司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          翔ぶが如く 5

■大久保は天皇を積極約に利用、明治国家の原型を作ってゆく

<本文から>
  この点、大久保は、天皇を積極約に利用しようとした。この当時の西郷派の薩摩人一般の感覚では、こういう大久保の権力のための天皇利用の態度を卑怯だとみていたようだし、大久保をきらう暗黙の一因にもなっていたであろう。
 「有司専制」
 というのが、大久保体制への、この当時の大方の罵りことばであったが、それには天皇が必要だった。有司(官僚)の専制を可能にするには、有司が天皇を絶対的存在として奉らねばならない。奉ることによって有司が自分の権力を正当化し、増幅し、その専制体制を確立することができるのである。
 大久保の側からいえば、むりのないところもあった。旧三百諸藩の士族がなお東京の政権に不平を抱き、事あれば佐賀のように反乱をおこしかねず、太政官の内部でさえ陸軍省のように廟議に対して批判をもつ勢力を抱いている現状では、天皇と詔勅を絶対化してゆくほかなく、これが日本統一の政治的魔術であるとみていた。
 かれは渡清にあたり、三条太政大臣に覚書を提出して献語したのは、しきりに勅語を賜わるべし、との事柄である。
 かれは、それらの勅語の内容まで指図している。
「ぜひ、諸省の長官などを皇居に召されたい。そしてこのような勅語を賜わりたい。−征蕃のこと、うまく平定して満足である、しかし清国談判の結果がいまだわからず、実に内外の危機、国難の秋というべきで、汝等一層憤発勉励することを希望する−というふうに」
 さらに山県陸軍卿が廟議に不服であることを配慮してか、
「とくに陸海軍の両卿には懇々と勅語を賜わりたい。そして以下のことを御質問くださるように。−戦争となればどのように着手するのか、作戦はどうか、兵員や兵器の準備はどうなっている。−」
 と、書き、また、
「大臣、参議は、御用があろうがなかろうが、毎日皇居に参仕するように」
 とも、書いている。大久保は、参議でも、腹心であったはずの伊藤博文さえ大久保の渡清や戦争準備に反対で、それがためにいつ自分の方針に対して寝返るかわからないということも多少不安だったであろう。それら不服の参議の頭を撫でるには大久保自身はその役に適当ではない。天皇にその作用を大久保は期待した。明治国家の原型を大久保が作ってゆく過程が、この間の消息に、ありありとあらわれている。

■大久保は清国との談判がつぶれた状況でも活路をひらく

<本文から>
 談判は、潰れようとしている。
 たとえていえば日本側は大局の中でひとり大声をあげて演説しているだけで、ロの中に入ってくるのは風ばかりという滑稽な図が想像されなくもない。しかも喋る内容さえ無くなって、風さえロの中に入らないというかっこうなのである。
 大久保がこのときにあたって、談判を有利に導くという最終目的よりも、とりあえずこの場合は、談判を継続させる工夫を眼目とせねばならぬと思った。この日の大久保の発言と矛盾しているかもしれなかった。
 −帰国せぎるをえない。
 と、大久保は清国側に言明し、相手から、どうぞ、といわば冷然と返答されながら、宿舎に帰ってからは継続について苦慮しているのである。
 継続といえば、大久保は毎度継続についての手段を講じてきた。毎度、談判がおわると質問者を書き残してきたのが、それである。質問者もた打切れになり、今回は残さなかった。それを残さず、みずから帰国する、といって席を立った以上、状況はいわば決裂にちかい。いまさら何を言うことがあるであろう。
 が、大久保はもう一度、この談判を浮上させねばならない。かれは若いころから、何度か、万策尽きたところへ自分が追いこまれるという切所の体験をかさねてきた。阜のときは息をひそめて沈黙しているか、それとも、やぷれかぶれの一手に出れば自分をとり巻く状況の一角が崩れ、なんとか道が通ずる、ということを知るようになった。このたびは、後者をとろうとった。
 何でもいい。
 もう一度、文書を書くことである。内容は、極端にいえばどうでもよかった。格調のきわめて高い文章をつくって、相手の心を動かすことであった。相手の群れの心がすこしでも動けばそこにひび割れでもできるであろう。そのひび割れに手をかけて活路をひろげる方法が出てくるかもしれない。
 「照会文を書きましよう」
 と、大久保は幕僚たちに言った。
 「内容は何でもよろしい。井上(毅)サンに起草していただきます。田辺(太一)サンが、それに意見を加えられよ。できあがると、みなで一巡して読み、おのおののご意見をうけたまわりたい。ただし」
 と、いってから、十分間ばかりだまった。
 一同、大久保の沈黙に耐えた。その沈黙のすえ、大久保が小声で、つぶやくようにいった言葉は、拍子ぬけするほど平凡だった。
 「起草は、二、三日、討議してから」
 ということである。みな意見を出せ、その結論によって文章にする、というもので、当然のことであった。
 井上、田辺という起草委員の人選は当を得ていた。肥後人井上毅ほどの漢文の才は、北京の大官も持ちあわせていないであろう。とくに撒文や攻撃のための漢文を書かせては、この時代、第一等の才能といっていい。ただ井上の文章は矯激に過ぎるところがあり、それを、田辺太一の国際常識と、旧幕臣らしい物柔かな感覚で刷きあげれば、みごとなものができるにちがいなく、大久保のこの人選は精妙といわねばならなかった。

■清国の賠償金を返還させる策で不満を抑える

<本文から>
 本営では、遅い食事になった。
 酒がまわりはじめたが、大久保が主座にすわっているため、私語したり談笑したりする者はない。ついでながら大久保を前にして酪酎できる者は、太政官政府の要人の中でもまれだろうと言われていた。
 その上、大久保は一座に酒がまわっているというのに、随員に命じて、つぎつぎに説明させたり、書類を回覧させたりしているのである。
「これは細かい話であるが、償金の受け渡しについては」
 と、大久保は従道とその幕僚の知識を堅牢なものにしておこうと思ったのか、みずから語った。清国政府は五十万両のうち十万両はすみやかに渡す、あと四十万両は撤兵と同時に渡す、そのようになっております、といった。
「ただし、以下は私談である。拙者一個のつぶやきであると心得られよ」
 大久保が、じつは後の金である四十万両は、これを受けとったのち、あらためて清国に返そうかと思う、ご意見があれば承りたい、という。
 一同、ややあっけにとられた表情をしたが、西郷従道だけはこの種の政治的なかんのするどい男だけに大久保の真意がいきなりわかって、大きくうなずいた。
 大久保は、いう。償金をとったのは、征台が義戦であるという日本の名分を立てるためで、日本としてはいささかも貪るつもりはない、清国は義戦であることを認めたくなかったのであるが、しかしついに五十万両を出した、これによって日本としては十分その意を貫いたのである、名分が立った以上、金員そのものの多寡を論ずることは無用である、五十万両のうち、すみやかにわたすということになっている十万両は、清国皇帝がわが遭難民に対して御意を示すところの撫恤金(見舞金)である、これは受けとらねばならないが、四十万両はわが出兵にともなう雑費ということが名目になっている、これを返すほうが、わが国の義挙の義挙たるゆえんを他の諸国に対してよく理解せしめることにもなり、また清国に対して信義を厚くすることでもある、というのである。
 大久保はこの同趣旨のことを東京の黒田清隆に対する手紙にも書いている。要するにこの考えの狙いは、大久保が揚言するところももっともながら、内々は、国内の壮士的世論が、償金の多寡を論じて政府の失態を衝こうとすることに対する鎮静策をもふくんでいるのであろう。
 ただし、返還のことは実際にはおこなわれなかった。理由は、太政官の窮迫した財政事情と無関係ではなかったにちがいない。

■宮崎八郎の植木学校

<本文から>
 植木学校は、植木の正院という字にあった旧幕のころの会誓つかってひらかれた。
 募集すると、たちまち五十余人の生徒があつまった。
 教える者も受講する者も、だんごになって駈けまわっているような学校で、八郎らが、学問ばかりでは生徒の精気がなくなるというので、さかんに維新の志士の詩を朗吟させた。
 このあたりに、維新に乗りおくれたという肥後人のが併しさが出ているようでもある。
 すくなくとも、おなじ時期に産摩でおこなわれている私学枚の教育においては、元気を作興するために正課として維新志士の詩歌を朗吟するというようなことはない。薩摩においては三百年来の郷中教育という士風教育の伝統があり、私学校はそれを継承しているため、いわばそういう点では玄人といってよく、珍奇な方法をとらなくてもよかった。
 それに、薩摩においては若い者の元気を育てるのに、詩吟朗読のような個々のロマンティシズムに訴えるということを、むしろ好まない。そういうことよりも、個々の名誉心に訴える教育をした。勇気を尚び、卑怯をいやしみ、弱いものいじめを恥しいこととするという独特の倫理教育を徹底的にやるという式で、目的は組織的な薩摩武士団の再編成にあり、肥後のように個人的な志士を養成しようとするところはない。
 八郎らの植木学校においてはあたらしい思想の教育が主であった。
 ただ剣術をさかんにやらせた。毎夕、全員にそれを課した。剣術をやらせるということは、精神教育というよりも、戦闘者として実際に態くさせるという実質的な目的のためだった。学校そのものの目的が、反政府運動の拠点になるところにあったし、八郎たちは植木学校の生徒を、いざ反政府戦争をやる場合の兵士に仕立てあげるつもりだった。
 だからこそ、弾雨の中で死傷者を後方へひきさげるときの運び方まで教えた。この学校に経済一援助をすることを約束した安同権令などが、ノこの演習をみればおそらく肝をつぶすにちがいなかった。(中略)
 八郎は、植木学校を、「慶応義塾のようにしたい」と安岡権令にいったが、むろん、そのつもりはない。
 慶応義塾の福沢論吉はその教育と著作活動を通じて資本主義社会への方向を示唆し、大いに啓蒙の効果をあげていたが、しかしこの当時の思想的分類で分ければ、多分に国権論的な思想的立場であったということがいえる。
 八郎の思想はまだこの時期には十分に育っていなかったとはいえ、気分はあくまでも天賦人権説に拠る民権主義で、福沢とはまるで調子を異にしていた。

■もし、幕末にルソーの思想が入っていたなら革命像は明快なものに

<本文から>
 宮崎八郎は、この中江兆民の、塾とも梁山泊ともいえない仏学塾の喧嘩な空気のなかで、ルソーの『民約論』(社会契約論)の洗礼をうけるのである。
 八郎は、この時期までルソーの思想の詳細については知るところが乏しかったが、その思想が、フランス革命とアメリカの独立にあたえた影響が深刻であるということは知っていた。
 ついでながら、幕末に奔走した志士たちは、漠然とした憧憬ながら、アメリカの独立革命やフランス革命につよい共感をもっていた。ただしこの二大革命についてかれらの知識はとばしく、その革命を象徴する人物を尊敬することによって革命像を想像していたにすぎないが。…たとえば幕末の典型的な革命思想家である吉田松陰でさえ、他の志士たちと同様、フランス革命はナポレオンがやったというふうに想像していた気配がある。松陰の若い晩年のことばに、行きづまった情勢の打開法に苦しみ、
 「郵波列翁(ナポレオン)を起してフレーヘード(自由)を唱へねば腹悶医し難し」
 と書いたのは、その一例であろう。
 さらには西郷が、アメリカの独立革命を達成させた者としてワシントンを幕末以来終生尊敬しいたのも、その一例といえる。
 しかしながら、この人類が持った二大革命の理論と思想の根拠が、スイスうまれのフランス人であるジャン・ジャック・ルソーにあることは、知らなかった。
 さらには、ルソーの書が、聖書とならもで欧米世界をもっともつよく動かしたものであるということも、幕末に死んだ志士たちは知るところがなかった。
 かれら幕末の志士たちは、平等を求める思想を手持ちの思想からひきだした。その思想的根拠として、国学的教養の者も宋部(朱子学・陽明学)的教養の者も、みな天皇にもとめた。天皇という、多分に非現実的な超幕藩的存在を絶対視することに、よって、当面の敵である幕府の存在を卑小化し、論理として非合法化し、やがては漬したのである。もし、幕末にルソーの思想が入っていたとすれば、その革命像はもっと明快なものになっていたにちがいない。中江兆民という存在が、十五年前に出ていれば、明治維新という革命に、おそらく世界に共通する普遍性が付与されたに相違ないが、ともかくも兆民によって、幕末の志士たちがあれほどあこがれたフランス革命とアメリカ独立革命の理論的根拠が、バリで発見されたのである。

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