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<本文から>
この点、大久保は、天皇を積極約に利用しようとした。この当時の西郷派の薩摩人一般の感覚では、こういう大久保の権力のための天皇利用の態度を卑怯だとみていたようだし、大久保をきらう暗黙の一因にもなっていたであろう。
「有司専制」
というのが、大久保体制への、この当時の大方の罵りことばであったが、それには天皇が必要だった。有司(官僚)の専制を可能にするには、有司が天皇を絶対的存在として奉らねばならない。奉ることによって有司が自分の権力を正当化し、増幅し、その専制体制を確立することができるのである。
大久保の側からいえば、むりのないところもあった。旧三百諸藩の士族がなお東京の政権に不平を抱き、事あれば佐賀のように反乱をおこしかねず、太政官の内部でさえ陸軍省のように廟議に対して批判をもつ勢力を抱いている現状では、天皇と詔勅を絶対化してゆくほかなく、これが日本統一の政治的魔術であるとみていた。
かれは渡清にあたり、三条太政大臣に覚書を提出して献語したのは、しきりに勅語を賜わるべし、との事柄である。
かれは、それらの勅語の内容まで指図している。
「ぜひ、諸省の長官などを皇居に召されたい。そしてこのような勅語を賜わりたい。−征蕃のこと、うまく平定して満足である、しかし清国談判の結果がいまだわからず、実に内外の危機、国難の秋というべきで、汝等一層憤発勉励することを希望する−というふうに」
さらに山県陸軍卿が廟議に不服であることを配慮してか、
「とくに陸海軍の両卿には懇々と勅語を賜わりたい。そして以下のことを御質問くださるように。−戦争となればどのように着手するのか、作戦はどうか、兵員や兵器の準備はどうなっている。−」
と、書き、また、
「大臣、参議は、御用があろうがなかろうが、毎日皇居に参仕するように」
とも、書いている。大久保は、参議でも、腹心であったはずの伊藤博文さえ大久保の渡清や戦争準備に反対で、それがためにいつ自分の方針に対して寝返るかわからないということも多少不安だったであろう。それら不服の参議の頭を撫でるには大久保自身はその役に適当ではない。天皇にその作用を大久保は期待した。明治国家の原型を大久保が作ってゆく過程が、この間の消息に、ありありとあらわれている。 |
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