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<本文から> しかしながら、若い万暦帝のおかしさは、本来、単に伝統にしたがう程度でしかない葬送の形式を、あらためて根元(死後に現世同然の生活をするという)にもどり、自分でそれを確かめるがように皇帝の事業として死後の宮殿の造営をやったことである。十六世紀人であるかれも、伝承されてきた死後世界について当然、疑わしく思う半面があったにちがいない。そういう半面があればこそ、逆にいこじになって死後の生活のための宮殿を自分の手で作って自分の目でたしかめておきたいと思ったのかもしれない。
それが、いまは人民のためのいわば遊園地になっているのである。
私どもは、地下におりた。階段が、二百段とか三百段とかときいたが、おぼえていない。
降りきってしまって最初に床を踏んだとき、素人の私の目にもそれがとびきり上質の白っぽい大理石であることがわかった。壁も天井も大理石であり、宮殿の一室から一室へゆく道路は、大埋石の石材をアーチ型に組みあげられたなかを通ってゆく。そのアーチ型の穹洞の大きさは、そこを通りながら天安門の下のそれと印象としては同じぐらいの大きさではないかと思ったりした。
大きな大理石の扉もあった。その扉を開閉させるための横木は、日本の百姓屋敷の梁ほどにふとかった。しかも材木ではなさそうだった。「あれは、銅です」と厳氏が指さしてくれたのでよくみると、そのくろぐろとした材は、質感がたしかに銅で、銅のかたまりであった。
「あの銅だけで、十トンあります」
と、厳氏がいった。
その扉の入口をくぐってひろい部屋に入ると、他とおなじくすべてが大理石ながら、むし中国風に白玉でつくられているといった感じで、いかにも色彩にとぼしい死後の世界らしくひえびえとしている。部屋の中央に、豪華な白玉製の長イスが三つ置かれていた。一つは万麿帝の生母のものであり、二つは皇后と夫人がすわるためのものであった。
その奥が、棺がおさめられてあったもっともひろい部屋で、万麿帝の死後の居室である。
この地下宮殿の建物としての全体の大きさは、ひょっとすると京都駅前の丸物百貨店よりも大きいかもしれず、むろん建築材は丸物百貨店などおよびもつかない。大理石の感触による連想のせいか、歩きながら、ヴェルサイユ宮殿をおもい出した。この地下宮殿よりも百年後に完成したヴェルサイユ宮殿は、いうまでもなくルイ十四世がフランスの繁華と権勢を象徴させるために完成させたものである。ともかくも他に対して誇示し、他に何らかの衝撃をあたえるためのものであり、もし誰も見てくれなければヴェルサイユ宮殿というのは意味をなさない。それが常識であり、自然なことである以上、万麿帝のこの地下宮殿は異様である。
だれに見せるためのものではなく、死者になった万麿帝だけが見るべきもので、見ることを刑罰をもって激しく拒絶している建造物なのである。これを建造するのに、八百万両(明朝の歳出入の経常費は四百万両)もかかった。日本歴史に、かつてそれだけの建造物は、むろん存在しなかった。
ただ一人が、誰にも見せずに、そして権力の誇示という政治上の効果にもまったくならない建造物を、国家の経常費の倍もかけて地下に造り、あとは土を盛りあげて埋めてしまうという異常さは、古代ならばともかく、十六世紀に中国では平気でおこなわれていたのである。しかも、中国の史家は、いまもむかしも万磨帝が気儀な専制君主であったことは言っているが、その精神が医学的に異常だったということもいっておらず、かれが地下に宮殿をつくるという異常な哲学をもっていたともいっていない。万麿帝は中国の近代以前の皇帝としては普通の人物で、ただ政治に倦み、重税を平気で課し、やることはすべて賓移にわたったというだけの、ことなのである。
そういう意味で、万暦帝は異常ではなかった。かれは中国の皇帝の伝統どおりの思想と慣習どおりに陵墓をつくっただけであり、その陵墓がすこし贅沢すぎたというだけのことで、精神の異常者でも畸形な美的感覚のもちぬしでもない。
だからむしろ歴史的中国のほうに、異常さを感じざるをえない。むろんこの正常・異常の感覚は、日本社会の規準からいってのことで、たとえば同時代のロシアからいえばべつな規準を考えねはならない。
(中国は、ながいあいだ狂っていたのだ)
と、この場、仮に思ってみることにした。貧乏国の感覚からいって、そしてそれを仮の規準として、ことさらに中国のほうが狂っていた、という極端な映像を脳裡で結んでみることにしたのだが、むろんこの映像を結ぷについては、たとえば歴史的中国には専制と皇帝の権威を示すための巨大建造物は、広大な領域と多種類な民族を擁するために政治的に必要であった、という真っ当な説明は、わざと通用させずにおかねばならない。要は、搾取ということである、搾取というものの規模の大きさに、この地下宮殿をみて驚いてしまい、狼狽のあまり中国はどうかしていたのではないかと思う以外、小世帯の国からきた者としては衝撃を吸収する方法がないようにさえ思うのである。
むろん、万磨帝がやった大普請はこの地下宮殿だけでなく、これが完成すると、紫禁城の皇極殿、中和殿、建殿という三大建造物が火災に遭ったためにそれを再建しはじめ、完工までに三十年以上の歳月と、千万両ほどの銀を消費した。そのほかにかれの生涯においては豊臣秀吉軍との朝鮮における戦いがあり、北方のモンゴル人との戦い(ポ拝の乱)、南方の楊応竜の薮乱の鏡定といったふうにいわゆる三大征があった。ところが明室の財政を傾けたといわれるこの三大征でさえその費用は地下宮殿のそれの倍程度であり、紫禁城の三殿の普請とほぼ同額程度だった。 |
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