司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          峠・上

■継之助はつねにものの本質を見ぬくことから思考を出発せるくせをもっている

<本文から>
 みな、意気軒昂としている家重代の具足に身をかためている者もあり、先祖が大坂夏ノ陣で一番槍の功名をたてたという、その皆朱の大槍をりゆうりゅうとしごいている者もあった。
 (ああ、日本も長岡藩もほろびる)
 と、継之助は、いま目の前で太陽が落ちてゆくような、そういう感慨をもった。
継之助は、かれらを藩邸の剣術道場にあつめ、正面に着座した。
戦陣の作法により、大将床几をすえてそれに腰をおろしている。多少いい気がしないでもない。
「諸氏、ご苦労に存ずる」
 継之助はいった.
 しかしそれ以上はいわず、目をぎょろりとさせたまま押しだまった。そのつち構えに凄みがあり、満座は息をさえひそめた。
 (負けだ)
継之助は胸中、さけびたい。英国その他の欧州の列強に対してである。藩祖以来百戦百勝の武勲をもつ長岡藩も、それは所詮は大阪夏ノ陣までのことであり、こんにちの世界の列強には敵すべくもない。
 なぜか。
 継之助は、つねにものの本質を見ぬくことにおいて、そこから思考を出発せるくせをもっている。継之助は、佐久間象山や古賀謹一郎から産業革命のことをきいた。
 欧州で蒸気機繋発明され、その後ここ半世紀ほどのあいだに欧州の横械文明が飛躍、国力が充実し、列強がたがいに刺激しあって兵器を進歩させ、東洋とのあいだに大きな差がついた。
その間、日本はねむっていた。そのため、
 −いざ戦さ。
 といえば、このかっこうである。三百年前の武者の亡霊が出てきたようではないか。
 日本と欧州の差は産業革命でついた、それだけである、その点に追いつくだけでいい、と継之助はかねがね思っている。おもっているものの一介の藩士の身ではごまめの歯ぎしりで、どうすることもできない。
(幕閣も藩重役も、みな無知無能、臆病で事なかれでおざなりである。その無能な幕閣が藩重役に横浜出撃命令してきた。藩重役はただ幕府をおそれるのあまり、なんの意見も上申せず、おれにおっかぶせてきた。その結果が、この鎧兜と火縄銃の祭りだ)
 この連中を、つれてゆかねばならない。
 「河井氏、なにかおはなしを」
と、かたわらの目付役の者が、ほんやりとすわっている継之助に注意をうながした。
 「心得た。申しのべよう」
 継之助は、例の生殺与奪の権をこの隊長である自分がもっている、軍令の批判沙汰をせず、即座にきいてもらいたい、とまず申し渡したうえで、
 「その具足をぬげ」
 と、大喝した。みなおどろいた。継之助のいうところでは、戦さなどは無用である、おれとおなじ恰好をしろ、槍も鉄砲も荷作りしてさきに横浜へ送っておけ、ということであった。」

■継之助の知りたいことは原理であった

<本文から>
 河井継之助という、するどい、傾斜をもった性格の男は、人の世の「原理」をもとめているらしい。人の世の原理だけでなく、自分の生きかたの原理をもとめているのであろう。
 このスイス人が、
 −あすの夕方、自分のはうへ御招待したい。受けてくださるでしょうか。
 と、福地の通訳を介していったとき、継之助は即座に受けた。
 「あなたも、めずちしがり屋ですな」
 と、福地源一郎は自分と同類である、というふうにからかったが継之助はそういう福地の軽薄さがどうにもいやで、一顧もあたえなかった。継之助はめずらしがり屋ではない。
 自分では、そうおもっている。継之助のつもりでは、
 (このスイス人から、何事かを得るだろう)
 とおもって即座にうけたのである。といって、スイス人から新知識を得ようとおもったわけでもない。このあたりは、継之助の心情のきわどさであった。
 説明が、むずかしい。
 継之助はかれ自身、自分を知識主義ではないとおもっている。
 −知識など、生き方のなんの足しにもならない。
 という側の信者であった。漢学をまなぶにあたっても万巻の書を読もうとせず、博覧強記を目標ともしなかった。知れば知るほど人間の行動欲や行動の純粋が衰弱する、という信条をもっている。どの藩にもいるあの知識のばけもののような儒者どもをみよ、と継之助は平素おもっている。それら、行動精神のない知識主義者をこの男は、
 −腐儒
 とよんでいた。
 継之助の知りたいことは、ただひとつであった。原理であった。
 歴史や世界はどのような原理でうごいている。自分はこの世にどう存在すればよいか。どう生きればよいか。       それを知りたい。知るにはさまざまの古いこと、あたらしいこと、新奇なもの、わが好みに逆くもの、などに身を挺して触れあわねばならぬであろ。

■山田方谷へ入門

<本文から>
暑い日が、つづいている。
 この間、
 −入門のこと、いますこし待つように。
 と、山田方谷から何度か使いがきた。方谷が城下に出てきたときは、すぐよばれて話もきいた。が、入門の許可が降りない。
 「薄庁に願いは出してあるのだが」
 と、方谷はつねに言う。しかし許可が降りないのさ、というのである。藩の政務長官である方谷の願いだからすぐにゆるされそうなものだが、どうしたことであろう。
 (おれを観察しているのだ)
 と、継之助はおもった。他藩の者であるため、一応も二応も、藩では疑う。間諜ではないか、ということをである。
 許可がおりたのは、この城下に入って十数日経ってからであった。その間の旅籠代も、ぱかにはらない。
「よう辛抱なされた」
と、方谷もほめてくれた。
継之助は城下の旅籠「花屋」をひきはらって二里むこうの方谷の開墾屋敷にひき移った。
 入門料、授業料といったものは、わずかなものであった。
「松魚料百疋」
というのが、束脩蕃備(入門科)である。一疋が銅銭二十五文だから、たかが知れている。それに方谷の家人への手みやげとして菓子折りを買って行った。それだけであった。
「学問の講義は要りませぬ」
と最初に継之助のほうからことわってあったから、先生と起居を共にするだけのことである。夜分など、方谷にひまがあると雑談してくれる。その雑談が、継之助にとって宝石のように貴重であった。
継之助のこの閑重量敷での在学期間は、一卜月半でしかない。
 その間の方谷の雑談は、たとえば、
「古来、英堆は自立した」
と、方谷はいう。しかしながらいまは封建の世であり、上に将軍、大名がいる。英雄の資質をもっていても自立はできない。
 「な、河井。そうであろ。」
 と、方谷は念を押した。方谷は継之助の性格がきわめて独音自尊の気概に富んでいることを見ぬいての上であろう。
 「それゆえ、いまの世では英雄は人に使われなければならぬ。いまの世で人に使われることが出来ぬ人間は、大した男ではない」
 「されば、佐久間象山はいかがです」
と継之助はきいた。象山は信州松代藩真田家の家来である。しかしながら象山は自分の才を恃み、藩の重臣たちを軽蔑し、かれらとことごとくそりがあわず、その活動はむしろ藩外が中心になっている。
「佐久間の才は、百年か千年に一人、出るか出ぬかという巨才だ。しかし性格が驕慢で鼻もちならぬ。人はその才を怖れるが、その人物を蛇喝のようにきちう。これではせっかくの才が、世に行われようもない。封建の世を動かそうとすれば人に使われねばならず、人に使われるためには、温良で謙虚であらねばならぬ」
 −河井、心せよ。
と、方谷は継之助の人柄をみて、わざわざ佐久間象山を悪例としてひきあいに出したのであろう。

■武士は両刀をすて、世界最新の兵器をもって武装せよ

<本文から>
ナルシシズムが道心にまで醸化したものが、刀は武士の魂というものなのである。
「あたちしい世ひらく者は、あたちしい倫理道徳を創めねばならぬ」
 というのが、継之助の意見で雪た。武士は両刀をすて、世界最新の兵器をもって武装せよ、ということであった。
「まして、書面骨董、銅器、漆器のごときものが何あろう」
と継之助はいうのである、言いおわってから、かれはもっとも重要なことを最後にいった。
 それを最後にいったのは、いかにもこの男らしい。

■京の開戦の慶喜の立場を理解

<本文から>
 「お話の途中ですが、河井どのは、それについてどう思われます」
 と、質問した者がある。京で開戦しなかった慶喜の態度を腑甲斐なしとしてくやしがる向きは、会津や桑名藩士に多い。当然、継之助の長岡藩士にもその気分がある。
 継之助は、慶喜の立場を是としていたからそれをくわしく説明した。
 「おれが将軍でも、そうしている」
 と、継之助はいった。
 「あのとき京で開戦すれば、薩長の思う壷に入りこむようなものさ」
 「なぜでしょう。あの小御所会議の時期においては慶喜公の麾下は、薩長の人数をしのぐこと数倍です。勝ちますL
 「勝つ勝つ」
 継之助は、笑いだした。そりゃ勝っているわさ。京都ではね。その辺のことは薩摩の西郷は百も計算ずみさ。薩長は京都において敗戦すろが、幼帝を抱きかかえて丹波格へ逃げ山陰を経て芸州広島城あたりに幼帝を動座申しあげ、そこで錦の御旗をひるがえして、国中を真二つに割って徳川と決戦しようとするだろう。おれが西郷でもそうするさ。
 「とどのつまり、いずれが勝ちます」
 「時勢を背負っているほうが勝つね」
 「それは、いずれの側でしょう」
 「おみしゃん、頭がわるい」
継之助は薩長だといいたいのだが、それは公言できない。

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