司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          翔ぶが如く 6

■前原一誠を挑発し乱を起こさせた

<本文から>
一方、東京にあっては、
−萩と前原一誠については、木戸ら長州人にまかせておく。
 というのが、当初の空気だったらしい。
 しかしとてもその程度では手に負えないと木戸が判断したのか、そのことを大久保に相談したのか、薩摩糸が動くようになる。
 具体的には、大警視川路利良である。川路自身が大久保のもとに行ってその許可を得たのか、それとも独断でやったのか、警察関係を用いなければとうていできないことを、対策に乗せた。
 前原を挑発して、乱をおこさせることである。それも、西郷より早くおこさせねば、将来もし両者が協力して起ちあがれば手に負えなくなる。
 つまり、前原を挑発して早々乱をおこさせ、政府はそれをすかさず討ち、山口県だけはまず片つけておく、というのが、川路の基本方針になった。証拠はないが、以下の実例でそのことが察せられる。
(中略)
 突如の来訪者は、面差、それに訛りがことごとく薪の人間とはちがっている。
 「鹿児島より参った者です」                                                 と、両人のなかの一人がいった。名は、差し出した紙に書かれている。

■前原は密偵による薩摩の偽手紙に騙された

<本文から>
  「君がため、蒼生がため、身を殺して仁をなす、名義これより大なるはなし」
 と、いった。さらに、もし前原が起ちあがるなら小銃、大砲を提供する、ともいった。″西郷・桐野”は武器の提供を約束することによって前原の決断をうながしたといっていい。
 むろん、うそである。
 そのうそを、前原らは見破れたかどうか。
 前原は品川への手紙のなかで、
 「自分は深く信ぜず、西郷・桐野の肚の底の一端をさぐるつもりで聴いていた。
 という意味の、いかにも前原自身、自分が冷静であったかのように書いている。しかしこの手紙は前原がのちに両人が密偵であることがわかったあと品川弥二郎に弁解するために書いたもので、自らをかばうことを目的としている。
 実際は、前原は密偵の前で可憐なほどに興奮し、自分たちの肚のなかのことをぜんぶ吐き出してしまったらしい。相手が激語をする以上、前原も激烈なことをいわぎるをえず、当然、いまにも反乱に起ちあがるかのようにいったようである。
 萩の士族で本間忠麿という者がおり、前原一誠の若い同志だった。この本間の談話が、遣っている。それによると、前原は「西郷の密書」を読み終わるや、心懐おどり、意気昂り、座を立って家伝の一刀の鞘をはらい、おどりあがって空を斬り、斬っては叫び、叫んでは斬り、このために″密偵″の両人がかえって肝をうばわれたような表情をした、という。
 前原は、密偵によってきとに挑発されてしまった。西郷の偽手紙によると、
「自分は某月某日を期して大挙鹿児島を打って出、まず大阪鎮台を奪い、東海道を攻めようと思う。足下も兵をひきいてこれに来たり加われ」
と書いてあったらしい。この偽手紙の内容が実際にそうなのかどうか遭っていないためによくわかは解らないが、ともかく前原が密偵におどらされてしまったことだけはたしかであった。
(中略)
 この二人の密偵を派遣したのは、大警視川路利良であることは、まぎれもない。
 前原一誠をして鼓舞させ、興奮させ、本来秘密にすべき反乱の意図を正直に吐かせたこの二人の密偵の本名は、ついにわからない。

■野党が制度上存在しないが現実には私学校、学校党、民権党、神風連、土佐立志社、新聞などが存在していた

<本文から>
  太政官の譲誇律による新聞記者への圧迫に対し、ベルツが半ばあきれたような感想をのべているように、新聞側がその論調において属した気配はすこしもない。
 この時代、議会こそなかったが、日本の政府対社会をめぐる意識では、
 「朝野」
 という明確な二元構造でとらえられていた。朝はいうまでもなく太政官である。
 野は民間という意味だが、政治意識でとらえられる場合には、在野党という意味を多量にふくんでいたことはまぎれもない。議会制がないのに野党が制度上存在していたはずがないが、しかし現実には存在していた。
 薩摩における西郷とその私学校がその最大のもので、思想団体であるだけでなく政府を庄倒するかもしれない潜在武力さえもっていた。
 肥後熊本における三派(学校党、民権党、神風連)は行動力において鹿児島私学校に次ぐであろう。
 さらに行動力においてはやや欠けるが、思想的影響力のつよさでは、板垣退助を首領とする土佐立志社が、思想性の高い野党としては一大淵叢をなしているというベきであろう。
 小野党としては、長州萩の前原一誠党があり、また九州秋月にも、行動的な士族団体がある。
 以上の野党の色合には、封建党もあれば民権党もある。また肥後の学校党のような国権党もあれば、おなじく肥後の神風連のような国粋党もある。それらの背後には、封建的特権をうばわれた士族の不満が、全国の各県各郡に充満している。
 東京における新聞の反政府熱の高さは、ひとつには右のような「野党」を背後の無言の力にしているためのもので、かれら新聞記者たちは太政官の権威などなんと思っていなかったし、その圧力がかかっても堪えたりはねかえしたりする気力を蔵していた。
 六月三十日、東京浅草寺の本堂で、新聞記者大会といったようなものが催された。表むきの目的は新聞記事になった死者の霊をとむらう供養の会というものだったが、実際には政府に対する示成運動といっていい。

■神風連の行動の決起はつねにくじ

<本文から>
 神風連にとって、行動の決起はつねにくじである。
 かれらはこれをうけひといったり、神慮といったりトて神聖視するが、要するにくじであることには変わりがない。
 司祭をする者が、案件を三種類ばかり書き、草をつけ、神前に進み出て木製の簡を振り、なかから出てきたほそい竹製の棒の番号を見て、案件の番号と照合し、それをもって神慮とし、絶対の神命とするのである。むろん死ね、と出ればかれらは全員死ぬ。信じがたいほどに簡素な原理で、かれらは生死する。
 人類がもっている普遍的な常識と、人類が地球上の各地域で経てきた無数の実例をもってしても、日本のこの歴史的時期における神風連のような存在はない。
 神風連はその決起にあたって、政略的判断はいっさいおこなっていない。それどころか、それを不潔とした。幕末における薩摩藩の動きがあまりに政略的であったということで、首領の太田黒は鹿児島私学校を信じることをせず、久留米人にすすめられて使いだけは出したがわぎ年若の野口満雄をえらんだ。野口に命じた役割も薩摩の意向を探索させるのが主眼で、提携をしようとは言わせなかった。
 政略だけでなく、戦略さえなく、戦術もなかった。
 行動の主眼が、殺人だけなのである。次いで自殺もありうる。それだけが主眼である以上、戦略も戦術も必要ではなかった。
 神風連の奇妙さは、自他を殺すという暴力そのものが禅聖であるということだった。それがかれらの政治活動であり、しかしながら極度に矛盾して政略を不純としている。つまりは、純粋に暴力そのものであろうとしている。こういうふしぎな思想団体ができあがるというのは、民族的性格と民族文化に根ぎしているのかもしれない。
 暴力を純粋に信仰するという奇妙な思想はたとえ民族的性格のなにかに根ぎしているとしても、歴史的事例は中世にはほとんど見られない。奈良朝、平安朝のかばそい数の事例にもそれがなく、乱世である室町・戦国でも、暴力そのものに価値があるとする事例はまったくないといっていい。
 おそらく、この文化が出来あがるのは、江戸期という、世界に類のない暴力否定の体制が二百七十年もつづいたことと無頼ではないであろう。江戸期は世界史にも類のすくない教養時代で、漢学が行きわたったために形而上的思考をする訓練ができ、さらにその土壌から国学も生まれた。いずれにしても、かつて思想を持ったことのない民族が、江戸末期にいたって思想というものを最悪的なものとして感ずる気分をもった。そのいわば感動的な気分のなかから、暴力そのものを純粋に崇高視するというふしぎな思想が出現したかと思われる。

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