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<本文から>
かつ、大阪湾から紀淡峡にかけての海域には幕府海軍がその総力をあげて艦隊を集結させており、この封鎖のため京の薩長軍は兵員の補給は不可能あった。
とかれら開戦派がみたのは当然であり、敗北の見通しをもっているのは、徳川慶喜と、その首相である板倉勝静のふたりきりなのである。
「なぜ、継之助はこれを負けると見る」
せ、板倉がきいた。
−政治で負けるだろう。
というのが、継之助の観測であった。開戦をしても、開戦に必要な名分がない。天下を昂奮させ、天下をあげて徳川方を支持せしめるようなそういう名分がなかっあ。この点で政治的にきわめて脆弱である、と継之助はいう。
さらにまた、と継之助はいう。薩長に幼帝をうばわれているのである。
「これが、いかにもまずうぞぎいましたな」
と、継之助はいった。江戸末期以来、尊王論が普及し、いまや民間の読書人にまで滲みわたったほどの普遍化した思想になっている。現に慶喜も尊王であり、板倉早くから尊王であり、さらに徳川家に対してもっと強烈な忠誠心をよせている会津藩が、遠い時代の藩祖以来、神道を信奉し、尊王という点ではもっとも伝統がふるい。
その「王」を、薩長にうばわれている。いま京に攻めのはれば一旦は勝てるかもしれないが、薩長軍は幼帝を擁して各地転々とし勤王の義軍を天下につのるであろう。そうなれば天下の勤王家、野心家、浮浪が立ちあがって結局は徳川軍は孤軍になり、上様は国外に亡命でざるをえないだろうと継之助はいうのである。 |
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