そこを通りながら天安門の下のそれと印象としては同じぐらいの大きさではないかと思ったりした。
 大きな大理石の扉もあった。その扉を開閉させるための横木は、日本の百姓屋敷の梁ほどにふとかった。しかも材木ではなさそうだった。「あれは、銅です」と厳氏が指さしてくれたのでよくみると、そのくろぐろとした材は、質感がたしかに銅で、銅のかたまりであった。
「あの銅だけで、十トンあります」
 と、厳氏がいった。
その扉の入口をくぐってひろい部屋に入ると、他とおなじくすべてが大理石ながら、むし中国風に白玉でつくられているといった感じで、いかにも色彩にとぼしい死後の世界らしくひえびえとしている。部屋の中央に、豪華な白玉製の長イスが三つ置かれていた。一つは万麿帝の生母のものであり、二つは皇后と夫人がすわるためのものであった。
 その奥が、棺がおさめられてあったもっともひろい部屋で、万麿帝の死後の居室である。
 この地下宮殿の建物としての全体の大きさは、ひょっとすると京都駅前の丸物百貨店よりも大きいかもしれず、むろん建築材は丸物百貨店などおよびもつかない。大理石の感触による連想のせいか、歩きながら、ヴェルサイユ宮殿をおもい出した。この地下宮殿よりも百年後に完成したヴェルサイユ宮殿は、いうまでもなくルイ十四世がフランスの繁華と権勢を象徴させるために完成させたものである。ともかくも他に対して誇示し、他に何らかの衝撃をあたえるためのものであり、もし誰も見てくれなければヴェルサイユ宮殿というのは意味をなさない。それが常識であり、自然なことである以上、万麿帝のこの地下宮殿は異様である。
 だれに見せるためのものではなく、死者になった万麿帝だけが見るべきもので、見ることを刑罰をもって激しく拒絶している建造物なのである。これを建造するのに、八百万両(明朝の歳出入の経常費は四百万両)もかかった。日本歴史に、かつてそれだけの建造物は、むろん存在しなかった。
 ただ一人が、誰にも見せずに、そして権力の誇示という政治上の効果にもまったくならない建造物を、国家の経常費の倍もかけて地下に造り、あとは土を盛りあげて埋めてしまうという異常さは、古代ならばともかく、十六世紀に中国では平気でおこなわれていたのである。しかも、中国の史家は、いまもむかしも万磨帝が気儀な専制君主であったことは言っているが、その精神が医学的に異常だったということもいっておらず、かれが地下に宮殿をつくるという異常な哲学をもっていたともいっていない。万麿帝は中国の近代以前の皇帝としては普通の人物で、ただ政治に倦み、重税を平気で課し、やることはすべて賓移にわたったというだけの、ことなのである。
 そういう意味で、万暦帝は異常ではなかった。かれは中国の皇帝の伝統どおりの思想と慣習どおりに陵墓をつくっただけであり、その陵墓がすこし贅沢すぎたというだけのことで、精神の異常者でも畸形な美的感覚のもちぬしでもない。
 だからむしろ歴史的中国のほうに、異常さを感じざるをえない。むろんこの正常・異常の感覚は、日本社会の規準からいってのことで、たとえば同時代のロシアからいえばべつな規準を考えねはならない。
 (中国は、ながいあいだ狂っていたのだ)
 と、この場、仮に思ってみることにした。貧乏国の感覚からいって、そしてそれを仮の規準として、ことさらに中国のほうが狂っていた、という極端な映像を脳裡で結んでみることにしたのだが、むろんこの映像を結ぷについては、たとえば歴史的中国には専制と皇帝の権威を示すための巨大建造物は、広大な領域と多種類な民族を擁するために政治的に必要であった、という真っ当な説明は、わざと通用させずにおかねばならない。要は、搾取ということである、搾取というものの規模の大きさに、この地下宮殿をみて驚いてしまい、狼狽のあまり中国はどうかしていたのではないかと思う以外、小世帯の国からきた者としては衝撃を吸収する方法がないようにさえ思うのである。
 むろん、万磨帝がやった大普請はこの地下宮殿だけでなく、これが完成すると、紫禁城の皇極殿、中和殿、建殿という三大建造物が火災に遭ったためにそれを再建しはじめ、完工までに三十年以上の歳月と、千万両ほどの銀を消費した。そのほかにかれの生涯においては豊臣秀吉軍との朝鮮における戦いがあり、北方のモンゴル人との戦い(ポ拝の乱)、南方の楊応竜の薮乱の鏡定といったふうにいわゆる三大征があった。ところが明室の財政を傾けたといわれるこの三大征でさえその費用は地下宮殿のそれの倍程度であり、紫禁城の三殿の普請とほぼ同額程度だった。 
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■中国では政治とは人民のためのもの、日本にはない

<本文から>
 逆にいえば王朝が衰弱するのは干魅などの天災による流民の大量発生ということによる場合が多く、要するに歴史時代の中国の為政者は、人民が飢えることをもっともおそれねばならず、それをおそれぬ政権はやがてはほろびた。この点、日本はモンスーン地帯にあって水が豊富なために流民が十万、百万と彷復するような現象が成立しにくく、歴史上のどの政権も人民の飢えということを自己の政権の盛衰の問題として戦慄的に考えるということはなかった。たとえば、銀閣をつくった足利八代の将軍骨はその在位中に応仁・文明という天下大乱があったが、かれは京にあって無けなしの権力とわずかな金銀の上にこぢんまりあぐらをかいて庭造りなどをしていた。かれだけでなく、将軍という為政者は鎌倉、室町、江戸を通じ、大名対策をおこなう存在ではあったが、人民をなんとか幸福にさせたいなどという思想は本来、絶無にちかいものであった。中国では紀元前から曲りなりにも政治とは人民のためのものであり、人民を離れて政治思想はないという伝統が継続してきたが、日本の歴代の権力にはそういうものがほとんどない、と言いきってしまっても本質を外れることはない。
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■血族の倫理が会「公」に優先する儒教の本場の中国や韓国

<本文から>
 しかし申維翰の国や、儒教の本場の中国ではそうは簡単にいかなかった。
 儒教は、村落秩序の原理でもある。孝は子の父親に対する倫理だが、しかしながら父親からさかのぼって先祖に対する孝もまた当然同心円の中にふくまれる。さらには村落内の同族の長老に対しても孝は父親に対すると同様に作動し、ついにはその姓の者が何百万いようともみな親類であり(同姓の者が何百万いようともすべて同じ骨肉であるため、同姓同士は結婚できない。韓国や台湾にあっては、いまもそうである)、骨肉の仲である以上、同姓の長者に対しては父親に準じて孝の礼をつくさねばならない  でなければ野蛮人である−というところにいたる。漢民族や朝鮮民族のほとんど特徴ともいっていい、つよすぎる民族意識というのは多分に儒教に根ざしたものといってよく、この二つの民族が長い歴史の興亡に耐えて四散することがなかったのも、多くはこのことに拠っている。
 同時に、儒教は近代国家の成立と決して噛みあうことがないという奇妙な生理をもっている。
 儒教はその本質が同血の秩序を倫理化したものである以上、私が絶対に優先する原理であるといっていい。
 韓国がなお儒教をもって国をたてているために、仮にそれを例にするとすれば、私が石油関係の役人になったとする。そこへ見たこともない伯父(たとえば八等親ぐらいの)がステッキをふりながら訪ねてきて石油の利権をよこせといった場合、これを公の立場からにべもなくことわることは、すくなくとも道徳的には背徳になるおそれがある。まして等親の近い伯父がそれをたのみこんだ場合、拒否すれは「私」を優先させなかったということでその伯父が四方八方に悪口をいってまわってついに石油関係役人である私は没落せざるをえないかもしれず、この場合、保身の上からも倫理的にも、伯父に服して汚職するほうがより多く儒教的正義ということになるようである。
 在日韓国人には、実業家や技術者が多い。かれらは多量に祖国愛をもっているのであろう。しかし韓国の産業や技術はなお発展の途上にある。そういう状況から、これらのひとびとが祖国のために会社や工場ぐるみ帰国して国家の繁栄に資することは当を得ているように思うのだが、独立後、そういう例はほとんどなく、あっても永続きしていない。その理由は愛国心の欠如にあるものではなく、儒教的社会にある。血族の倫理が会社という「公」に優先しがちな−むしろ優先するほうが正義であるという−社会にあっては、親顆禄者がやってきて食いものにしてしまい、枝葉だけでなく根まで枯らせてしまうおそれがあり、そのことが、企業ぐるみの帰国をはばんでいるように思える。
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■少数民族の問題のむずかしさ

<本文から>
 少数民族(とくに非商業的な民族)の問題のむずかしさは、多数民族の栄光の歴史を共有できなかったことである。
 一九一一年の武昌蜂起にはじまった辛亥革命は清朝をたおして二千年来の専制体制をうちやぶった点で漢民族の栄光の歴史であったが、しかし辺東の外蒙の庫倫のモンゴル人がうけた最初の印象では辺延の漢民族の兵士たちの乱湊と強奪としか映らなかった。「ガミン(革命)がきた」といえば、モンゴル人たちはふるえあがった。中国語で革命をクオミンというが、モンゴル人にはガミンときこえた。もっとも、この革命で清朝がたおれたことは、モンゴル人にとってくびきを外されたようなものであり、すぐさま独立讐の通告を北京政権(袁世凱)に通告した。しかし当時の北京の革命政権には少数民族への視野がなく(一つには滅翼興漢という民族的合意をエネルギーとした革命あったために)、とくにモンゴル人の政治的動きについては鈍感で、「モンゴル人に独立の能力はない」などと見て、断固たる反対もしないかわりに、これを援助もしなかった。モンゴル人は、やむなく帝政ロシアを頼った。やがて紆余曲折のすえロシアの十月革命の直接的な影響のもとに人民共和国が革命成立するのだが、外蒙の独立の直接の動槻は漢民族世界への反撥と離脱への願望であったといっていい。もっともその代償として、ソ連のつよい保護を受けるにいたった。
 しかし、内蒙は中国側に残された。内蒙人の意志によるものではなく、帝政末期のロシアの中国に対する顧慮や、また日露戦争後の日本の帝国主義的指向がつよく内蒙に向かっていたことへの顧慮などをもふくめ、複雑な外的要素があり、私にはこの間のややこしい事情をうまく整理する能力がない。ともかくも簡単にいえば、内蒙古に対する中国の領土権が完全に安定するのは、日本帝国主義の滅亡後である。
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