司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          翔ぶが如く 8

■西郷の不可解さ、以前に比べ軍資金の無頓着など

<本文から>
 高城城義之氏は、西南戦争について西郷がとった態度の不可解さ−以前の西郷にくらべ−につき何項目かをあげ理解に苦しむとされている。一つは本来、経済に綿密だったはずの西郷が軍資金について全く無頓着だったことや、また作戦行動中、戦いは桐野らにまかせきりで
終始無為傍観の態度をとおしたことなどをあげ、あるいは「頭の強打との間に、何か因果関係があるのではないかとも考えます」と、いっておられる。以上は、昭和五十年三月十四日付で筆者がうけとった手紙の要旨である。
 いまとなれば、西郷の行動を病理的に解釈づけることは不可能だが、すくなくとも西南戦争における西郷の行動の巨細をもって西郷像を決めるとすれば、幕末において西郷があれ性どの活動をした革命家であったということのほうが、うそになる。あるいは、桐野らは西郷の知能に期待せず、西郷の知能よりも、西郷の世間における圧倒的な名声のほうを−意識的に−担ぎあげたのではないか。

■薩軍は外界を都合良く解釈した

<本文から>
 この点、サトウが耳に入れた地元情報では、
「海軍大輔川村純養が西郷と仲がいい。だから川村は鹿児島湾に艦隊を入れない」
 ということであった.
 あとで実際に艦隊が入ってくるのだが、しかし薩軍本営はこのときおそらくサトウがきいた訛伝−決して川村海軍大帝は海軍を動かさない−というほうを信じていたのであろう。すくなくとも自分たちの作戦案の盲点をそのように「解説」することによって下部に流し、下
部をなっとくさせていたに相違ない。西郷と薩軍の作戦案は、いかなる時代のどのような国の戦史にも例がないほど、外界を自分たちに都合よく解釈する点で幼児のように無邪気で幻想的で、とうてい一人前のおとなの集まりのようではなかった。これとそっくりの思考法をとった集団は、これよりのちの歴史で−それも日本の歴史で−たった一例しかないのである。昭和期に入っての陸軍参謀本部とそれをとりまく新開、政治家たちがそれであろう。
 サトウが、半ば信じたかにみえるこの訛伝には、つねに訛伝がそうであるように、尾鰭がついている。尾ひれは、熊本鎮台についてである。
 「熊本鏡台から、鹿児島に使者がきた。それによると演台では西郷を迎えるために、兵隊千五百人が、八代まで出ている」
 というのである。むろん、熊本鎮台から使者も来ていなければ、西郷を出迎えることもしない。
 薩軍の甘さは、熊本鎮台がそういう態度をとってもおかしくない、と思いこんでhるところにあり、この虚報も、そういう甘さから出たものといっていい。

■大久保の甘い観測の理由

<本文から>
 東京の大久保忙いたっては、あれ佗ど対薩問題に神経をすりへらしながらも、情勢把握が甘かった。かれが上方にいる伊藤博文に、
 −西郷は起たない。
 という手紙を送ったのが七日付であることはすでにふれた。大久保はこの伊藤への手紙と佗ぼ同趣旨の内容のものを、現地の熊本県権令富岡敬明にも、十二日付で書き送っているのである。直訳すると、
 「今般、鹿児島県の駐擾については種々巷説もあるが、真相はまったく私学校の過激少年輩のやったことで、もとより旧藩主父子(島津久光、忠義)にも関係ないし、また西郷隆盛についても、かれは過激少年を説諭したがついに承服させるにいたらなかったため、身を避けてしまった。県令大山網良も、すこしも方向をまちがっていない。大山県令は十分これが鎮撫につとめている」
 と、あやまった情報を、現地の県当局に教えているのである。大久保のこの手続の趣意は、鹿児島におけるたかがそれだけの実態が過大に熊本県下に伝えられて熊本の士族が軽々に暴発するようなことがないよう(決して、管下土民、動揺これなき様、取締筋注意致し、人心鋲好漢様、取りはからふべく)内達したつもりであった。
 大久保は、薩人であるために、つい希望的な観測をした。そのあまさは、この「内達」が富岡権令の手に入るころには、肥後平野の一角に、薩軍があらわれていることでもわかる。
 しかし、山県陸軍卿と谷熊本鏡台司令長官との書簡の往復の気分は、双方、鎮定機関の当事者だけに、右のように甘くはなかった。
 大久保の観測や配慮がなまぬるくみえるのは、ひとつには、かれの政権の重大危機に際して、軽々に軍事上の発動をすることの危険を計算しぬいてのことであったであろう。もし政府が、早まった情報に動揺し、薩軍が未発のうちに兵を動かすようなことがあれば、各地の不平士族にいっそうの反撥を買い、かれらの戦意を昂揚させ、政府と政府軍は窮地に追いこまれることは決まりきっている。大久保の、この一見、情勢に鈍感であるかのような態度と処置は、そういう要素が計算済みだったに相違ない。

■熊本県士族の参加

<本文から>
 学校党は、幕末における公武合体派(佐幕派)だったとはいえ、薩摩の島津久光のような狂信的な保守主義ではなかった。かれらの出身は石取り階級が多く、また旧細川藩における官僚層の出身もしくはその子弟が圧倒的で要するに薩長両藩に壟断されている東京政権については朕をうちわれば、
 「天下を二、三の旧雄藩の者で専有していいのか」
 という、維新に乗りおくれた細川武士の雄藩人としての素朴な自負心と憤りからその反政府熱は出ているといっていいであろう。
 かれらは、池辺吉十郎に統御されていた。池辺は肥後の西郷という異名さえあったほどに人望のある男で、かっては二宮石の身分であり、幕末やは新川家を代表して京都にあり、公用人として奔走し、幕末における薩長の倒幕活動を陰に陽に牽制した。が、薩長が成功して新政府ができた。池辺としては、満腔の不満があって当然であろう。
 かれは、西郷という反政府的存在に、第二の維新を夢見た。西郷の帰山後はその局辺とたえず連絡をとってきたため、薩人にとって池辺の名前は決して他人ではない。
 二十一日、蛮軍の先鋒主力が熊本の南郊の川尻に達したとき、池辺はかれの名で学校党の同志を旧城下の江津学校にあつめたが、そのとき来集したのは千人前後にのぼったという。
 このうち、二十二日の緒戦に参加したのは、六百余人である。この人数でにわかづくりながら大隊を編成し、池辺が、その大隊長になった。
 二月二十二日の戦闘における熊本県士族の参加は、学校党だけではなかった。
 「慮騒きちがい」
 と、学校党から、頭のぐあいがおかしのではないかとさえいわれていた民権党も、小人数ながら薩軍の陣頭を駈けた。
 郷士宮崎八郎らである。
 八郎が、中江兆民からルソー思想についてのかいつまんだ紹介をきいてからの感動は日を経るにつれて激烈なものになっている。
 八郎が民約論をはじめて読んだときの感動の詩は、若い熊本県士族の一部に愛唱されはじめていた。
  天下朦朧トシテ皆夢魂
  危言独リ乾坤ヲ貫カント欲ス
  誰力知ル新郎悲風ノ底
  泣イテ読ム虚騒民約論
 日本の明治維新は粗放な民族主義のみがエネルギーになり、世界の大思想に触れることなく拙速に成立してしまった。このため、革命政権の成立後、とくに在野勢力は沸騰したエネルギーの方向づけに悩みつつあったが、八郎がいう「天下朦朧」というのはそのことを指すのであろう。ところが、ルソーの危言はじつに明快で、天地人倫を貫くにあたいするものである。八郎の悲壮感としては、自分ひとりがそれを知っている、この想いが「凄月悲風」という措辞のひびきに重なるのであろう。
 明治九年秋、熊本神風達が暴発したとき、八郎は東京にあった。鎮台が一時ながらも潰乱したことをきいて勇奮し、故郷にかえった。
 八郎にすれば、萎月悲風の想いをはたすには、武装蜂起するしかない。それがためには、鹿児島において地鳴りのように鳴動しつづけてなお烈震にいたらない勢力と結合するほかなく、党員を集める一方、西郷の決起を足習りするようにして待ちに待った。


■薩軍は補給手当、夕食まで考えていなかった

<本文から>
 二十二日の陽が落ち、やがて城下に暮色が濃くなったが、双方の銃砲火は一向におとろえをみせない。
 鎮台側は、郭内のどの防禦線においても、人数の点では薩軍に比し、寡少だった。しかし熊本城という無類の防塁に拠っている上に小銃の性能が薩軍に優越し、砲カにおいては、薩軍を圧倒しつづけた。ついでながら薩軍の砲兵はこの日まだ戦場についていなかった。逆にいえば薩軍は、攻城の主力兵器であるはずの砲をさえ侍まなかった。かれらの砲は、攻撃を一日待てば戦場にとどいていたにもかかわらず、小銃と圧倒的な士気だけで熊本城を踏みつぷそうとしたのである。
 薩軍は、一まことに卒然と攻めた。
 信じがたいほどのことだが、薩軍は補給の手あてどころか、この日の夕食をどうするかさえ決めていなかった。このことは、薩将たちがこの二十二日ただ一日の強襲だけで熊本城が攻めおとせるものと信じていた証拠であり、その信念の基礎はただ一つしかなかった。薩摩武士の神秘的なつよさについての自負であった。たしかに、薩人は強かった。兵の強さにおいては、おそらく世界一であったであろう。

■薩軍は戦略を持たなく、政略は気体のようなものであり、西郷の存在が戦略であった
<本文から>
  当初、鹿児島を出るときの私学校の政略は西郷軍が東京にせまることによって満天下の不平士族(だけでなく各地の鎮台まで)が風をのぞみ、あらそって軍旅に投じ、ゆくにつれて軍勢は雪だるまのように大きくなり、ついには東京を圧倒するにいたるというものであった。ただ、政略(多分忙希望的要素がつよかったが)は、存在した。それを実現せしめる戦略を持たなかった。政略はいわば気体のようなものであり、それを固体化するのが戦略であったが、桐野・篠原らの感覚では、西郷その人の存在こそそのまま戦略であるとしたむきがつよかった。西郷さえ持ち出せば、その圧倒的人気(と桐らはさもっていた)によって、戦略の機能を十分果たしうると思っていた。
 要するに、桐野・篠原らは西郷という世間的価値に、世間以上にまず自分たちがまばゆく眩んでしまったということであろう。このために常識的な意味での政略も戦略も考えなかった。そのため、政略も戦略も、眼前の戦術的存在にすぎない熊本城にとらわれてしまったとき、霧のように消えた。戦いは、政治牲も戦略性もうしなって、瑣末な戦闘にすぎなくなった。
 かれらは、自分たちの戦場が日本全土であることを忘れ、ごく小さく、熊本城とそこにコンパスの針を置いてせいぜい一日半の行程の範囲内だけを地理的な思考圏にするにとどまるようになった。
 せっかく木葉を占領しながら、さらに兵を進ませることなくあわてて植木(熊本から半日行程)まで撤退させたのも薩軍が戦術部隊に堕ちてしまっている証拠であり、さらには菊池川をわたって高瀬(熊本から一日行程)を占領しておくこともせず、結局は政府軍が高瀬を占領してからやっと兵を繰りだすというかたちになった。政略や戦略よりもいちいちの戦術的戦闘にこだわる弊が、かれらをそうさせてしまったといえるであろう。

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