司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          翔ぶが如く 9

■篠原国幹が弾丸が無くなったので戦線離脱する

<本文から>
 あとはくたびれればひきあげるというものだった。日本の戦史からいっても、これほど戦争−戦闘には熱心でも−を理解しなかった集団は、まれであるといえるかもしれない。
 篠原は、その代表的な男だった。
 午後二時どろになる。と、かれの麾下千二百人が携帯していた銃弾がなくなった。
 篠原はそれ灯より、自隊をまとめ、さっさと戦線を離脱してしまったのである。
 この時刻は、敵中に入りこんでいる桐野・村田の隊が、もっともさかんに戦闘しているときだった。かれらこそ、いい面の皮だった。敵中で置き去りされてしまった。
 中央隊篠原国幹が−弾丸が無くなったという理由だけで、その意味でいえばほとんど少年のような無邪気さでもって−戦線離脱してしまったということは、かれの可愛らしさを表現する行動だったといっていい。
 かれは極度に無口なために、ひどく物事を考えていそうな男のように見られてきた。
 しかし、かれが衆議の場所で発言したり、決定に参加したりしたことを集めて考え直してみると、やはり物事を全体像として見たり、総合して考えたりすることのできない人物だったかのように思える。将領とは総合的思考者のことをいうが、篠原は戦場において物事を絵合する力を欠いていた。西郷がこういう一種の愚人を抜擢して陸軍少将にしたり、それを桐野とならべてもっとも愛し、こんどの挙兵においても桐野とならんで二本の柱として重用してきたことは、西郷におけるわからなさの一部分である。
 篠原は、自分と自分の麾下千二百人が勝手に撤退してしまえば、敵中で斬りまわっている桐野・村田の千教百人が孤軍におちいるということを、思わなかったのかどうか。
 「弾がなくなったから仕方がなかった」
 と、篠原はいうであろう。篠原は個人としては多くの美質をもち、魅力にも富んだ男だったが、しかし自分自身がなすことについての影響の計算において致命的なものを欠けさせていた男ではなかったか、と思える。

■田原坂での行きあい弾

<本文から>
「田原坂その局辺で激戦がつづいている。
 ちなみに、いまなおこの付近の土の中から銃弾が出てくるが、ときに「行きあい弾」とよばれるものも出てくる。敵味方の弾が空中でぶつかりあって互いに噛みあい、だんごのようになったもので、現在、田原坂の薮の上の通称「弾痕の家」とよばれる家にも、一つ二つが保存されている。
 偶然のおもしろさというようなものではないであろう。こういう「行きあい弾」が幾つも発見されたというのは、一定の空間によほど濃厚な努度で銃弾が往来しないかぎりきこりえないものと思われる。
 十数日つづいた田原坂の攻防故というのは、同時代の世界戦史のなかで、激戦という点で類を見ない。小銃弾の使用量のかかはずれの大きさも、機関銃の出現以前の吸いではこの兵力規模で他と比較しょうにも例がないのではないかと思える。さらには防禦側の意志の強烈さと攻撃仰の執拗さは一種恐怖をさえ感じさせるものがある。

■隼人が翔ぶがごとく襲い、翔ぶがごとく退いた

<本文から>
 薩軍は、奇妙なことをした。
 かれらが強烈な郷土意識をもち、かつその郷土から兵員と物資の補給をうけていたにもかかわらず、その郷土の防衛をせず、−鹿児島県一つを置きぎりにして他郷に突出しているのである。
 「鹿児島県士族の気質」
 ということについて、薩摩出身の陸軍大佐高島鞆之助は、私学校が暴発した早々、山県陸軍卿に対し、説いている。
 「彼等は進むを知って遠くを知らず。唯、猪突を事として、縦横の横変に応ずるを知らず」
 まことに上代の隼人が翔ぶがごとく襲い、翔ぶがごとく退いたという集団の本性そのままをいまにひきついでいるかのようである。
 高島鞆之助はむしろこれを自分の出身集団の美質であると思っており、さらにいえげかれらに横変に応ずる才や能がないとは思っていない。無いのではなく、戦いに臨んで小才を利かせて右往左往することを美的に嫌う習性があることを、長州人である山県に説いているのである。
 「これと正面より衝突すれば彼等をして大いに長所を発揮せしめることになり、とても弱兵ぞろいの鎮台兵の刃の立つところではない」
 であるからかれらの正面をおさえる場合、常に衝背軍を設け、その側面や背後を衝きくずすがよい、と高島はいった。が、山県の器量ではそれができず、薩軍の猛勢にひきずられるのみで、田原坂における牛の角の衝きあいのような正面衝突戦になった。

■宮崎八郎の最期

<本文から>
 (どうやら、この堤が死湯所になったようだ)
 と、乱軍のなかで宮崎八郎はおもった。かれは熊本協同隊幹部であって、辺見の部下ではない。連絡将校としてきているために、自分の部下もない。
 立場上、薩軍を置きすてて逃げることも許きれたし、雪がくれてやがて熊本の協同隊本営にぶじ戻るこそ、むしろかれの本務に添っているといえなくもなかった。
 しかしこの当時の倫理感情は、まったくちがっている。かれは身軽で選択をゆるされている立場であればこそここで死ぬべきだと思い、瞬時に決心した。
 かれのそばに、辺見十郎太がいた。
 辺見は、鹿児島出発以来、赤旗をもって指揮旗としている。六尺ほどの竹竿に赤い布をつけて、それを左右に振ったり、前後あるいは上下させたりして兵たちに信号して指揮してきたが、八郎はそれを自分に与えよ、と強要した。八郎の血相が変わっていた。
 「辺見君、その指揮旗を私に貸せ」
 指揮旗でなく軍扇であった、という説(玉名郡志)もあるが、辺見の指揮者としての象徴・道具が赤の指揮旗であったから、辺見の身代わりになろうとした八郎は当然指揮旗を要求したであろう。
 その理由は、
 「君が死ねば、薩軍は総崩れになる。ここは私にまかせてもらいたい」
 ということであった。
 辺見も、八郎にゆだねることにした。
 八郎はよろこぴ、指揮旗をとってかぎし、父の長兵衝からゆずられた「胴田貫」の太刀を抜き、左手に指揮旗を持ち、指揮旗の樟のさきを土中に突き刺した。
 そのあいだも、薩兵たちは水辺へ走りくだっては、泳いだ。
 堤上には、ためらっている辺見と八郎のほか、数人しかいなかった。辺見は、去ろうとした。その瞬間、川とは反対の方角から飛んできた政府軍の小銃群が八郎の下腹を穿った。
 宮崎八郎はかねがね、
  男児よろしく梢煩弾雨の中に死すぺし。しからずんば山水の間に高蹴長せうせんのみ。
 といっていたと、同志の有馬源七は追憶して書いている。弾雨の中で死ぬか、山水にかくれて高踏長せうせんするかのどちらかだというのは、革命家としての執拗さという点で、やや欠けていると言えなくはない。
 しかしこのことは、かれの末弟の宮崎潜天にも通じるであろう。日本的な武芸質と詩的詩人としての詩的感情が、強烈な正義感とともにかれを動かしてきた。
 この点、かれは詩的気分としては幕末の志士たちの正統の後継者であったといえなくはない。かつての志士たちの多くは、自分の人生や生命を一斉の詩として昇華することを望んだが、人民を座標に置いた最初の革命家である宮崎八郎もそうであった。その望みのように、死が弾雨の中の萩原堤でするどくかれをとらえた。下腹部の盲管銃創は、致命傷であった。
 しかし即死にはいたっていない。
 以下、辺見十郎太が熊本協同隊の連中に語ったらしい八郎の最期は、負傷後、なお息があった。
 辺見が駈け寄ると、入郎は下腹をおさえつつ、懐中から日記の冊子をとりだし、
 「これを、協同隊の者にわたしてもらいたい」
 と、辺見にわたした。「大切なことが書いてある」ともいった。八郎は革命家としてはそれらしい仕事も著述もせずにあっけなく死にいたるが、かれはこのことを予感して陣中であとへ遺すべき感想、抱負、論策などを書きつけていたに相違なく、むしろその文章の中に、後世からみれば入部の存在そのものがこめられていたかもしれない。
 が、後世には伝わらなかった。
 辺見十郎太が敷から逃げるべく球磨川に飛びこんだときに、流してしまったのである。辺見は元来文字、書物、あるいは思想などというものにこだわりを持たない男で、八郎からあずかりつつも大したことはあるまいと思っていたのであろう。

■降伏したら敵に使われてきた日本古来のルールを昭和陸軍が変えた

<本文から>
 「降伏したからには、官兵として働きたい」
 と、かれらが積極的に望んだからであり、その口上はさらに情緒的で「万死を冒して前罪を償いたい」というものであり、一種、奇妙というほかない。
 このことは日本古来の合戦の慣習であったであろう。降伏部隊は鉾を逆にして敵軍の一翼になるというものであり、駒を奪ればその駒を使うという日本将棋のルールに酷似している。ついでながらこの古来の慣習はその後の明治陸軍の弱点として意識されつづけ、日露戦争のときも捕虜になった日本兵は日本軍の配置を簡単にロシア軍に教えた。とくに敵中へ深く入りこむ騎兵斥候が捕虜になる湯合、騎兵の特質上味方の配置を知っているために、かれらがロを割ることによって日本軍の作戦がしぱしば齟齬した。この体験が、昭和以後、日本陸軍が、捕虜になることを極度にいやしめる教育をするもとになったといっていい。

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