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<本文から>
(おれはこれほどのもの身か)
とおもったが、孫七郎の能力、性格を見抜いているのは秀吉はなおもそう思わせず、ゆめ油断せしめず、依然としてあほうをあつかうように、孫七郎の生活を、法をもって縛った。法は五ケ条より成り、手紙の形式をとり、孫七郎からは遵守するという旨の誓紙を提出させている。第一条は武備を厳にせよ、第二条は賞罰を公平にせよ、第三は朝廷を大切にせよ、第四条は士を愛せよ、ということで、その内容はいっさい抽象的表現を避け、幼童に箸の使い方を教えるように具田的でこまごましい。たとえば第五条の内容が、秀吉にとってもっとも気がかりであった。秀吉にすれば、自分の政権の後継者が単にあほうであればいっそ始末がよかったであろう。厄介なことに性欲を構えており、それも尋常でなく、ただその点だけ秀吉に似たのか、とめどがなさそうなことなのである。秀吉はこの条文をのべるにあたって「自分を真似るな」といった。「茶の湯、鷹野、女狂いに過ぎ侯事、秀よし真似、こはあるまじき事」と書き出している。「ただし茶の湯は慰みであるからしはしはこれを催して、人をも招待してもかまわない。さて女のことである。使女(妾)は五人十人ぐらいは邸内に置いてもかまわない。その程度にせよ。邸のそとで淫らがましいことはするな」ということであった。孫七郎はこれに対し、梵天帝釈四大天王以下日本中の神々にちかって違背せぬ旨、熊野誓紙をもって誓い、もしこれに違背するにおいては、「今世においては天下の役難を受け、来世においては無間地獄に墜つべし」と、誓紙の常法どおりにしたためている。
「この誓紙、あずけておく」と、秀吉は、京から送られてきた関白秀次の誓紙を、側役の木下半助に保管させた。そのあとわずか一年九カ月経ったのち、秀吉はあの孫七郎に後嗣権をあたえてしまったことをはげしく後悔した。後悔せざるをえなかった。淀殿と通称されている側室の浅井氏が、ふたたび男児を生んだのである。拾、と名づけられた。
この実子誕生の報を孫七郎が受けたとき、どういうわけか、どういう不安も感じなかった。本来ならは自分が豊臣家の後継者であることも、養子であることも、返上すべきであろう。単に自分が後嗣権をもつ人形である以上、もはやその存在理由は雲散霧消して果てたと思うべきであろう。関白になる前の孫七郎ならあるいはそう思ったかもしれないが、いまは、思わない。といえるほど、孫七郎は、人変りがした。というより、この若者ははじめて人形から人間になったといったほうが正確かもしれなかった。 |
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