司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          翔ぶが如く 4

■佐賀ノ乱を契機に明治権力は飛躍的に強化

<本文から>
 この佐賀の使者たちは、桐野利秋に面会した。
 桐野はあたまから、
 「いま蹶起するなどはとんでもない。時機はまだまだ熟しておりません」
 と言い、そのことを繰りかえすのみで他のことはいっさい言わなかった。この点、桐野は西郷の意をよく承知していたといっていい。
 江藤は、この報告を佐賀できいた。かれは思いとどまるべきであったが、しかしすでに佐賀でかつぎあげられてしまっている以上、薩摩が立たないから、という理由でいまさら中止するわけにはいかなかった。
 結果からいえば、江藤は大久保のえじきになったといっていい。
 江藤の佐賀ノ乱を契機に、明治権力は飛躍的に強化され、大久保一個の政治統制力もそれ以前とは見ちがえるほどに強くなり、士族たちから百姓軍とさげすまれた徴兵の鎮台兵も、すこしは自信にちかいものをもつにいたった。
 江藤はむろん自分がそんな功績を明治国家に対して持とうとは思わなかった。
 大久保がすかさずこの機をとらえただけである。もし佐賀ノ乱がなければ、明治政権がのちに西南戦争においてもっと狼狙し、もっともろさをさらけだしたにちがいない。
 「一乱おこるごとに政府は強くなるのだ。小規模な乱なら、むしろ起ってくれたほうがありがたい」
 と、大久保が言ったわけではないが、かれが言ってもすこしもふしぎはない。
 さきに喰違門外で、土佐人武市熊吉らが岩倉具視を襲撃したが、この結果、この事件をすかさずとらえ、大久保と川路がポリスを大増員した。それによって首都警察を強化しただけでなく、政治警察においても大々的に密偵網を強化した。
 無計画な反乱というものは、結局は政府の統制装置を強化させる以外のなにものでもないことを、武市らは証明した。
 西郷の場合は、すでに幕末においてそれらを体験しっくし、この種の時勢眼や政略感覚については、この時代、大久保をのぞくたれよりも成熟しきっていた。かれは幕末、大久保とともに薩摩藩を指導し、長州藩や浪士たちが歯がゆがったほどに軽挙妄動を避けつづけた。ときには機略として会津藩のような佐幕藩とも握手をし、機が熟しきるまで立たず、当時、京都にあって政局の収拾にあたっていた徳川慶喜でさえ、「長州藩は最初から反幕的行動をとっていたからいまでも憎くはない。薩摩藩には言いがたいほどの恨みがある。あの薩摩藩が倒幕に立ちあがるとは思わなかった」と後年述懐したほどに、西郷と大久保のやり方は待つということについて徹底していた。

■大久保は江藤の死刑を決めていた

<本文から>
 かつて旧幕臣で官軍に抵抗した者で、ずいぶん多数の者が維新政府樹立とともに野や町にかくれたが、維新政府はかれらに対して寛大でもあったし、またそれを捜索しようにも、それが可能なだけの警察力をもっていなかった。
 この明治七年のはじめにおいては、すでにそれが見違えるほどに整備されていたといっていい。
 さらにはたとえ捕縛されても、
 −国事犯に対しては死刑はありえない。
というのが、常識であった。戌辰のとき官軍に最後まで抵抗した会津藩も、また函館五稜郭にこもった榎本武揚らも、かれらは死罪にならなかった。
 そういう例でもって、元司法卿である江藤でさえまさか死刑には、とおもっていた。
 ところが、大久保は佐賀に檻送されてきた江藤新平および乱の関係者十三人に対し、簡単な裁判をひらき、死刑に処してしまったのである。しかも、江藤と島義勇を梟首にした。かつての参議、司法卿である正四位の位をもつ大官に対し、惨刑という以外にない。
 前参議江藤新平を大久保が惨刑に処したのは、
「乱をおこした者はみなこうである。世の者、思い知るべし」という天下に対する鮮烈な政治的宣伝の意図があった。そのことがこの惨刑の理由のすべてである。かつては、前将軍徳川慶喜や当時の老中たち、あるいは北越や奥州において官軍を手こずらせた越後長岡藩や会津藩主をあれほど寛大に待遇した明治政府が、にわかに弾圧者の相貌を帯びるのはこの江藤に対する惨刑が最初といっていい。
 大久保がみずから佐賀ノ乱を鎮圧すべく、軍事と行政権だけでなく司法まで委ねられてこの鎮西の地にのりこんできたのは、
 「江藤を死刑にする」
 という、最初からの意図があったからにちがいない。
 また形式だけながらも裁判をひらいたが、裁判を東京でひらけば、三条・岩倉といった公卿あがりの政治家が江藤に側隠の情をもつにちがいないと思ったからであった。大久保は臨時裁判所を新戦場の佐賀におき、ごく簡単に江藤を裁いた。司法には玄人の江藤自身、裁判は東京でひらかれるものとおもっていたし、まして死刑は心外であったらしい。
 「梟首」
という徳川刑法のこの極刑を大久保が裁判官に宣告させたということは、異常である。当時、すでに施行していた新法典には、梟首はなかった。大久保はわざわざ徳川刑法を採用した。

■西郷崇拝の私学校

<本文から>
「この区長を、私学校徒にやらせるのである。
 まず、近衛陸軍少佐別府晋介を加治木郷と国分郷の区長にした。
 ついで近衛陸軍大尉辺見十郎太を宮之城郷と蒲生郷の区長にし、また陸軍少佐村田三介を牛山郷の区長にした。近衛陸軍大尉重久敦周を高山郷区長にし、山口孝右衛門を出水郷区長にした。山口はかつて陸軍大尉だったが、のちに島根県参事に転じ、西郷の辞職をきいて松江から鹿児島にかえった。かつて県参事だった人物が、片田舎の区長をつとめるというところに、この人事のおかしみがあるといっていい。
 区長には、二人か三人の副区長がついた。副区長もまた「校徒」である。
 区長になった校徒たちは、いずれも熱心な行政者になったが、同時に党の普及宣伝者でもあり、山間僻地に住む士族たちに私学校の精神を熱心に徹底させようとした。私学校の精神とは要するに古薩摩への復帰であり、具体的には西郷を崇拝し、西郷と行を備にしようというものであった。
 区長とは、各郷におけるお先師(薩摩方言・随順すべき先輩ということ)である。「お先師の言うことにそむくな」という習慣がむかしから薩摩藩にあり、それを区長というかたちで制度化したとも解釈できる。その各郷のお先師たちの頂点に立つ大先師が西郷であり、この点、後世の社会主義国家の一面に酷似しているといえるであろう。
 西郷が、薩摩において制度の上からも大英雄の位置につくのは、このときからといっていい。
 政府から独立してしまった観のある鹿児島県を、たまたま後世の社会主義国と比較したが、比較ついでにいえば、西郷は党を代表する者に相当し、権令の大山綱良は政府を代表する首相に相当するかもしれない。あくまでも党が優越する。政府は単にその下につく事務処理機関にすぎない。権令大山網良はみずからの位置をひきさげて、事務をあつかう機関の長になった。
 以下、時期はすこしあとのことになるが、大山網良は、
 「県の警察官も、ぜひ私学校から出していただきたい」
 と、西郷に懇請している。
 おどろくべきことは、西郷がこの懇請をあっさりと容れたことである。それだけでなく、かれみずから人選して校徒の中から各階級の警察官を推挙し、大山に任命させた。このことからみても、私学校が学校という単純な性格ではなかったであろう。党そのものであった。

■廃藩置県が士族の不満、それに苦しんだ西郷

<本文から>
 しかし西郷が応諾しなければ廃藩置県は実現できなかった。もっとも西郷がもしこれに反対したとなればかれは後世の史家から革命家としての名誉を奪われたにちがいない。
 西郷ほむしろ積極的であった。かれは新政府樹立後、台閣に立つ者たちが使果不断で、内乱終息後、何事もなしていない現状に憂憤していたほどであった。あるいは維新をやった以上、歴史は藩否定にまで進展することを自覚し、自分の蒔いた種をそのようにして刈らねばならないとおもったのかもしれない。
 しかしそのことが、藩と士族階級への裏切りになることは知っている。
「定めて、衆恨は私一人に留まり申すべしと、最早、明らめ申し居り候」
 と、この時期、藩の知人に手紙を書いている。藩の連中の恨みがことごとく自分に集中するだろうということを西郷は覚悟していた。
 このことが、西郷の負目になったにちがいないということを、高橋新書は考えるのである。
 廃藩置県を実現するために東京政府は兵力を持たねばならない。これよりさき政府は、薩長土三藩から御親兵(のち近衛と改称)約一万人を東京にあつめていた。この兵力をもって、大改革をしようとしている。薩摩軍は西郷みずからがひきいて東上した。歩兵三個大隊と砲兵二隊であった。これが、のちに大挙辞職する近衛軍人たちである。
 廃藩置県の号令が発せられたのは、明治四年七月十四日であった。
 翌十五日、政府要人が宮中にあつまり、騒然たる気分のなかで会議がひらかれたが、議事が紛糾したとき、西郷ほほとんど大喝するような声で、
「この上、もし各藩で異議がおこりましたならば、拙者が兵をひきいて打ち潰します」
 といった。この一声ですべての論議がおさまったという。
 が、西郷にすれば苦しかったであろう。かれは藩兵をひきいて維新をやることにより、島津久光をだました。さらにこのため、薩摩士族をひきいて市ヶ谷の尾張藩邸に入れ、フランス風軍服を着せ、階級をあたえ、近衛軍人にすることによって、一挙に廃藩置県をやった。そのことによってかれら薩摩士族から士族の特権をうばったのである。西郷は士族をもだました。
 「衆恨は私一身にあつまるでしょう」
 と西郷はいったが、近衛軍人たちは西郷恨まず、政府を恨み、具体的には同藩から出ている大久保をうらんだのである。
 高橋新吉のみるところ、廃藩置県による士族の不満に対し、その一手で蓋をおさえていたのは、西郷であった。
 「おれたちは、利用され、だまされた」
 と、近衛軍人たちはいった。それらの不満を西郷はなだめ、おさえ、苦しぬいた。西郷の分にあわぬ作業のために内心傷だらけになってしまっていたにちがいない。
 ところが、岩倉や大久保は、廃藩置県に安堵して、政府ぐるみといったほどの大陣容で外遊してしまったのである。西郷は留守をさせられた。留守中の最大の問題は不平士族の反乱をおさえることであったが、西郷にとってこれほど苦しい仕事はなかった。
 元来、廃藩置県を可能にしたのは近衛軍であったが、この薩摩系近衛軍人団そのものが不平の巣窟になったのである。西郷はすでにかれらを崩したかたちになっていた。薩摩系軍人たちは幸い西郷をそのようには見なかったが、それは西郷に対する情義によってそう見なかっただけで、理屈ではあきらかに西郷がだました。近衛軍人にいわせれば、たれが父祖代々の自分の権利をすてるためにわざわざ東京へ出てくるであろう。だまされたのである。
 西郷はだました意識をもち、そのことでくるしんだにちがいないが、やがて長い外遊から帰ってきた連中は、西郷のその苦しみを理解してやらなかった。
 大久保が理解すべきであった。
 しかし大久保には、そういう西郷の苦しみを倶に苦しむような、情緒感覚に天性欠けるところがあった。もし大久保にいわせれば、西郷は陸軍大将であるがためにそれを苦しむのが当然で、職分として苦しむべきである。自分は文官で、他のことに専念しなければならない。なすべきことが無限にあり、西郷の苦しみなどにかまっていられない、というようなところであったであろう。
 が、もしここで西郷に怨みごとを言わせるとすれば、
 「一蔵(大久保)ほど、冷酷な男はない」
 ということであったにちがいない。
 中央集権制による東京政権が確立したのは、廃藩置県のおかげである。廃藩置県がなければ岩倉や大久保が大きな顔をして為政者ぷっていられないのである。その廃藩置県を可能にしたのは薩摩系近衛軍人で、かれらは政府に騙されたとはいえ、その功績は大きかった。しかしかれらはことごとく政府に対して激怒している。
 大久保は、それに対して冷然としている。
 西郷はその大久保の態度に、配下の近衛軍人と同様、憤りを覚えたであろう。
 その西郷が、近衛軍人や士族たちの憤りを他にむけるために征韓論をもち出した。西郷としてはこれ以外に、これ以上おさえつづける自信がなかった。
 その征韓論を大久保が掛った。
 西郷としては辞職し、帰郷せぎるをえなかったであろう。高橋新吉はそういう西郷に同情しつつも、しかし国家を興す者ほ、その冷然たる大久保であると思わぎるをえない。

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