|
<本文から>
一方、廟議の翌十六日における大久保の心境は、もほや軽々払いものではなくなっている。廟議が、西野を渡韓せしめることに決した以上、かれはわが事は了ったと観念し、この政局を再々転させる気持がうすくなっていた。
ついでながら、西郷を敬愛するあまりその愛情の量だけの憎悪を大久保にむける伝統的人情が日本人の表につづいてきたが、大久保の人間についても、この時期のかれの悲痛な心境についても、その感触ほたまたま政敵になった西郷にだけしかわからないのかもしれない。西郷と大久保は年少のころからの友達であるだけでなく、幕末においてこれほど互いに信じあった盟友というのは、単に友情史というだけの面をとらえでも、日本人の歴史のなかではまれであるかもしれない。
明治後、二人の間に、国家が介在するようになった。いかなる国家を創造するかということについて、この二人は、極端にいえば、ふたりだけがその作り手の立場にいた。ただこの場合、二人のあいだで、作るべき国家像が両極のようにちがってしまったということのみがある。
さらには二人が背負っている火炎のごときものも、二人だけに共通し、二人だけしかその実感が通じあえなかった。旧主島津久光のことであった。この久光という、この当時、保守思想家のなかではその思想が極端ながらも第一級の教養人である人物が、西郷と大久保を指さして、
「不忠者」
とののしりつづけていたという事情である。西郷も大久保もこの旧主から不忠という武士に対して決定的な悪罵を投げられつづけることについて、少年のように心を痛ませており、ときに死の衝動にかられることもしばしばであった。この二人のもつ苦渋は、同藩の者にもわからず、まして長州人には想像を絶するものであった。その苦渋を共有しているという場において、西郷も大久保もたがいに相手に対してひそかに涙を流しっづけているような心の消息が感じられる。
この十六月は、大久保は午後から外出し、同藩の長老である伊地知正治のもとで囲碁を打っている。もっともこの日、非征韓派の薩摩系策士が二人大久保家を訪ねている。一人は黒田清隆であり、かれは早朝と夜に来、ついで西郷の弟の従道も、朝たずねてきている。
十六日夜になって、大久保は岩倉からの手紙の返事を書いた。以下、意訳する。
「お手紋を夜遅く読みました。御書面の趣はよくわかりましたが、しかし私には心を決していることがあり、こんにちともなればもはや得失論をする気拝もありません。(後略)もし他日、国家に有事の時がありますれば一死もって報じたく思いますし
一死もってというくだりほ、十七日付の三条実兼への手批にもある。もし将来、戦端がひらかれるような禍があれば、とし、
「兵卒とも相成り、一死もつて天恩の万分の一に報じたく」
という文章である。以上、原文のすがすがしさからみて、十六日から翌十七日にかけての大久保の心境にはもはや壌菜の政略を試みて頚勢を拘復しょうというような気持はなかったとみていい。 |
|