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<本文から>
その日、野村忍介は朝から半日私学校にいた。
−太政官が薩摩を討つといううわさはどこから入ったか。
という経路を調べるためだった。
うわさはすでにひろがっていて、若い連中などのなかには忍介をつかまえて激昂する者もある。なぜあなたたちは安閑としているのか、政府は討薩の準備をすすめているというではないか、坐して討たれるつもりか、という。
「たれからきいた」
というふうに、忍介は伝播の経路をたどってゆくと、最後には煙のようで得体もない。
(県外から入ったもので、そういううわさをひろめている者があるのか)
と、疑ってみたりした。政府筋が、薩人を挑発するためにそういう噂をまく場合がある。
あるいは、評論新聞社の海老原が桐野などに手紙を送って政府の内情をあれこれと書く場合、そういうことも書いてあったかもしれず、それがひろまったとも考えられる。忍介は、網野ら幹部級の者たちを歴訪した。たれもが、
「心あたりがあるといえば、みなそうだ」
と、声をそろえていった。評論新聞社からくる手紙はつねに政府は腐敗しきって人民の怨嗟の声は日ごとに高まっている、政府はその悪政をあらためようとせず、逆に新聞讒謗律を強化し弾圧に出、さらには警視庁の警官を大幅に増員した、これは他日藤摩を討つためのものらしい、といったたぐいの記述が多く、噂はそういうところから出たのではないか、とかれらはいった。
「その手紙を、もしさしつかえなければ拝見ねがえまいか」
野村忍介は言ったりした。ともかくも情報ということについては、忍介は集めることにも熱心だったし、比較検討して精度の高いものにすることにも熱心だった。
「海老原の手紙もさることながら、火もとは評論新聞そのものではないか」
という者もいた。
たしかに、そうかもしれない。鹿児島には飛脚船がつくたびに東京の新聞や雑誌が着いたが、私学校生徒のあいだであらそって読まれたのはやはり評論新聞であった。
−西南戦争をおこしたもっとも大きな力は評論新聞である。
とさえ、のちに言った者がある。西郷の旧幕時代の盟友で、維新後は主として宮内省の仕事をし、思想的には大久保に近かった吉井友実(旧名幸輔)である。
吉井にいわせれば評論新聞社は東京における私学校出先機関であり、その論調は私学校を昂奮させるうえでもっとも力があったといっていい。 |
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