司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          峠・下

■尊王論が普及した今、一旦幕府が勝っても薩長は幼帝を擁して勝つ

<本文から>
 かつ、大阪湾から紀淡峡にかけての海域には幕府海軍がその総力をあげて艦隊を集結させており、この封鎖のため京の薩長軍は兵員の補給は不可能あった。
 とかれら開戦派がみたのは当然であり、敗北の見通しをもっているのは、徳川慶喜と、その首相である板倉勝静のふたりきりなのである。
 「なぜ、継之助はこれを負けると見る」
せ、板倉がきいた。
 −政治で負けるだろう。
というのが、継之助の観測であった。開戦をしても、開戦に必要な名分がない。天下を昂奮させ、天下をあげて徳川方を支持せしめるようなそういう名分がなかっあ。この点で政治的にきわめて脆弱である、と継之助はいう。
 さらにまた、と継之助はいう。薩長に幼帝をうばわれているのである。
 「これが、いかにもまずうぞぎいましたな」
 と、継之助はいった。江戸末期以来、尊王論が普及し、いまや民間の読書人にまで滲みわたったほどの普遍化した思想になっている。現に慶喜も尊王であり、板倉早くから尊王であり、さらに徳川家に対してもっと強烈な忠誠心をよせている会津藩が、遠い時代の藩祖以来、神道を信奉し、尊王という点ではもっとも伝統がふるい。
 その「王」を、薩長にうばわれている。いま京に攻めのはれば一旦は勝てるかもしれないが、薩長軍は幼帝を擁して各地転々とし勤王の義軍を天下につのるであろう。そうなれば天下の勤王家、野心家、浮浪が立ちあがって結局は徳川軍は孤軍になり、上様は国外に亡命でざるをえないだろうと継之助はいうのである。

■薩長が勝つ可能性は時勢がかれらの側にあることだった

<本文から>
  とかれらは互いにこのぎりぎりのところを話あって覚悟をきめていた。かれらはこの瞬間、自藩の滅亡を賭けたものにした。一方この動乱期になにものを賭けることのなかった徳川家やそれを支援した東日本の諸藩が、維新後薩長閥に圧迫され、薩長閥が明治の日本を独占したのも、権力成立の実情としてむりはないであろう。
 京都にいる西郷・大久保にすれば、たとえ滅亡を賭してもこの一戦をやらねば革命は成就しない。革命、クーデターというのはそれをやる者にとってつねに賭博であった。
 −ただ一つ、勝利の可能性がある。
 とかれらが信じたのは、時勢がかれらの側にあることだった。旧式な封建政権をたおし、二元的な主権構造を廃し、天皇の名において藤一政権をつくる、というのは、すでにこの時勢の意思ともいうべきものになっている。薩長は、それを代表した。時勢の意思に乗る者の強さは歴史が証明しているであろう。
 京都における薩長の兵は、足軽以下の出身者が多かったが、むしろ足軽以下であればあるはどこの時勢の意思に敏感だった。かれらの闘志は、単に憤激だけでやってくる大坂の徳川勢よりも戦意の点でつよかったであろう。
 それにかれらは少数とはいえ、薩摩は古来「兵するどく馬勝る」といわれた兵の精強な藩である。その上、英式による洋式調練ではもっとも締度が高かった。
 さらに長州藩は、さきに幕府の第二次長州征伐にさいして戦い、それを藩境において撃退し、このため実戦経験があるだけでなく、その実戦も勝った経験であった。かれらは幕府兵に対して自信があり、この自信がおもわぬ強さを発揮するはずであった。
 これに対し、徳川堤を行軍して京にのぼってくる徳川勢の指揮官たらは、すでに戦わずして驕っていた。勝利は当然とみていた。かれらは作戦をたてるよりもむしろ京を占領したあとの宿舎だけをきめていた。栗谷の金戒光明寺、大仏万広寺、妙法院、二条、伏見旧奉行所、東寺といったぐあいで、それをきめた程度で押し出していた。


■将軍の神殿が盗賊の巣のようになっていた

<本文から>
 継之助などの陪臣が江戸城内を見るなどということは、とほうもないことである。
 子供のころ、稽古町の伯父がよくいっていた。
 「三百諸侯というがね。なるほどお大名は江戸域に登域なさって、将軍さを拝謁をなさる。しかし将軍さまのお顔をおがんだというお大名は何人もいなさらぬのだぜ」
 将軍拝謁というのはそういうものらしい。大名は平伏している。将軍は上段の間にすわっている。大名は顔をあげることをゆるされない。拝謁がおわると誓伏せたままひきさがり、それっきりである。尊顔のひとの顔をみてはいけないというのが、室町幕府が制定した礼法のである。織田、豊臣のころは、大名といっても戦場の硝煙のしみついた連中ばかりだったから行儀はわるかったが、徳川体制に入ってから、この室町式の礼法がすみずみにまでおこなわれるようになり、将軍とは礼式上神のような存在になった。だから大名など生涯のうち何度も拝謁をたまわっていながら、将軍の目鼻だちをついに知らないというのがふつうなのである。
 「その点、おれらの殿サンはちがわあ」
 と、稽古町の伯父はそれをいうのが目的だった。牧野家は徳川譜代の名門だかち、外様大名とちがって江戸域のお役につく。だから将軍さまのお顔のお道具はらやんとその目で見ていなさる、というのである。
 それほどに将軍は神格化され、その居城は神殿のようにあつかわれてきた。
 ところが継之助が御門からながい道とおって御殿に入ってみると、かれの目でみた御中というのはすさまじいものだった。
ふだんなら大名や旗本の高位の者が、息をころして詰めているはずの溜ノ間、帝鑑ノ間、柳ノ間、大広間などといった話でのみきいているそれらの神聖な場所には小役人が大あぐらをかいて議論している。
 寝ころんで議論をきいている者もあり、抽をまくりあげてわめいている者もあり、礼儀も秩序もあったものではなく、まるで盗賊の巣のよう松なっていた。
「あの仁らは、なにものでしょう」
と継之助がきくと、福地源一郎が、
「むろん幕臣でさ。お役についている者もあれば、無役の身ながらご時勢が心配でお城へかけのぼってきた連中もいる。あの議論をきいているとおもしろいですよ」
 みな戦術論だそうである。薩長をどうやっつけるか、という議論で、駿河(静岡県)の富士川まで押しだしてゆけ、という者もあれば、いいや、箱根の瞼で切りふせぐのがもっともいいという者もあり、それよりいっそ、軍艦に乗って長駆鹿児島を攻めるのはどうだ、といっているのもいる。
 「みな絵草紙からぬけだしてきたような忠臣義士ばかりですよ。しかし本音はああやって不安をまぎらわしているだけで、いぎとなれば腰が立たない」

■三百年の城内の秩序を幕臣みずからがくずしてしまった

<本文から>
「これではとうてい徳川家というものをあてにして藩を保つことはできない。継之助は自分の方針である「世がかたまるまで独立自尊の方針でゆく」というゆきかたの正しさを、まざまざと見たようにおもわれた。
 「まあ、おすわり」
 と、福地は、自分の机のそばに継之助をすわらせた。たれもこの見たことのない顔つきの男を見とがめる者すらいないのである。
 (亡国のおそろしさだ)
 とおもった。人間社会の秩序などじつにむなしいもので、大政奉還と鳥羽伏見におけるたった一度の敗戦が三百年の城内の秩序を一朝にしてくずしてしまったのである。敵が崩したのではなく、幕臣みずからがくずしてしまった。

■福沢諭吉の理想論

<本文から>
「わかりましたよ、あなたというお人が。しかし、これは、どういうか、あなたは」
 と、継之助はちょっと考え、
 「めずらしいお人だな」
といった。継之助が理解した福沢の理想と情熱というのは、この国に文明を持らこむこと、それだけである。欧州で成熟した文明をこの日本という異風土に持ちこんで植えつけるためには、植えつけられるだけの土壌ごしらえが必要である。その土壌をつくるためにはまず自由と権利の思想を肥料とせねはならず、その肥料で土壌からそっくり変えてしまわねばならない。
 福沢がひそかに理想としているのは、たとえば項目風にいえば、身分制の撤廃、言論の自由、信仰の自由、職業選択の自由、商工業を営むなあいの自由といったものであろう。自由は権利に裏打ちされている。その権利は国家によって保護されている。それを支障し保護するような国家をつくることがこの幕府外国方翻訳掛福沢諭吉の理想なのである。
 (だから、討幕も佐幕もない。福沢の眼中、徳川家も薩長もない。そういう国家をつくる政権であればよいのだ)
 とおもい、
 「そうでしょう」
 と継之助がたしかめると、福沢は、
 「そのとおりでさ。国家というのは文明の保護をすればいいのですからね。それだけのものであり、それ以上のものではない」
 といった。
 こう理解すると、福沢が、「敵が江戸へくればおれはどんどん逃げてしまう。矢弾が飛んでくるというのに弁当なんか食っていられませんよ」ときのう御城で賄い方の小役人にいった意味がわかるのである。
「いや、これは酒を飲んだ甲斐があった。私はね、この考えを植えつけるには教育がもっともいいと思い、今後は書生を育てることに専念するつもりだ。書生はどうせ田舎から出てきたわからず屋だからこれがわかるまでに三年も五年もかかるだろうと思っていたが、河井さんはおどろいたことに、昨夜と頂、酒を飲んだだけでわかってしまった」

■継之助の帰郷を遅らせる理由

<本文から>
継之助の足は、なおもおそい。若党の松蔵は気が気でなかった。
(この調子では、三条の旅寵につくのは夜更けか、朝になってしまう)
どういうご料簡だろうとおもった。松蔵のような下郎分際の者でさえ、藩の危横がせまっていることはひしひしとわかっている。長岡では藩主以下足軽にいたるまで継之助の帰るのを待っているはずであった。
(このゆるやかなお足どりは、きっと格別な存念があってのことにちがいない)
 とおもった。松蔵はこの皇郡さまをかねがね神さまのようにおもっているのである。
が、継之助にはさほどの理由もない。というより、説明すればよほど複雑な心情にある。
(事態はもはや、来るところまできてしまっているのだ。半日や一日、早く帰ったところでどうなるものでもない)
 それが第一。
 第二には、藩は、おそらく官軍に恭頓しようという派と、あくまで強硬的態度をとろうという派のまっぶたつにわれて、重臣どもは夜も日もなく討議かさねているにちがいない。しかも一個の英雄がいないかぎり、この種の会議はついに小田原評定になり、百日やってもまとまらぬということを継之助は知っている。長岡の重臣たらはもうへとへとになっているだろう。かれらがへとへとになったころに継之助が帰る、というほうがまとまりがやすい言のこと計算している。
 さらに第三の理由としては、万一、官軍と戦うとなれば(一藩独立義の継之助としてはそれをのぞんではいないが)の街道もまた戦場になるであろう。つまり官軍が軍艦に乗って海路越後に来るとすれば新潟に上陸する。新潟から長岡への侵攻道路は、この信義川の土手みらである。継之助にすれば、このようにゆるゆると歩きつつ、このあたりの地形や地物を考え、戦略と戦術を練っているつもりなのである。
 第四の理由は−これが本音なのだが!ひさしぶりに見る越後の春を楽しんでいる。
(帰れば、もはやひまはない)
おそらく死ぬまでないであろう。とにかくも継之助はいま、この信義川沿岸平野の田園のなかをゆるゆると歩きたい。
「旦那さま、日が暮れて参りましたよ」
三条まではあと四、五時間は歩かねばならないというのに、陽。はるかな田園のはてに沈もうとしている。
「まあ、いいとせよ」
と、継之助は言い、あごをあげ、前方の夕闇にけむる町をさし示した。
「あれは白根だ。白根でとまろう」
結局、その白雪とまった。ここは村上藩の領地で、信義川の本流と支流とのあいだにできた巨大な洲の上に町がある。

この戦いは外交があたまから断絶していた

<本文から>
 京を出発した薩長両藩の人数は、薩が四百人、長が四百人にすぎない。が、これはあくまでも中核であるというにすぎず、現地につけば北陸、信州、東海の諸藩の兵が合流するのである。
 山県狂介が、単身江戸を発ったのが四月二十九日であった。薩摩汽船豊瑞丸で大坂へゆき、京都にのばった。むろんそのときは出征軍は出発してしまっている。
 いそぎ追及し、京都から十三日を経て閏四月二十日、越後高田城下に入った。
 山県を迎えて、現地軍ははじめて作戦会議をひらいた。この会議で、
「長岡域攻略をもって作戦目標とする」
 ということがきまった。
「敵」にさせれた継之助は、むろんその間の事情は知らない。
 この戦いの奇妙さは、外交があたまから断絶してしまっているところにあるであろう。
 官軍が、長岡藩に対し、
 −いったい、肝はどうなのだ。
 という使者を一度も派遣したことがない。戦うのか、降伏するのか、あるいはそれよりも以前の問題として新政府の系列に入るのか入らぬのか。
 そういう外交は、いっさいない。
 官軍が長岡藩とやった交渉といえば、二カ月前の三月十六日、越後諸藩の代表たちを高田に集合せしめたとき、「国力相当の人数を官軍にさし出せ」といったぐらいである。このとき継之助はまだまだ帰国心ていなかったが、藩代表が
 −徳川氏が恭順している以上、出兵の必要がないではないかや会津藩がよくないというなち、討伐なさるよりもわが藩がなかに立ってよく諭しましょう。
 と返答した。その後、そのことを担当した鎮撫使は江戸へ去った。藩代表はともに江戸にむかったが、その途中、鎮撫使のほうから、出兵せぬというなら、金三万両を朝廷に歓納せよ。これ五日かぎりで返答せよ」
 と要求した。藩代表がいそぎ帰国したとき、継之助は長岡に帰っていた。「返事などいそぐことはない」と継之助はいった。「どうせ西軍はあらためて越後にやってくる。そのときにしかるべく処理して遅くはない」と言い、藩方針もそれにきまった。
 西軍は、きた。第一段階は土州の岩村高俊のひきいる部隊であり、第二段階はその本軍ともいうべき山県、黒田のひきいる大軍であった。かれらは、
 「長岡征討」
という表看板でやってきた。長岡藩をなだめ、外交によって新政府にひき入れようという努力はいっさいしなかった。
 なぜか。
 新政府は、兵力乏しく、財力の余裕がなく、内政外政ともに混乱し、その混乱のなかで物事を処理しているために、外交でものごとを解決してゆこうという大政府らしいゆとりをもたなかった。第一、そういう外交を担当できる能力者がいなかった。薩の代表の西郷吉之助のみがそういう外交感覚、外交能力、それに人望をもっていたが、他の志士あがりの要人はいたずらに気概に富むのみで、人物としては二流人が多く、表意服させてまるめこむというような芸当ができない。その唯一の能力者である西郷は江戸のことにかまけて北越のほうには手がまわらないのである。
 第二の理由としては、この戦いの本質が、新政府にとってはあくまで革命戦争であるということだった。革命には、過去の権威に対して血の犠牲が要る。当初、薩長は慶喜の首を欲し、無理難題をふっかけて挑発しようとしたが、慶喜が恭順の一手でにげきってしまったため、それにかわるべき目標して会津藩がえらばれたのである。会津藩の同調者としてかれらは長岡藩をみた。「ついでに屠って天下のみせしめにせよ」ということが、革命というものの基本的政略であった。
 右のために、新政府は、いっさい自分のほうから長岡藩に対し、外交の手をさしのべようとはしなかった。
 −長岡藩は、会津に同心している。
 という、一方的観察が、この開戦の理由になっていた。同心している、ということ新政府側が一方的に得た謀報や風聞にもとづくものであり、長岡藩の公式声明によって判断したものではない。
 継之助も、これについて沈黙している。かれが戦いまぬがれようとすれば、早くから京の新政府や、その出先機関である江戸の大総督府に外交使を出せばよかったであろう。しかしそれをしなかった。
すれば、自明のことがおこる。官軍側は
「では兵を出せ。貴藩は地理的隣接地にあるから、会津討入りの先鋒になれ」
というにきまっている。官軍がもっている態度はそれひとつきりであることは、いままでの事例でも明白であった。となれば、長岡藩から外交使を出すことは、会津藩を売ろことであり、売るばかりか、同情こそあれ恨音なにもない会津藩に討伐の銃砲火をあびせるというふしぎな立場におちいってゆかねはならない。二者択妄のである。
 新政府につくか、会津藩につくか。
 というどちらかしかないとい−つのがこの時勢であり、時勢の切迫であ。つたが、しかし継之助はあくまでも中立が存在しうると信じていた。
 その中立をまもるために、この小藩にすれば過重なほどに新慧器を買い入れ、藩軍を洋式化し、封建組織をあらゆる面であらためつつあった。中立はたとえ情報上不可能であろうとも、日本国でただ一つの例外を、継之助はその全彗をかたむけてつくりあげるつもりであった。事実その方向にむかい、長岡藩は車輪をとどろかすようないきおいですすんでいる。
 が、新政府は、そういう思考法いうものをいっさいみとめないという墓の上に立っており、解決の方法は、砲火と流血のほかはないという態度をとっていた。

■外交に岩村のような小僧を出したのが官軍の大きな失敗

<本文から>
継之助は、小千谷を去った。
−官軍の大きな失敗だった。
とは、後年、新政府内で一致した反省であった。たれが継之助を去らせたか。
「岩村だ」
と、後年、長州人品川弥二郎はいう。品川は長州革命派の正統ともいうべき松下村塾の出身で、多年志士活動をし、この時期は京都にいた。ついでながら、最初の品川が北越方面の司令官になるよう内示があったが、どういうわけか品川はことわった。機敏な品川は、北越の様相が新政府が楽観すろほど容易なものではないことを察知していたのかもしれなかった。とにかく後年、品川は、
「そもそも河井の相手に岩村のような小僧を出したのがまちがいのもとだ」
と、男爵をさずけちれた岩村高俊を小僧よぱわりしている。もっとも岩村はその風があった。物事の筋道を好み、理屈と正義を愛し、それをまもるためには居丈高になるところがあり、自然、寛容さにとぼしく、なにごとも高飛革に出てゆく。権力好きの小僧というか、どちらかといえば検察官の性格であったというべきであろう。
 「だから人選がまちがっている」
と、品川はいうのである。品川にいわせればなぜ黒田了介か山県狂介が出て直接河井に会わなかったか、という。
 「黒田はああいう男だからなおいい」
という。ああいう男、というのは人柄が茫漠としていて、物事に窮屈な先入主をもたず、直観によって事態の本質を感知するという意味であろう。それには故に対するやさしさがなければならず、さらにいえば敵に対する優しさというのは、これは薩摩人のもつ伝統的な思考の型であり、黒田了介も十分にそれをもっている。黒田はのち北海道の五稜郭にこもる旧幕軍を攻め、成功し、しかも敵を殲滅することなく外交をもって降伏させた人物である。
 「山県でもいい。山県が河井に会うても戦争はせなんだであろう」
と、品川はいう。山県狂介は軍人とはいえ政治家の器質があり、この事態を政治的に解決したにちがいない、と品川はいうのである。
 ちなみに、やがてはじまるこの北越戦争で品川や山県と松下村塾の学友だった時山直八が戦死するが、品川は、
「時山は惜しかった。時山と殺したのはおまえじゃ」
と、後年、しばしは山県にいった。山県はそのつど「真っ赤になって、そうじゃないとか何とか怒るのじゃ」
。とにかく継之助は小千谷を去った。信濃川の東岸の道をとりながら、
「ついに戦争か」
と、何度もつぶやいた。
「もし戦争せずにすむならば汽船の二、ニ隻も買い入れ、藩士の二男三男坊を商人にし、貿易を学ばせ、シナや朝鮮にやって大いに国富を豊かにするところであったが、その望みもどうやら絶えたな」と二見虎三郎にいった。

■継之助が考えた戦争の意義

<本文から>
継之助は、この戦争の意義について考えつづけた。
−美にはなる。
というこであった。人間、成敗の計算をかさねつづけてついに行きづまったとき、残された唯一の道として美へ昇華しなければならない。「美ヲ済ス」それが人間が神に迫り得る道である、と継之助はおもっている。
 −考えてもみよ。                            、
と、継之助はおもう。いまこの大変動期にあたり、人間なる者がことごとく薩長の勝利者におもねり、打算に走り、あらそって新時代の側につき、旧恩をわすれ、男子の道をわすれ、言うべきことを言わなかったならば、後世はどうなるのであろう。
 −それが日本男子か。
 と、おもうにちがいない。その程度のものが日本人かと思うであろう。知己を後世にせめようとする継之助は、いまからの行動はすべて「後世」という観客の前でふるまう行動でなければならないとおもった。
 さらにまた。
 人間とはなにか、ということを、時勢に驕った官軍どもに知らしめてやらねばならないと考えている。驕りたかぶったあげく、相手を虫けらのように思うに至っている官軍や新政府の連中に、いじめぬかれた虫けらというものが、どのような性根をもち、どのような力を発揮するものかをとくと思い知らしめてやらねばならない。とくと思い知らしめてやらねばならない。
−必要なことだ。
 と、継之助は考えた。長岡藩の全藩士が死んでも人間の世というものはつづいてゆく。その人間の世の中に対し、人間というものはどういうものかということを知らしめてやらねばならない。

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