司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          翔ぶが如く 7

■西南戦争をおこしたもっとも大きな力は評論新聞

<本文から>
  その日、野村忍介は朝から半日私学校にいた。
 −太政官が薩摩を討つといううわさはどこから入ったか。
 という経路を調べるためだった。
 うわさはすでにひろがっていて、若い連中などのなかには忍介をつかまえて激昂する者もある。なぜあなたたちは安閑としているのか、政府は討薩の準備をすすめているというではないか、坐して討たれるつもりか、という。
「たれからきいた」
 というふうに、忍介は伝播の経路をたどってゆくと、最後には煙のようで得体もない。
(県外から入ったもので、そういううわさをひろめている者があるのか)
 と、疑ってみたりした。政府筋が、薩人を挑発するためにそういう噂をまく場合がある。
 あるいは、評論新聞社の海老原が桐野などに手紙を送って政府の内情をあれこれと書く場合、そういうことも書いてあったかもしれず、それがひろまったとも考えられる。忍介は、網野ら幹部級の者たちを歴訪した。たれもが、
「心あたりがあるといえば、みなそうだ」
と、声をそろえていった。評論新聞社からくる手紙はつねに政府は腐敗しきって人民の怨嗟の声は日ごとに高まっている、政府はその悪政をあらためようとせず、逆に新聞讒謗律を強化し弾圧に出、さらには警視庁の警官を大幅に増員した、これは他日藤摩を討つためのものらしい、といったたぐいの記述が多く、噂はそういうところから出たのではないか、とかれらはいった。
「その手紙を、もしさしつかえなければ拝見ねがえまいか」
 野村忍介は言ったりした。ともかくも情報ということについては、忍介は集めることにも熱心だったし、比較検討して精度の高いものにすることにも熱心だった。
「海老原の手紙もさることながら、火もとは評論新聞そのものではないか」
 という者もいた。
 たしかに、そうかもしれない。鹿児島には飛脚船がつくたびに東京の新聞や雑誌が着いたが、私学校生徒のあいだであらそって読まれたのはやはり評論新聞であった。
 −西南戦争をおこしたもっとも大きな力は評論新聞である。
 とさえ、のちに言った者がある。西郷の旧幕時代の盟友で、維新後は主として宮内省の仕事をし、思想的には大久保に近かった吉井友実(旧名幸輔)である。
 吉井にいわせれば評論新聞社は東京における私学校出先機関であり、その論調は私学校を昂奮させるうえでもっとも力があったといっていい。 

■東京獅子

<本文から>
「大警視川路利良が組繊した帰郷団は、密偵というような、単に情報収集を目的とするだけの任務ではない。
 のちに私学校側はかれらを
 「東京獅子」
 とよび、大久保・川路の密命を帯びて西郷を暗殺すべくくだった、とした。
 一方、警視庁側に残された資料は、かれらの帰郷は説得にあるとしている。川路は、鹿児島県士族(とくに郷士出身者)を日して私学校幹部におどらされている者たちと規定し、警視庁にいる郷土出身者を帰郷させ、在郷のひとぴとにいちいち対面させて私学校幹部の政略は無謀であり、東京政府について彼等が宣伝しているところはみなうそであり、かつ東京政府こそ文明の宣布者であると説かせ、その言説をもって士族一般を私学校から離反させることを目的としていた。すくなくとも川路がそれ−攪乱−を目的としたという資料は、じつに多い。

■草牟田火薬庫破りが戦争の導火線

<本文から>
 この草牟田火薬庫破りは、ありようは草牟田私学校の二十数人が焼酎で酔ったあげくのことだったともいえるが、しかし私学校幹部や県当局に深刻な衛撃をあたえた。
 三十日朝、この報をうけた県令大山網良はあまり物に驚いたふうを見せない男だが、しばらく絶句したらしい。大山網良はなんといっても旧薩摩出身者のなかでは有数の政治家だけに、九州の山野にきらめく砲火がその脳裏に明滅したであろう。戦争になるとおもった。
 大山網良はすぐさま県の警部中島健彦に現場調査を命じた。中島は巡査数人をつれて現地にゆき、現地人立会のもとで現場を検証した。犯人は、ほばわかっている。しかし中島は犯人を逮捕しようとはおもわなかった。中島自身が私学校の小幹部である以上、犯人はいわば身内の者たちであり、さらには中島自身が怒るところの政府に対し、かれらが実力で抗議をしている以上、中島がそれを犯罪とすることができないのである。
 このことは、県令大山綱良においてもかわらない。
 一方、このことをもっとも早い時期に知った河野主一郎のことである。かれはすぐ上之園の高城七之丞のもとにかけこんだ。高城も容易ならずとし、例の顔ぶれに連絡した。
 篠原国幹、永山弥一郎、淵辺群平、辺見十郎太、西郷小兵衝らである。かれらはすぐあつまってきた。一月三十日朝である。
 −もはやいくさをせぎるをえない。
 という思いが、たれの胸にもあった。草牟田事件をたねに政府が弾圧してくる。すくなくとも犯人をひきわたせといってくるであろう。それをはねかえすには、先んずるよりほかない。先制して兵を挙げるには名分が必要であった。名分は、ある。政府は西郷を暗殺すべく刺客を送ってきた、ということさえあきらかになれば、それをもって満天下に対し政府の非を鳴らすことができる。
 この一座は、無口者ぞろいだった。が、多くをいわずとも、たれの観測も意見も一致した。
 「例の東京輝子(警視庁帰郷租)」
という一件である。
「かれらのぜんぶの姓名や止宿先がまだよくわからない。谷口登太にさぐらせよう」
 ということになった。これによって諜者谷口登太が伊集院へ走り、少警部中原尚雄に会って、帰郷組の姓名や止宿先、さらには暗号まできき出し、折りかえし鹿児島に帰ってきてこの会合の一座に報告する、ということになるのである。両事件の前後閑係は、そのようになっている。
 要するにこの「高城家会合」というのは、当初草牟田火薬庫破りであつまったのである。

■挙兵への西郷夫人糸子の遺話

<本文から>
「・・・・・・主人が小根占地方から婦つて参りますと、絶えず桐野さんや篠原さんがお見はになりまして、おん二方から、かうなつた上は軍勢を率ゐて立たなければならない、とて頻りに主人に勧告されましたが、主人は頑としてこれに応じなかつたのであります。
 というのは、西郷夫人糸子の遺話である。
 糸子の遺話には、奇妙なことがのべられている。ある日、西郷が考えこんでいるとき、中庭に無数の蛇がぞろぞろと列をなして過ぎたという。西郷は糸子をよび、あれをみよ、と蛇のむれを指さし、
 −もう、致し方がない。
 と言い、やがて桐野利秋をよんで、「もう決心した」といったという。
 ときに二月はじめで、ことさら寒気がつよかった。冬眠中の蛇が群れをなして地上で動きうるとは、普通、思えない。糸子の遺談とはいえ、その真杏は姑く措く。しかし西郷は、帰宅した三日から四日にかけて考えこんでいたことだけはたしかなようである。
 かれは、かれの学生である私学校生徒が火薬庫を破って弾薬を掠奪したことで、起たぎるを得ない窮地に追いつめられていたし、そのことは、十二分に認識していた。しかし、本意ではなかった。かれは反政府のために挙兵するということを、かれ自身一切考えたことがなく、そのことについては多くの証拠がある。かれは外患を想定し、そのときに役立たしめるべく私学校をつくったということは、すでに触れてきたように、多くの証拠がある。
 が、状況はそうは動かず、いま刃を政府にむけぎるをえなくなった。西郷が苦慮したのは、挙兵の名分であったであろう。

■私学校集会での桐野・西郷の戦争突入への言葉

<本文から>
 正面にむかって左側にかかっている大きな柱時計が二時を打ったとき、桐野利秋が立ちあがり、意見も出つくしたようである、と前置きして、
「永山さァの言われるのももっともであるが、今となっては後の祭りであろう。弾薬をうばった事で政府はすでに各鎮台ロに戦争の支度を命じている。またこちらはこちらで県下の兵児がどんどん鹿児島の町にあつまってきている。こういう景況である以上、いまになって兵児どもを押しとめられる見込みなどはとてもない。さらには大義名分ということもなるほど大切である。しかし場合が場合であり、それにこだわってなどいられず、いまとなれば断の一字があるのみである」
 というと、場内は異常に緊張した。
 桐野は幕末においては一介の剣客にすぎなかったが、征韓論前後から単純痛快な世界情勢の講釈がお得意になり、煽動家としても相当な資質があることを思わせるようになった。断の一字のみ、といってから、
「廟堂を清め、弊政を表、これがため先生をば押したて、旗を東京に進めるべく、鹿児島県をあげて出兵する以外に方途はない」
 という意味のことを、桐野は丁寧な、しかしながら断乎とした薙摩言葉でいった。この期になってあいまいな言葉をつかわないというのが統率ということであり、桐野は天成それを心得ている。
 桐野が言いおわると場内は騒然となり、口々に賛成の意をとなえた。
 桐野は場内のしずまるのを待うて、
 −それでは、西郷先生のご裁断を仰ぎます。
 と、会場にむかっていうと、西郷は教卓のむこうで体を動かし、ゆっくりと立ちあがった。
 西郷は満場をながめていたが、やがて口をひらいた。かれがいったことは、
 自分は、何もいうことはない。一同がその気であればそれでよいのである。自分はこの体を差しあげますから、あとはよいようにして下され。
 ということだけだった。
 言いおわると、破れるような拍手と歓呼の声がおこり、その騒然としたなかを西郷は教壇から降り、退場した。

■作戦や戦術が全くなかった戦争

<本文から>
 作戦会議は、結局は、
 −大挙、熊本城に押しかける。
 ということになった。
 作戦や戦術は、結局は風土性の反映という面があるが、大挙熊本城に出てそれを踏みつぶすというほうが、薩摩人の好みに適っていたのであろう。
 ただし戦国期の薩摩人は単に剽悍ぎょう勇というだけでなく、しきりにおとりを出して敵を誘いこむという詭計を用いたが、この時期の薩摩人にはそういう感覚もなかったか、それとも、それをロに出しにくいふんいきがあった。
 熊本城は天下周知のように加藤清正が薩摩島津氏を仮想敢として築いた巨城で、その防禦構造の巧緻さは世評以上のものである。薩摩島津氏も累代熊本城を溢出の場合の一大障害としてきた以上、薩摩士族であれば熊本城がどれほどの要塞であるかをたれもが知っていねばならないはずであった。
 が、もっとも重要なこの作戦会議でそういう話題すら出ず、桐野利秋が、
「なあ−に」
 と、一笑に付しただけでおわってしまった。
 桐野は、熊本城内に置かれている熊本鎮台の初代司令長官だった。城内を知る桐野がそれを一笑に付しているかぎりは大丈夫だろうというのが一同の作戦感覚であり、それだけであった。二十以上の大人たちの集まりとはいえないほどに子供っぽいふんいきが一座を浮かれさせていたし、この奇妙な非厳密さは、西郷と網野それに篠原といった一種異様な三人の楽天家がかもし出している精神感作であるとしか言いようがなかった。
 西郷、桐野、篠原の作戦感覚は、すべて気体のような見込みを重ねることで成り立っていた。
 西郷が熊本城に近づけば、城内にいる薩摩系の幹部たちは脱走して当方に投ずるはずだとみていたし、残された鎮台兵はみな百姓あがりで臆病者ぞろいであり、泣きわめいて逃げ出すであろうとも見ていた。こういう観測からは、熊本城の防禦力などという議題が深刻なかたちで出るはずがなく、もし出れば篠原が前日村田三介を叱ったように「命が惜しいか」という一喝で済まされた。
 首座の西郷自身、この点でいかに楽天的だったかということは、のちに進発の日、大山県令に対し、
 「この二月末か、来月初めに大阪表に着き申そ」
 といったことでもわかる。十五日ほどで大阪表に乗りこんでしまうというのである。敵についての観測の甘さは、前代未聞というべきであった。

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