司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          翔ぶが如く 3

■非征韓論が一時敗れた大久保の心境

<本文から>
   一方、廟議の翌十六日における大久保の心境は、もほや軽々払いものではなくなっている。廟議が、西野を渡韓せしめることに決した以上、かれはわが事は了ったと観念し、この政局を再々転させる気持がうすくなっていた。
 ついでながら、西郷を敬愛するあまりその愛情の量だけの憎悪を大久保にむける伝統的人情が日本人の表につづいてきたが、大久保の人間についても、この時期のかれの悲痛な心境についても、その感触ほたまたま政敵になった西郷にだけしかわからないのかもしれない。西郷と大久保は年少のころからの友達であるだけでなく、幕末においてこれほど互いに信じあった盟友というのは、単に友情史というだけの面をとらえでも、日本人の歴史のなかではまれであるかもしれない。
 明治後、二人の間に、国家が介在するようになった。いかなる国家を創造するかということについて、この二人は、極端にいえば、ふたりだけがその作り手の立場にいた。ただこの場合、二人のあいだで、作るべき国家像が両極のようにちがってしまったということのみがある。
 さらには二人が背負っている火炎のごときものも、二人だけに共通し、二人だけしかその実感が通じあえなかった。旧主島津久光のことであった。この久光という、この当時、保守思想家のなかではその思想が極端ながらも第一級の教養人である人物が、西郷と大久保を指さして、
 「不忠者」
 とののしりつづけていたという事情である。西郷も大久保もこの旧主から不忠という武士に対して決定的な悪罵を投げられつづけることについて、少年のように心を痛ませており、ときに死の衝動にかられることもしばしばであった。この二人のもつ苦渋は、同藩の者にもわからず、まして長州人には想像を絶するものであった。その苦渋を共有しているという場において、西郷も大久保もたがいに相手に対してひそかに涙を流しっづけているような心の消息が感じられる。
 この十六月は、大久保は午後から外出し、同藩の長老である伊地知正治のもとで囲碁を打っている。もっともこの日、非征韓派の薩摩系策士が二人大久保家を訪ねている。一人は黒田清隆であり、かれは早朝と夜に来、ついで西郷の弟の従道も、朝たずねてきている。
 十六日夜になって、大久保は岩倉からの手紙の返事を書いた。以下、意訳する。
 「お手紋を夜遅く読みました。御書面の趣はよくわかりましたが、しかし私には心を決していることがあり、こんにちともなればもはや得失論をする気拝もありません。(後略)もし他日、国家に有事の時がありますれば一死もって報じたく思いますし
 一死もってというくだりほ、十七日付の三条実兼への手批にもある。もし将来、戦端がひらかれるような禍があれば、とし、
 「兵卒とも相成り、一死もつて天恩の万分の一に報じたく」
 という文章である。以上、原文のすがすがしさからみて、十六日から翌十七日にかけての大久保の心境にはもはや壌菜の政略を試みて頚勢を拘復しょうというような気持はなかったとみていい。

■征韓論が敗れた原因の一言

<本文から>
  三条は両手をひぎに置いているが、しきりにふるえている。意味もなく顔面がうごき、ときどき唇のはしがひきつった。西郷はその様子をみてよほど気の寺におもったのであろう。発言するとき三条の両眼を見ようとせず、利島や板垣を見ていった。
 三条はそのことでも救われたかもしれない。あるいは三条の守りにつよい性格がそうさせたのか、
 「勅裁というものは」
と、繰りかえしつぷやきつづけた。勅裁というのは太政大臣、右大臣、参議がそろっているときに参内し奏上してそれをあおぐべきで、今日はあいにく岩倉右大臣が病欠しているためにそれはできない、と三条は言いつづけるのである。
 西郷はしかし、それを不可とした。十五日の廟議決定のとき三職ぜんぶそろっていた。その決定を奏上するのだから、今日の出欠状況とは関係のないことである、といった。
  三条はたまりかね、
 「では、一日だけご猶予ありたい。あすになってもなお岩倉右大臣が登庁しなければ、そのときはかならず勅許を得べく奏上する」
とまでいった。
 西郷はそれでもなお強硬に、
 「なぜあすといわるる。いますぐでもおなじではないか」という旨のことを主張したが、しかし 三条もゆずらず、両者の主繋がいたずらに並行した。
 評議が単調になり、一同に疲労の色がみえてきたころ、後藤象二郎が西郷にむかって提案した。
 「たかが一日のことです。待っても不都合はごぎるまい」
といったために、西郷も承諾せぎるをえなくなった。この後藤の一言が、西郷渡韓の一件を歴史のかなたに流したといっていい。三条はその翌早暁に、人事不省におちいったのである。

■西郷は全体像を見ないと評価できない

<本文から>
 西郷についての評価の困難さは、その能力の部分々々の目方を量ることでは西郷が出て来ないということである。    
 西郷は、権謀も出来、寝業の政略もできたが、しかしその面での辣腕者ならばかれ以上の者が他にもいた。
 また西郷は軍人としてはかならずしも軍略家でなく、むしろその才能は薄い。さらに学者としては多分に独学的な教養人というにすぎず、ただ文章家としてはあるいは同時代においてすぐれているといえるかもしれないが、しかしかれ自身、口舌の徒になる志向がないだけでなく、また文章でもって世を動かしたということも、当然ながら無い。
 さらにはまた経世家としては実務にやや昏いということで西郷自身もみとめており、以上いずれも部分々々につき過ぎては西郷の全体を見ることができず、要するにいちいちの能力論をもってしては、どうにも西郷という人間が出て釆ないのである。
−西郷とは、何者なのであろう。
 この稿によって筆者は、垣根を過ぎてゆく西郷の影をすこしでも見たいと思っているが、いまかれの片影を見て察するとすれば、かれにはどうにもならぬ神聖なものがあったらしいということである。
 かれは本気で正義が通るものだと思っていたし、本気で人間の誠実というものは人間もしくは世の中を動かしうるものだと信じていた。むろん西郷の眼光は人間というものは自他ともに汚濁なものだということも知っており、さらには世の中は多分権力欲をもふくめた欲望で動くものだということも知っている。しかし西郷は知りつつもほとんど人工的としか言いようのない超越の仕方で、正義と誠実を信じようとし、げんにかれは幕末にあっては自分のその部分を電光のようにきらめかせることによって人間をも集団をもまた世の中をもうごかした。西郷が放射するその委間のきらめきのよケなものを、ひとびとは政治的人間の徒顆のなかではほとんどありうべからぎるものとして感じた々西郷においてひとびとがなにか神聖なものを感じていたのは、そういうことであろう。
 後年、西郷が死んだとき、たまたま征韓論では積極約な敵方にまわった薩摩の黒田清隆が、天をあおぐような述懐として、
 「惜しき仁者を死なせた」
と嘆じたのは、西郷の本質を多少ともうがっている。
 西郷は単なる仁者ではなく、その精神をつねに無私な覇気で緊張させている男であり、その無私ということが、西郷が衆をうごかしうるところの大きな秘密であった。人間は本来無私ではありえず、ありえぬように作られているが、しかし西郷は無私である以外に人を働かすことができず、人を動かせなければ国家や社会を正常の姿にひきすえることはできないと信じている男だった。かれのおもしろさは年少のころにその秘密を知ったことであり、さらにはあぶら汗をながすような放下の精神作業をくりかえすことによってそういう自己をつくり、壮年期をむかえたことである。しかもかれの幸福は、かれ自身がもつその個人的教義が、現実において裏切られなかったことであった。維新における多くの仕事を、かれはその個人的教義によってやってのけたのである。
 ただ、維新後は、大きく成功したその実例が、かれのその教義についての自信を深めさせた。
 「自分はもはや世の進運に役立たぬ旧物」
と、かれはかつて板垣退助に洩らしながらも、最後の情熱を征韓論にかたむけたとき、依然として教義どおりにやろうとした。
 ところが、明治政権は旧幕府ではなかった。かれは旧幕府より明治政権を小さく見ていたが、しかし旧幕府がすでに塵史的生命をうしなっていたのに対し、明治政権は弱小ではあったが、実生してまだ若々しくある。若いというのは、この誕生したばかりの権力を懸命に守ろうとする情熱が権力内部に構盗していたとしかおもえない。

■西郷が東京を離れるときに向かったの政敵のは大久保であった

<本文から>
  死については、幕末において自殺の衝動がすくなくとも二度おこっている。幕末の早い時期、井伊直弔の安政大獄の進行に絶望し、かれが京都から保護してきた僧月照と磋摩潟に投身したことはよく知られている。幕末のあとの段階で西郷ぎらいの島津久光が西井のやったことを非とし、西郷の活動を執拗に封じたとき、大久保でさえこの薩摩藩の特殊事情に絶望し、西邦と刺しちがえてともに死のうとしたほどであった。
 また明治維新が成立したとき、西郷は自分の歴史的役割が終了したとみた。成功してなお官にいることは革命を栄達のためにすることになり、さらにはまた久光がその点に疑いをもち、赦しく非難しつづけていたために、退隠を考え、北海道にコサックを摸した屯田軍用を置き、その着想の実現を黒田清隆や桐野利秋らに命じ、自分も、
 「北海道にて首姓し申す」
といっていた。そのやさきに征韓論がおこったためにこれをもって自分の生涯の退きどき(この場合は死だが)にしようとした。大久保のいう「例の気質」とはそういうことをさす。大久保が、
 「渡韓の件を中止するという勅命が出てからでは面働がおこるとみて急に退去したにちがいない」
といっているのは、決裂が世間に公表されてかちなお自分が東京にいるとこれを担ごうとする血気の集団がさわいで都下が騒擾すると見、いそぎ退去した、と大久保はみるのである。大久保の観察はじつに正確であった。
 二十三日、夜があけると、西郷は東京をひきはらうべく行動しはじめた。
 老僕の熊吉が、柄のながい斧をふりあげ、裏庭で薪を割っていた。熊吉は父の代からの西郷家の下僕で、西郷はこの無口な老人が好きだった。西郷は熊吉の薪割りを縁側からながめていたが、熊吉が最後の新をサクリと割りおわったとき、
 「熊吉さァ」
 と、西郷は声々かけた。みなをここへ集めてたもらんか、と命じた。
 みなといっても熊吉をふくめて五、六人でしかない。書生の児玉、小牧、田中、それに若い下僕の竹内矢太郎らである。
 「向島へ鉄砲打ちにゆく。熊育と新次郎(小牧)、供せいや」
 と、いった。これが西郷の一同への別れのつもりであった。東京うまれの児玉勇次郎などはくにへ連れて帰れないからである。
 そのあと、熊吉に金銭の整理をさせた。あすにでも一同にこれだけあたえよ、とその金額を熊吉に指示したが、熊吉はこの異常な指示についてべつに反間しなかった。
 「たれにも、わしどこへ行ったかいうな」
 と西郷は一同に言い、そのあと粗末な猟衣に着かえた。
 小網町の寓居を出たのは午前八時ごろだが、向島の越後星の寮についたのは午後の陽がすこし傾いてからである。
 この間、手まどったのは西郷は行動を秘密にしながらもただひとりの人物に暇乞いするためであった。
 ただひとりの人物とは、桐野少将でも篠原少将でもなかった。
 大久保利通である。
 もし桐野ら西郷の親堀者がこれを知ればあるいは信じないかもしれない。西郷は東京退去を桐野にもうちあけず、大久保にのそっちあけ、大久保にのみ暇乞いした。西郷は結局、自分をもっともよく知る者は大久保であると思っていたし、たとえこの期になって政見が相違し激しく抗争したにせよ、西郷が畏敬できる男は桐野ら西郷派が憎悪している大久保しかいなかったということは、西郷の人間関係の見景として痛烈ななにかを物語っている。
 大久保は西郷の突如の来訪に、ややおどろいたらしい。
 西郷は大久保の座敷にだけは遠慮がなく、そのままあがった。
 座敷に先客がいて、小柄な男だった。西郷が入ってきたことでよほどおどろいたらしく、風に散るような素早さでずっと下座にさがった。長州人伊藤博文である。伊藤はこのたぴの政争で大久保派のもっとも有能な謀客として奔走し、大久保派が勝ったのはほとんど伊藤の奔走の功によるといっていいほどのものであるだけに、伊藤は西郷にはうしろめたかった。
 「拙者は、はずしましょうか」
と、伊藤はいったが、西郷はかまいません、と伊藤に会釈し、大久保と相対った。
 西郷はしばらくだまってすわっていた。こういう場合の沈黙に耐えるのは薩摩人の特赦であるが、その点においては大久保のほうがむしろ深刻な耐久力があるといえる。大久保は背筋をのばしたまま黙っている。
 ほどなく茶菓がはこばれてきた。
 菓子は、カステラであった。この菓子は室町末期にポルトガル人が日本に伝えたために、西郷もむろんそれを知っている。手をのばし、一きれとってロに運んだ。糖分は埋るために医者にとめられているのだが、西郷はあまいものがすきであった。これより以前、かれが帰朝早々の大久保をたずねたとき、議論が適わず、そのまま席を立って辞してしまったことがあるが、辞して路上に出たとたん、同行者に、
「あンカステラはうまそうでごわしたな。おはん、舞もどっせぇ、あゆ(あれ)、取って来て賜もはんか」
 と、半ば本気でいったことがある。
 西郷は一切れをニロほどで食い、煎茶をのみ、やがて、
「一義(大久保)どん、俺はくにへ帰っど」
 ぼそりといった。も
「辞表を送っておき申した」
 それに対し、大久保はむっとしたらしく、蒼白といっていい顔にめずらしく血がのぽった。
 (一蔵めは、怒っている)
 と、西郷はすぐ察し、そのあと、双方だけがわかる無言ロの対話があった。「また仕事の仕くさしで帰るのか」というふうな抗議が大久保の表情に出、それに対し西郷のほうは「怒らんでもよか」というふうにわずかながら微笑でむくいている。
 「今後の国事は、よろしゅう頼ンみやげ申す」
 と、西郷がいうと、大久保はたれにもみせたことのない無遠慮な怒気をみせ、
「それは吉之助どん、俺の知った事か。いっでんこいじゃ(いつでもこうじゃ)。いまはちゅう大事なときにお前さァ逃げなさる。後始末は俺せなならん。もう、知った事か」
  と、いった。
 西郷も、これには閉口したらしく、しばらく太い眉を垂れるようにしてうつむいていたが、やがて、
 「仕様がない」
と、つぷやき、立ちあがった。大久保はよほど腹が立っていたらしく、玄関まで見送るということさえしなかった。両人は幼いころからの間柄だけにそこに他人の容唆すべからぎる呼吸があるようだったが、終始この光景をみていた伊藤樽文がさすがに見かね、あとで、
 「さきほどのお言葉、あれではちとひどすぎるように思いましたが」
 というと、大久保も目のふちに隈を黒ずませ、先刻とは別人のような疲れを見せて、
 「私もそう思います」
 と、小声でいった。
 この日、両者は永遠に別れることになった。

■川路利良は西郷とのことは私的であるとなびかなかった

<本文から>
  この稿は、川路利良の渡仏と帰国からはじまっている。
 川路の帰国は、このとし(明治六年)の夏であった。その後征韓論が決裂し、西郷が風のように東京を去り、さらにほ近衛将校が騒擾して集団辞職という事態がおこってしまっている。帰国してわずかのあいだに日常の時間の感覚が狂うほどに無数の事件がむらがりおこった。維新国家が、まだ近代国家としてのかたちをなさないままで音をたてて亀裂しはじめている。
 その亀裂は、大地がこのまま割れてしまうのではないかというほどに大きく、薩摩人である川路利良などはその亀裂のなかに身を吸いこまれてゆきそうな状況におかれていた。
 「川路どんは辞むっじゃろ」
 辞めるだろうという観測が、薩摩人仲間では常識になっていた。川路が郷土身分から奇蹟のように出頭してこんにちの地位についたのは、まったく西郷ひとりのひきたてによるもので、その点、桐野とかわらない。
 「正之進(川路)どん、おはんはポリスのほうをやン見やンせ」
 と、明治四年の秋に西郷がいってくれなければ川路の存在などはなかった。西郷は上士出身の薩摩士族を近衛将校。下士官とし、郷土出身のそれをポリスにした。これによって薩摩郷土二千人がポリスになって東京に駐まり、市中を巡回した。このほか勤王系だった各府県からも徴募し、あわせて三千余人が、フランス式の官服を着て任務についた。そのかしら(羅卒総長)の位置に川路がついたのは明治五年五月であり、つづいて同八月に大警視になり、同九月に渡仏を命ぜられた。
「正之進ビん、フランスに行たっ見やはンか」
 と、いってくれたのも、西郷である。西郷がそうすすめてくれなければ、川路は渡仏しておらず、かれの新国家観もできあがっていなかったであろう。
 川路ほど西郷の恩顧をうけることが深かった者は桐野をのぞいてはいなかった。網野利秋や篠原国幹流の進退感覚でいえば、川路はまっさきに辞表をたたきつけて西郷のあとを追わなければならない。
 が、川路は、うごかなかった。
 −西郷先生とのことは私事である。
 と、はっきり言いきり、明晰を好む川路的論理でもって以後のかれの言動にすこしのよどみせなかったのは、この男の個性のほかに、おそらく欧州で確立させたかれの新国家観によるものであったであろう。かれによればかれのポリス制度は「国家の繁栄と人民の幸福をもたらす」と、あたかも文明を作る魔法の箱のようなものであるとおもっている。その魔法の箱をつくりあげるべく意気ごんで帰国したのに、数カ月後に辞職するなどということは、この粘着力のつよい性格の男にできるはずがなかった。

■西郷には時勢から脱落した旧勢力や先走りすぎた者を容れてくれる印象があった

<本文から>
 「旧幕臣という初老の男は、ところどころ時勢の苛烈さについて怨ずるかのような口調になりつつも、西郷という人物についてだけは、
 「あの方ばかりは、どうも他の大小の官員たちとはちがうようですな」
 と、巨大な例外的存在である⊥てつに思っているらしかった。
 具体的にどういう例外的存在であるのかは旧幕臣はいわないのだが、いうならば、時勢から脱落した旧勢力の者たちや、あるいは時勢に先走りすぎて世に適わない者たちでも、西郷のもとにさえゆけば大きく容れてくれるというような印象をこの旧幕臣はもっているらしかった。
「賊軍だった庄内藩に寛大だったのもあの人の意志だといいますしね。たとえ時勢に先走った乱臣賊子でも、志さえ潔ければあのひとは容れるにちがいありませんよ」
 と、旧幕臣はいう。この混乱して日本中が悲境をあげている新時代にあって、新政府はその悲鳴を酷薄なほどに黙殺している。西郷ならば聴いてくれるのではないか

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