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<本文から> この佐賀の使者たちは、桐野利秋に面会した。
桐野はあたまから、
「いま蹶起するなどはとんでもない。時機はまだまだ熟しておりません」
と言い、そのことを繰りかえすのみで他のことはいっさい言わなかった。この点、桐野は西郷の意をよく承知していたといっていい。
江藤は、この報告を佐賀できいた。かれは思いとどまるべきであったが、しかしすでに佐賀でかつぎあげられてしまっている以上、薩摩が立たないから、という理由でいまさら中止するわけにはいかなかった。
結果からいえば、江藤は大久保のえじきになったといっていい。
江藤の佐賀ノ乱を契機に、明治権力は飛躍的に強化され、大久保一個の政治統制力もそれ以前とは見ちがえるほどに強くなり、士族たちから百姓軍とさげすまれた徴兵の鎮台兵も、すこしは自信にちかいものをもつにいたった。
江藤はむろん自分がそんな功績を明治国家に対して持とうとは思わなかった。
大久保がすかさずこの機をとらえただけである。もし佐賀ノ乱がなければ、明治政権がのちに西南戦争においてもっと狼狙し、もっともろさをさらけだしたにちがいない。
「一乱おこるごとに政府は強くなるのだ。小規模な乱なら、むしろ起ってくれたほうがありがたい」
と、大久保が言ったわけではないが、かれが言ってもすこしもふしぎはない。
さきに喰違門外で、土佐人武市熊吉らが岩倉具視を襲撃したが、この結果、この事件をすかさずとらえ、大久保と川路がポリスを大増員した。それによって首都警察を強化しただけでなく、政治警察においても大々的に密偵網を強化した。
無計画な反乱というものは、結局は政府の統制装置を強化させる以外のなにものでもないことを、武市らは証明した。
西郷の場合は、すでに幕末においてそれらを体験しっくし、この種の時勢眼や政略感覚については、この時代、大久保をのぞくたれよりも成熟しきっていた。かれは幕末、大久保とともに薩摩藩を指導し、長州藩や浪士たちが歯がゆがったほどに軽挙妄動を避けつづけた。ときには機略として会津藩のような佐幕藩とも握手をし、機が熟しきるまで立たず、当時、京都にあって政局の収拾にあたっていた徳川慶喜でさえ、「長州藩は最初から反幕的行動をとっていたからいまでも憎くはない。薩摩藩には言いがたいほどの恨みがある。あの薩摩藩が倒幕に立ちあがるとは思わなかった」と後年述懐したほどに、西郷と大久保のやり方は待つということについて徹底していた。 |
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