司馬遼太郎著書
メニューへ
ここに付箋ここに付箋・・・
          豊臣家の人々

■秀吉は行状が心配な秀次に誓紙を提出させた

<本文から>
 (おれはこれほどのもの身か)
とおもったが、孫七郎の能力、性格を見抜いているのは秀吉はなおもそう思わせず、ゆめ油断せしめず、依然としてあほうをあつかうように、孫七郎の生活を、法をもって縛った。法は五ケ条より成り、手紙の形式をとり、孫七郎からは遵守するという旨の誓紙を提出させている。第一条は武備を厳にせよ、第二条は賞罰を公平にせよ、第三は朝廷を大切にせよ、第四条は士を愛せよ、ということで、その内容はいっさい抽象的表現を避け、幼童に箸の使い方を教えるように具田的でこまごましい。たとえば第五条の内容が、秀吉にとってもっとも気がかりであった。秀吉にすれば、自分の政権の後継者が単にあほうであればいっそ始末がよかったであろう。厄介なことに性欲を構えており、それも尋常でなく、ただその点だけ秀吉に似たのか、とめどがなさそうなことなのである。秀吉はこの条文をのべるにあたって「自分を真似るな」といった。「茶の湯、鷹野、女狂いに過ぎ侯事、秀よし真似、こはあるまじき事」と書き出している。「ただし茶の湯は慰みであるからしはしはこれを催して、人をも招待してもかまわない。さて女のことである。使女(妾)は五人十人ぐらいは邸内に置いてもかまわない。その程度にせよ。邸のそとで淫らがましいことはするな」ということであった。孫七郎はこれに対し、梵天帝釈四大天王以下日本中の神々にちかって違背せぬ旨、熊野誓紙をもって誓い、もしこれに違背するにおいては、「今世においては天下の役難を受け、来世においては無間地獄に墜つべし」と、誓紙の常法どおりにしたためている。
 「この誓紙、あずけておく」と、秀吉は、京から送られてきた関白秀次の誓紙を、側役の木下半助に保管させた。そのあとわずか一年九カ月経ったのち、秀吉はあの孫七郎に後嗣権をあたえてしまったことをはげしく後悔した。後悔せざるをえなかった。淀殿と通称されている側室の浅井氏が、ふたたび男児を生んだのである。拾、と名づけられた。
  この実子誕生の報を孫七郎が受けたとき、どういうわけか、どういう不安も感じなかった。本来ならは自分が豊臣家の後継者であることも、養子であることも、返上すべきであろう。単に自分が後嗣権をもつ人形である以上、もはやその存在理由は雲散霧消して果てたと思うべきであろう。関白になる前の孫七郎ならあるいはそう思ったかもしれないが、いまは、思わない。といえるほど、孫七郎は、人変りがした。というより、この若者ははじめて人形から人間になったといったほうが正確かもしれなかった。 
▲UP

■殺生関白−めくらを斬る

<本文から>
−女じゃな。これしきのことを。
と、痩せた腹をゆすり、痛烈に笑い、いよいよ好んだ。自分こそは勇者であると思った。さらには他人の競技を見物するだけでなく、自分もこの殺戮に参加しょうとした。夜陰、徴服し、辻にかくれ、町人がくると走り出て斬った。こんどは右袈裟でやる、つぎは真向でやる、久しぶりで女の絶命の声を開きたい、などと言い、つぎつぎと刀をふるっては人を斃した。倒れると、人は思いのほか激しい地響きをたてて倒れる。この手応えのおもしろさは、「鷹狩りの比でほない」
 と秀次はいった。
 「わが武をみよ」と、ただの一太刀で仕止めたときなどは、先に吼えるような声をあげて慮従者をよび、それらを獲物である死体のそばに群がらせ、心臓に耳をあてさせ、それが確実に停止しているかどうかを確かめさせた。
  ついには、まだ陽が残っている時刻にも出た。北野天神の鳥居わきを敏行しているとき、むこうから盲人が杖のさきで足もとを探りつつやってきた。盲人は、この殺人趣味者にとって最初の経験である。どう反応し、どんな手応えがあるか、秀次は唾をのむような思いで近寄り、
「めくら」
とよんだ。
「来う。酒を食べさせる」
 やさしげに手をとった。盲人は顔をあげ、左様にご親切なことをおおせあるはどこのどなたぞや、とうれしそうについてきたが、やがて秀次は腰をひねるなり、その盲人の右腕を付け根から斬り落した。秀次の経験では、目あきなら、この衝撃でもう気絶をする。ところが盲は心理の世界がちがうのか、この瞬間、三尺も躍りあがり、腰も伸び、おどろくほどの声をあげ、「遠近に人はないか。いたずら者めがどうやら人を殺しおるようじゃ。人々、おりあえや、われを助けよや」と、間のびした、しかし目あきには見られぬほどに落ちついた語調でつぎつぎと言葉を吐きはじめた。
「めくらほ、べつな味をもっている」
 秀次がいうと、この種の殺生にはつねに従って秀次の機嫌をとりむすんでいる熊谷大勝亮直之という若い大名が、秀次の興をさらに深めるためにめくらに近づき、
 「うぬにはもう腕がない。血も井戸替えの水のごとく流れている」と、現実を教え、知れは悶絶するかと思い、その反応を期待した。が、めくらは別な反応を示した。急に鎮まり、小首をひねり、声も意外なしずかさで、「ああ、知れた。わかったぞ」とつぶやいた。「この下手人は日頃このあたりに出るという殺生関白であるか。必定、これならん」
 秀次塵従の熊谷は、熊谷次郎直実の後裔といわれている男で、家はかつての室町幕府における譜代の名家であり、代々京に住み、いまは若狭井時の城主でもある。小才子だけに秀次がどの点に興味をもっているかをよく呑みこんでいた。医師が愚老の病状でもきくように、「そちはめくらである。しかもいま腕をうしない、これで片輪も二重になった。そこで聞くが、それでもそちは生きたいか」どういう心境か、というのである。秀次も熊谷の肩ごしに首をのばし、かたずをのんでめくらの返事を待った。
 生きとうはないわい、と怒鳴りあげたのがめくらの回答である。これ以上、こんな不自由に堪えられるか。いっそ殺せ。この首を刎ねよ。見よ、そのあたりでざわざわと気配がするのは町の衆が戸の隙間から見ている証拠であろう。いそぎわが首を刎ね、うぬが邪悪の名を後世に遺せ、因果の酬いをうけよ、と叫んだために秀次は癇癪をおこして度をうしない、刀をふるって斬りつけたが、刃にあぶらがついたのか斬れず、肩骨の割れる音だけが聞えた。このためめくらはころがり、喚きにわめいた。いよいよ秀次の手もとが狂い、あとは顔を撃ち、足を撃ち、胴を突き、歯を欠き、手を斬り、指を落し、ほとんど人間の形をとどめぬほどにずたずたにし、やっとこのしぶとい生き物の息の晩をとめた。辻斬りを噛んで以来、これほど手のかかった大仕事はない。めくらほどおもしろいものはない−と秀次は息の下からいったが、疲労ですねが萎え、疲労が背後からささえねはならぬほどだった。
▲UP

■秀次の母子併姦の悪行

<本文から>
 一ノ台と言い、菊亭大納言晴季の娘である。先妻の池田氏が死んだため、秀次は晴季に迫ってちかごろこれを正妻とした。一ノ台は、齢は秀次より十ばかり老けているが、その流麗は洛中に及ぶ者がない。一度他家に嫁し、亡夫とのあいだに娘が一人ある。まだ十一歳の女童にすぎなかったが、秀次はこの娘まで伽に召し、お宮ノ方と称せしめて側室とし、母娘ともに戯れた。人々は「母子併姦など、もはや人倫ではない、畜生遣である」とささやき、実父の晴季もこの母子併姦の無法に泣いた。
 「どうだ」
 と、秀次は、めくらの一件をこの一ノ台に誇ったのは、彼女が公家社会の出身だったからである。公家どもは、文をひねり、典故をもてあそび、礼式にくわしくとも、これほどの武はもっていまい。みな刃物や血をみれば慄えあがる連中はかりだ、といった。一ノ台は、だまっていた。
 「なんとか、音をあげよ」
 と秀次はつねにこの無口な母子に物を喋らせようとするのだが、彼女らは繁楽第に住んで一年余というもの、ついぞ秀次の前で声というものを発したことがない。
 ちなみに、秀次の妻妾の数は、養父秀吉が制限したよりもはるかに越え、このころには三十余人にまでなり、当の秀次でもいちいち指を折らねばかぞえられぬほどであった。
 (どうやら、箍がはずれてしまったらしい)
 と、秀次に独立の人格を持つように勧めた木村常陸介も、この俄か関白がわずか一、二年でここまでになり果てたことを見てむしろ後悔よりも恐怖した。常陸介よりも秀吉のほうがはるかに孫七郎を知っていたのであろう。あれほど小うるさく箍をはめてようやくこの人物は人間の姿をなしていた。いまやはずれきって自分自身が制御できなくなっているこの男は、たとえばこういうことをした。丸毛不心斉という老臣の女房を見、媼というのはどういう体具合をしているのであろうと興味を持ち、むりやりに召し出さし、妾にした。東と言い、齢は六十表である。五十代の者はいなかったが、四十三歳の女はいた。また家臣岡本彦三郎という者に母があり、秀次はある日、母親という、つまりそういう種類の女が欲しいと言い出し、これも召し出した。かうという名で三十八歳である。女どもを年齢でわけると、十代が十一人、三十代が四人、四十代が一人、六十代が一人、あとは二十代であった。最上義光の娘おいまのように大名の娘もいたし、捨子あがりのお竹という者もいた。こういう女どもがわずか一、二年のあいだに集められ、聚楽第を檻のようにして飼われた。
▲UP

■秀吉は秀次に関白辞退の期待したが裏切られる

<本文から>
秀吉は京における秀次の不行状をうすうす知ってはいたが、麾下が遠慮して言上しないため、くわしくは知らなかった。ただ気にかかるのは実子秀頼の将来のことであった。秀吉は苦慮し、ついに結論を得、秀次を伏見によんだ。
 「そのほうは、どう思うか。わしは日本国を五つに割りたいと思う」
 と、秀吉は提案した。「こうしよう。そのほうにその四つまではやる。あとの一つを秀頼にくれてやれ」といった。言いつつ、秀次の表情を注意ぶかく見た。秀吉にすれはすでに跡目の相続を決定したあとであるため、いまさら言いづらくもあり、それをあれこれと気をつかい、遠慮気味に言いだしたつもりであった。が、秀次の表情は、それに応えなかった。
 秀次は無言でいた。その鈍い、無神経な、どちらかといえはふてぶてしくもある面つきをみていると秀吉は一人踊りをしているような自分の気のつかい方がむしろ滑椿になり、みじめになった。というより、秀吉は秀次の同情にすがろうとしている自分を知った。秀吉の心情はもう、哀願にちかい。老いて子をなしたこの老人を、哀れとおもわぬか、自分はここまで悩んでいる、その気持を汲んでくれ、汲むならいっそ、関白を辞職し、養嗣子を辞退する、という音を一声あげよ、と秀吉はひそかにそれを期待した。
 が、秀次の感受性は、それに応えない。口ではなるほど返答した。
 「父上様のよろしきように」
 といったが、その顔つきには表情がなく、唇のはしに拗ねた色さえ溜まっている。秀吉はそう見た。むしろ曲げてでもそう見たい心境に秀吉は追いこまれていた。
  − この天下は、たれの天下か。
そう吼えあげたい気持を、かろうじておさえた。その怒りを、秀吉はいつものように訓戒に代えた。が、訓戒を聴く表情態度さえ、秀次はどこか以前の孫七郎のようではなかった。孫七郎のころにはまだ小鳥のようにおびえているところがあり、その点でかろうじて、可愛らしさがあったように思われる。
 (こいつ、変ったな)
 秀吉は興醒めたが、それでもなお我慢した。自分の死後、秀頼を保護してくれる老はこの秀次しかなく、その点でいえばもはや秀吉のほうこそ哀願せねばならぬ立場にあることを知っていたからである。
▲UP

■秀吉は秀秋の処分を決める

<本文から>
秀吉は蔚山逆包囲のときに秀秋が士卒とともに槍の功をあらそったことを地響きするほどの大声で責め、「わしはそちのような者を上将にしたことをいまになって悔いている」とまで言い、その戦功には一と言も触れなかった。
(なんということだ)
最初、呆然とした。ついで、これこそ在鮮諸将がみな怨嗟しているところの石田三成の讒言であろうと思った。
 「さ、左様な」
 秀秋は、根が小心なせいか、昂奮するとほとんど聴きとれぬほどにどもった。どもるせいか、つい声が大きくなった。そのことが、義理の伯父を虚喝しようとしている様子にもとれた。左様なことはない。上様はまちがった報告を受けておられる、と叫び、
「されはさ、これにて軍監をお呼び下され。かの治部少(三成)めもお呼びください。上様のおん前にて、黒白を決しとうござる」
「われア、何をいう」
 秀吉も、尾張の地言葉で秀秋以上の大声を出し、喚いた。声のわりには秀吉はすでに老衰しきっており、その衰弱には死病の翳さえ感じさせる。かつて歴史をつくりあげたかれの理性はどこにもなく、ただ感情だけがかれの体を小刻みに震わせていた。秀吉にすれはこの怪しげな少年を(といっても二十一歳になっていたが)貴族にしてやり、大大名にしてやったのはすべて自分である。それを忘れ、この竜いさきのない老人を怒鳴るとはなんという忘恩ぶりであろう。
 秀吉は舌を失ったがごとく一言も発しなかった。悲しみと怒りが、かれを支配し、袖のなかで震えている。秀吉にすれは例がない。元来多弁で、当意即妙で、豊かすぎるほどの表現力をもっていた秀吉は、その点でも別人になっていた。無言のまま席を蹴り、奥へ入ってしまった。
 「床に入る」
 秀吉は、近侍の者にそう命じた。さきに衰弱のあまり寝床で失禁し、からだが尿で滞れたことさえある。きょうの秀吉は、寝床で涙をこぼした。無念であり、不安である。あの忘恩漢が秀頼のための保護者たるべき位置にあるかと思うと、このまま死にきれぬとおもった。秀吉は処分の決心をあらたにした。
▲UP

■秀吉の養子であった秀秋と秀家の明暗

<本文から>
正則は頽勢を盛りかえしては、逆襲した。このため諸方の陣地からみていると、福島家の山道の旗と字喜多家の太鼓丸の旗とがたがいに黒煙りをあげるようにして進退し、ときには入れちがい、ときには一方が追い、ときには一方に追われたりして勝敗の見さだめもつかない。午前十一時ごろには、石田陣の正面の東軍も撃退され、大谷陣は大きく盆地の中央へ突出する気構えをみせ、それに対して東軍は盆地の中央部にかたまり、いたずらに人馬の渦を巻かせているにすぎない。
 が、正午になって逆転した。
 松尾山上の小学川秀秋が寝返り、一万五千の兵を駈けくだらせて山麓に陣所をもつ西軍大谷隊を衝き、その伸びきった隊形を寸断し、それをほとんど全滅させたためであった。吉継は自刃した。このため字喜多隊は東軍の過半によって包囲され、鉱立した。
 秀家には、この瞬時におこった変転が理解できない。あれは金吾(秀秋)か、金吾ではあるまい、と最初に叫んだのはこの言葉であった。秀家には信じられなかった。金吾秀秋の挙動のあやしさについては開戦前から三成ら西軍首脳が疑惑をもちつづけていたが、秀家はあくまでも楽観し、「左様なことはありえぬ」と三成にも言い、吉継にも言っていた。この男らしくその理由は単純きわまりない。
 「かれは太閤の養子である」
 そのことだけであった。太閤から大恩をうけている。自分も養子であり、その立場から金吾の心底を察するに、万人が秀頼様を裏切ろうとも、とうていそのような心情がおこらない。自分はうけあってもいい。金吾はゆめゆめ裏切らぬであろう。と、そのことのみを秀家は言い、しかも本気でそれを信じているようであった。極楽人であられる、と三成はかげで秀家のことをそう言い、じつのところ挙兵以来秀家にはその種の政情の複雑な内容についてはほとんど相談したことがない。
 が、秀家は世の奇怪さを、いま戦場を急変させつつある異変で知った。この秀家という歌ずきな−世が泰平なら二流程度の歌詠みになっていたであろうこの男は、自分の政治感覚の略さをさとるよりも、むしろ相手の不徳義に憤激した。金吾をゆるせぬ、といった。許す許さぬよりもすでに限下の宇喜多勢は東軍に蹴散らされ、ほとんど陣形をなさぬまでに崩れていたが、秀家の関心事はそれだけであり、むしろそのことで死を決意した。床几を捨て、
 「馬を曳け」
 と命じた。いまから馬を躯って小早川陣に斬り込み、金吾を求め、かれと刺しちがえて死ぬというのである。「天道がゆるさぬ」と秀家は言い、あぶみに足をかけるや、鞍の上の人になった。
明石掃部が、手綱をおさえた。
「およろしくありませぬ」
掃部は、敗戦の慣例として主将の秀家をこの戦場から落そうとしていた。東北をのぞむとすでに三成の笹尾山陣地も落ち、先刻まで山上にひるがえっていた「大一大万大昔」の旗が失われているところをみると三成も落ちのびたのであろう。それを掃部がいうと、
 「治部少は治部少、わしはわし」
 と、この若い歌人はいった。秀家のいうところでは、治部少はあるいは一身の野望のためにこの一戦をおこしたのかもしれぬが、わしはわしの存念でこの戦場に来、働いている。余事は知らぬ。ただ故殿下のご遺言をまもり、秀顛様の世を守ろうとし、カのかぎり働いた。それを、金吾の不徳義がために敗れた。金吾をこの剣で誅伏する以外、この一存を通すみちはない、と秀家は言いつづけたが、掃部は耳をかさず、さっさと旗を巻かせ、大馬印を折り、さらに秀家の旗本に命じ、かれをかこんで落ちることを命じた。秀家はその人馬に流されるようにして西方へ落ちた。
 秀家は敗れ、字喜多家はほろんだ。しかし、秀吾が豊臣家の藩屏としてとりたてた養子たちのうち、この男だけが養父の希望にこたえた。
▲UP

■寧々は的確な人物評価をした

<本文から>
加藤清正や福島正則を長浜の児小姓のころから手塩にかけ、その人物を小柄のうちから見ぬき、はやくから秀吉に推輓していたのは彼女であるという噂もあり、他のその種のはなしを成政は多くきいている。秀吉も、彼女の人物眼には信用を置いていたし、つねづねそれを尊重し、その意見をおろそかにしなかった。藤吉郎のむかしにさかのぼれは、豊臣家は秀吉と紋女の合作であるとさえいえるであろう。
 寧々は陽気な性格で、しかも容体ぶらず、いささかも権柄ぶったところのない婦人であったが、しかしただひとつの癖は北ノ政所になってからも草創時代と同様、家中の人物について評価することを好み、人事に口出しすることであった。しかもその評価に私心が薄く、的確であるという点で、秀吉もそれを重んじ、ときには相談したりした。自然、彼女の威信ややさしさを慕う武将団が形成された。前記加藤清正や福島正則、それに彼女の養家の浅野長政、幸長父子などはそのサロンのもっとも古い構成員といえるであろう。
 佐々成政が、自分の数奇なほどの栄達が、あるいは北ノ政所の口ぞえによるものであろうという想像をしたのも、この豊臣家にあっては不自然ではない。
 (なぜあの婦人が自分のような者を好くか)
 という理由も、おぼろげながらわかる。寧々の男に対する好みにはあぎやかなくせがあり、殿中での社交上手な人物よりも戦場での武辺者に対して評価があまい。男のあらあらしさと剛直さを愛し、たとえかれらが粗費なために失敗を演じたとしても、彼女はむしろその失敗を美徳であるとする風があった。秀吉はあるとき二三の武士を「無精(粗放)着である」という理由で追放しようとしたが、彼女はそれを耳にし、かれらのためにしきりにわびを入れ、ついに救ってやったこともある。彼女のもとにあつまる武将団がやがては武断派という印象を世間にあたえるにいたる。
▲UP

■寧々は最高の栄達を手にしたが人柄は変わらなかった

<本文から>
事実、豊臣家主婦としての寧々の地位はいかなる時代のどの婦人にもまして華麗であった。
秀吉が内大臣になったとき彼女は同時に従三位になり、さらに進められて天正十五年に従二位になった。つづいてこの年の九月十二日、彼女は姑の大政所とともに大坂から京の聚楽第に移ったが、このとき秀吉の好みでととのえられた道中の行列、行装は、史上、婦人の道中としてあとにもさきにも類のない妻華さであった。女官の供だけで五百人以上にもなったであろう。輿が二百挺、乗物が百挺、長梗以下の荷物の数はかぞえきれない。これに従う諸大夫と警固の武士はことごとく燃えるような赤装束で、いかにもこの国で最高の貴婦人の上洛行列を装飾するにふさわしかった。
 しかも、沿道では男の見物は禁じられた。僧といえども、人垣にまじることは禁止された。理由は、かれらが若い女官の美貌をみて劣情をおこすかもしれぬことを配慮したがためであった。ひそかに想うことすら、北ノ政所に対する不敬であるとされた。この行列は評判をよび、天下打喧伝された。北ノ政所こそ日本国第一等の貴婦人であるという印象が六十余州にゆきわたったのは、秀吉が演出したこの行列の成功に負うところが大きい。
 翌十六年四月十九日、つまり清正の肥後冊封より一月前、この「豊臣吉子」は従一位にすすめられた。すでに人臣の極位である。尾張清洲の浅野家の長鼻で薄べりを敷いて粗末な婚礼をとげたむかしからおもえは、彼女自身でさえ信じられぬほどの栄達であった。
 「しかし、私が私であることにかわりはない」
と、寧々はつねづね、侍女たちにいった。彼女の奇跡は、その栄達よりもむしろ、そのことによっていささかもその人柄がくずれなかったことであった。彼女は従一位になってもいっさい声言葉や御所言葉をつかわず、どの場合でも早口の尾張弁で通した。日常、秀吉に対しても、同様であった。藤吉郎の嫁といったむかしむかしの地肌にすこしも変りがなく、気に入らぬことがあると人前でも賑やかな口喧嘩を演じたし、また侍女を相手につねに高笑いに笑い、夜ばなしのときなどむかしの貧窮時代のことをあけすけに語っては皆を笑わせた。さらに前田利家の妻のお松などは岐阜下の織田家の侍豪で隣り同士のつきあいをしていたが、その当時の「木槿垣ひとえの垣根ごし」の立ちはなしをしていた寧々の態度は、お松に対してすこしも変らない。
「またとない御方である」
と、お松などはしはしばいった。
「北ノ政所さまは、太閤さま以上であるかもしれない」
 お松はかねがね、その嫡子の利長、次男利故にいった。
 このお松という、前田利家の古女房そのものが、利家の創業をたすけてきたという気概があるだけに尋常な女ではない。利家の死後は、
 「芳春院」
 というあでやかな法名でよばれ、加賀前田家では尼将軍ともいうべき権勢があった。これはのちの話になるが、利家の死後、前田家の帰趨について、いちいち寧々と相談し、いちいち寧々の意向に従った。
▲UP

■豊臣を支えた秀長

<本文から>
 「面倒なことをいうものだ」
 と、秀吉はいった。秀吉の解釈としては昔は昔、今は今−ということであった。過去の権利は百年の争乱でいったん水に流れたものと見、豊臣政権になってからあらたにこの政権が土地を寄進する、過去とは関係がない、というたてまえをとっている。だから秀吉は宮廷に対しても、皇室領や公卿たちの領地を、あらためて献上した。かれらはそのはるかな先祖の栄華はともかく、ここ数代、飲まず食わずできた境渡と比較して大きによろこんでいる。ところが奈良の門跡たちは、歴史的権利に固執するところがつよい。
 「これは、冗談ではありますけれど」
 と、小一郎は声を低めた。いっそ源氏を称されて征夷大将軍におなり遊はさわ、幕府をひらき、醇乎たる武家政治をひらかれるほうがよかった、というのである。豊臣政権はこの点、中途半端であった。秀吉は関白になり、その一族も秀次や自分をはじめとしてみな公卿になった。公卿の身でありながら諸大名をひきい、六十余州を統治している。その公卿の身分としては奈良の門跡たちと同一社会であり、同一社会である以上同一原理をもたねはならぬことになり、かれらの要求に対してつい議論が弱くなる−と、小一郎はいうのである。
「いいかげんにしておけ」
 秀吉はいったが、それにしてもおどろくのは、小一郎の行政理論家としての犀利さであった。いつのまにこのような濃やかな思考能力を身につけたのであろう。
「そのことはわかったが、実際にはどう始末しているのだ」
「金でござる」
 と、小一郎はゆるゆると呼吸しつついった。土地のかわりに黄金をあたえてしまう。すると、ふしぎなほどの効き目で訴訟人はおだやかになるのである。黄金といえば、ちかごろ佐渡をはじめ全国の金山から湧くように出ている。この金属を正規の流通貨幣として採用したのは、この国では秀吉がはじめてであったが、小一郎は早くもその効用を、奈良の門跡たちにおいて知った。秀吉は大いに笑い、その処置に満足した。
 小一郎は、奈良の難物たちだけでなく、豊臣家の大名間の不平や軋轢をよく調整した。秀吉の怒りを買って忌避された大名たちはみな北ノ政所か、小一郎にとりなしをたのんだ。小一郎はよく言いぶんをきいてやり、秀吉に対してとりなしてやった。また秀吉の側近官僚たちにうとまれて当惑している大名たちも、小一郎にその調整をたのんだ。小一郎はみずから御用部屋に行って実否をしらべ、側近官僚がまちがっている場合は、びしびしと叱った。このため大名や公卿のなかには、
 − 豊臣家は大和大納言で保っている。
とまでいう著さえあった。
▲UP

■関ケ原の敗戦に鈍感であった淀殿

<本文から>
「なんということでございましょう」
 と淀殿側近の、ことに大蔵卿ノ局などは家康のうって変った態度を非難したが、しかしその声は小さく、他の侍女に聞えることすら怖れ、淀殿にのみささやいた。なにしろ家康は関ケ原ノ役後豊臣家の大名のことごとくをその掌ににぎってしまっていた。豊臣家の武権が消滅した。
 最初、淀殿は関ケ原の敗戦について鈍感であり、単に石田三成以下が没落したという程度にしかうけとらなかった。ひとつには家康の策略によるであろう。家康は関ケ原で大勝するや、すぐさま使いを大坂へ急派し、
 「関ケ原の一件は石田治部少稀の私欲から出たものであり、秀頼稼ご母子にはなんのお関係もないことを当方は存じております。されば恨みには存じておりませぬ」
と言い、そのことによって大坂城が無用に混乱することをふせいだ。これによって淀殿も安堵した。
 「徳川殿は、わるいようになさらぬ。だまっていれは何事もあるまい」
 淀殿もそう言い、大蔵卿ノ局もそのように信じた。が、家康は大坂城に入城するや、態度を変え、にわかに恫喝の声を放った。
 「どうも関ケ原の一件は、石田治部少輔ひとりのほしいままな計画でもないらしい。調べるにつれてもし重大な謀議があかるみに出れば、いかなる尊貴の人といえども容赦はせぬ」
 という意味のことを、人の口を頼りて城内に言いふらせた。いかなる尊貴の人といえども−という範頓にはむろん秀頼母子が入るであろう。これには淀殿はふるえあがった。かつての秀次とその妻妾子女のごとく三条河原で串刺しの刑我にあうのではなかろうか。このため、淀殿は家康の機嫌を損ずることをおそれ、家康についてのいっさいの批評を、その侍女団につつしませた。
 「大坂の女どもは息をひそめおった」
 家康は満足した。
 「それでこそ、やりやすい」
 と家康はおもったであろう。かれは淀殿らが首をすくめているあいだに西ノ丸での論功行賞の作業をすすめ、その作業中に豊臣家の領地をいきおいよく削ってしまった。
 その削り残された故秀吉の遺産というのは、大坂城一つと摂津、河内、和泉の三国(大阪府)のうちで六十五万七千四百石にすぎなかった。もはや秀頼は一大名−それも加賀前田家よりも石高の低い−位置に落ちたというペきであろう。
 が、淀殿らは気づかない。
 「どうも様子がおかしい」
 と侍女たちが人のうわさをきいてさわぎだしたのは、家康が江戸へ去ってからであった。彼女らはうかつにもそれまで豊臣家の石高がその程度になっていることを知らなかった。
 「そんなはずはない」
 淀殿は、なおも信じなかった。
▲UP

メニューへ


トップページへ